俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

僭越

2016-08-31 10:07:48 | Weblog
 カント以前の哲学者は理性の能力を無限と考えて砂上の楼閣とも言うべき形而上学を築き上げた。彼らは世界の起源とか神の存在証明などの無意味な思弁のために2000年を費やすことになってしまった。カントは有限世界の現象しか知覚できない人間には無限に関する思索は不可能として理性の限界を説いた。だから彼の主著は「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」であり彼の哲学は「批判哲学」と呼ばれている。しかし彼は不可知論や懐疑論を唱えた訳ではない。逆に、理性の限界を示すことによってその範囲から逸脱せずに思考することを哲学のあるべき姿とした。
 科学の時代を迎えて科学を万能と考える愚かな人が少なくない。しかし科学の源は「自然哲学」だ。ニュートンは自ら自然哲学者と名乗っているしアリストテレスの著書の多くは哲学書と言うよりも博物学に関する著作だ。哲学と同様に科学もまた可能なことと不可能なことを仕分けして科学に可能なことに専念しなければオカルトに堕落しかねない。
 僭越の典型例は地震学者だ。彼らは地震の発生場所と時期を予告できるとして研究費を掻き集めた挙句何の成果も残さなかった。彼らに可能なことは将来地震予知を可能にするための基礎研究であり現在の地震予知ではない。騙した地震学者やその片棒を担いだマスコミが悪いのは勿論のことだが、騙された官僚や政治家や国民も阿呆だ。
 地震学以上に暴走しているのが医学だ。漫画の神様・手塚治虫氏の代表作の1つである「ブラックジャック」では主人公の天才外科医が医療の限界に突き当たっては自らの無力を呪っているが、現実の医師は傲慢そのものであり何でも治療できると思い上がっている。しかし現代医学に何が可能なのかを把握しておく必要がある。私は医学に可能なことは3つしか無いと考えている。自然治癒力の支援と特定の感染症の治療と栄養障害の克服だ。
 医学の本来の役割は自然治癒力の支援だ。医療は怪我や骨折さえ治療できない。医療に可能なことは一時凌ぎだけだ。自然治癒力が上手く働けるように止血や整骨などによって環境を整えることが最善の仕事であり、治療の主役は自然治癒力だ。
 医学は多くの感染症を克服した。このことが医学を思い上がらせて傲慢にしたと言える。しかしそれは、感染症の正体が病原体であることを突き留めてその一部を殺害できるようになったに過ぎない。しかも薬品を使って殺せるのは生命体に限られる。つまり病原菌や寄生虫が原因であればその生命を奪うことによって患者を治療できるが、生命体ではないウィルスを殺すことなどできない。ウィルスによる感染症に対して医学は殆んど無力であり、医療として可能なことは免疫力の支援に限られる。つまり充分な栄養を補給することなどによって患者の自然治癒力を高めることぐらいしかできない。最もありふれたウィルス性感染症である風邪でさえ治療できないのが現状だ。
 病原菌との戦いの旗色も悪くなりつつある。医師が馬鹿の1つ覚えのように抗生物質を乱用するから病原菌が多剤耐性菌に進化しつつある。個々の寿命が短い病原菌は猛烈な早さで進化するから抗生物の進歩が置き去りにされている。進化と進歩の競争は細菌の側の勝利に終わりかねない危機的な状況だ。
 森鴎外が軍医として大失敗をしたのが脚気の治療だ。鴎外は脚気を感染症と信じて全力を尽くしたが却って患者を増やすことになってしまった。脚気の治療に必要なのはビタミンB1の補給であり、医療ではなく栄養補給によって快癒する。
 このように医学に可能なことは極めて限定的だ。医学はこの事実を踏まえて、可能な治療に専念すべきだ。治せない病である癌に対する悪足掻きや病気ではない贋患者に対する医療紛い行為からは一旦手を引いて、基礎研究に徹すべきだろう。できないことをできると信じてデタラメを続けていれば患者を苦しめるだけではなく、国民の資産を食い潰す金食い虫になってしまう。 

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