俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

宝くじ(2)

2008-12-16 13:37:39 | Weblog
 私は宝くじを買ったことがない。宝くじのような低配当率(50%)のギャンブルに参加しようと思わない。何しろ「多・空くじ」なのだから。
 当たっても幸せになれる訳ではない。一時騒がれた2億円長者殺害事件は特異な例ではない。ヨーロッパでは宝くじ長者が家にバリケードを築いて銃で武装したという話まである。
 宝くじで得られるのは正にアブク銭だ。アブク銭だから有象無象の連中がタカりに来る。
 宝くじの好きな人は頭が悪いとしか思えない。当選者の出た宝くじ売場には長い行列ができる。沢山の宝くじを売った売場で当選くじの出る確率が高くなるのは当たり前のことだ。しかしその売場で売る宝くじの当選率が高くなる訳ではない。こんな基礎的な確率論を理解できない人に宝くじを売りつけるのは痴呆症の人に訳の分からぬ金融商品を売るのと同じくらい非良心的なことではないだろうか。

思考の限界

2008-12-16 13:27:14 | Weblog
 思考力は無限だという考えがある。思考は一瞬のうちに世界の果てまで到達できる。何百億年の過去や未来、あるいは何兆光年の彼方まで思考は飛翔できるからだ。
 しかしこれは傲慢な考えだ。人間の思考は経験に基づく極めて狭い範囲にしか及ばない。言わば井の中の蛙のようなものだ。このことについてはカントが「純粋理性批判」で論証した。
 カントは①時間と空間②モナド③自由④必然的存在体、を挙げてこれらの可否を主張することが不可能であることを明らかにした。
 例えば時間については①始まりが無ければ現在に至り得ない②始まりがあるならそれ以前も想定可能、という2つの理屈を「無限を経験できない人間理性の妄想」として両者を否定した(「2律背反」)。
 理性は所詮、経験に基づいてしか思考できない。しかもその「経験」そのものが事実をありのままには捕らえない。知覚し得るように変形・矮小化してしか受け入れない。
 例えば月・太陽・星までの距離はそれぞれ大きく異なる。それにも関わらず同じ距離であるように見えるから「天球」となる。これは丁度、3つまでしか数えられない幼児にとって4つ以上が「沢山」になるように、理解できるレベルまでしか「経験」は受け入れない。理解を超えるものは理解可能な最大限のものへと矮小化されてしまう。従って経験不可能な無限や永遠を使って論証しようとする試みは必然的に矛盾に陥る。
 宗教家は無限や永遠を使って詭弁を弄する。こんな話に騙されてはならない。無限や永遠を使った話は高尚な話ではなく無意味な話なのだから。

ロゴス

2008-12-09 13:49:54 | Weblog
 「初めにロゴスありき。ロゴスは神と共にありき。ロゴスは神なりき。」(新約聖書「ヨハネによる福音書」より)
 日本語の聖書ではロゴスは「言葉」と訳されている。私は昔からこの訳語に不満を持っていた。言葉は表現のためには非常に不便な道具だ。オーロラを言葉で表現するのが不可能なように、思想を言葉で伝えることは難しい。相手が同等のレベルに達していなければ言葉は伝わらない。
 言葉に神秘的な力を認めて言葉を神のように崇め奉るのは嘘つきの詩人と、同じく嘘つきの宗教家だけだ。
 新しい思想にはそれに該当する言葉が無いからそれを表現することは困難だ。言葉として存在するのは既に共通認識となった概念だけだ。例えば赤外線を知覚することができる人がいてもその色を伝達することはできない。せいぜい「赤外線色」と一人で名付けるぐらいしかできず、言葉としての意味を持たない。
 ところで「初めにロゴスありき」に対してニーチェはこんな見事なパロディを何かに書いていた。ロゴスに「無意味」を充てて「初めに無意味ありき。無意味は神と共にありき。無意味は神なりき。」
 私はもう少し真面目に「理(ことわり)」を充てたい。古典ギリシャ語辞典には「論理、真理」という訳語が充てられており「論理」と訳する人もいるが、論理は人工的な約束事だ。論理以前の「法則」や「超越的なルール」と捕らえたほうが良いと思う。
 何らかの「法則」が見つけられて、それに基づいて世界は秩序付けられた。原始状態においては混沌であった世界が何らかの秩序を持つことによって意思の疎通が可能となり、人間の大規模な共同生活も可能になったのだろう。

保険

2008-12-09 13:32:22 | Weblog
 保険は加入者の大半が損をする仕組みだ。もしそうでなければ保険会社の経営は成り立たない。加入者はそれを承知で、万一を考えて加入する。
 航空保険を考えれば分かり易い。大半の人は無事に飛行を終える。保険金は掛け捨てにされる。それでも多くの人が保険に加入するのは最悪を想定して、そのデメリットを軽減しようとするからだ。
 健康保険も同じことだ。大半の人が損をする。私事だが、私は毎月約20,000円を会社の健康保険組合に支払っているが殆ど掛け捨ての状態だ。ヘビースモーカーかつヘビードリンカーではあるが、水泳の効能か、2年に1度くらい歯科で治療を受ける以外、全く医療機関を利用することは無い。(今年だけは例外だ。肺ガン疑惑のせいで3度も無駄に精密検査を受けさせられたから。)
 では誰が得をするのか。病弱な人や慢性病に苦しむ人だ。弱者の生活を守るために医療保険制度があると言っても間違いではなかろう。
 この相互扶助という機能を考慮せず、医療保険金を自らの意思で滞納しておいて、いざ自分や子供が病気になったら「医療費が高い」と文句を言うのは卑怯だ。これは航空保険に加入せずに事故に会った人の遺族が、加入してもいない保険会社に支払いを求めるようなものだ。
 日本国民は健康保険に加入することが義務付けられている。義務を果たさない者に権利がある筈が無い。こんな理不尽な連中を甘やかすべきではない。
 アメリカには日本のような医療の国民皆保険制度は無い。このことをマスコミは医療制度の遅れとして報じ勝ちだが、無保険者を甘やかすような現状ではむしろ任意保険制度のほうが公平だろう。大半の保険加入者が必要以上に負担している制度にタダ乗りしようとするような特権者を認めるべきではない。

外国人労働者

2008-12-09 13:12:46 | Weblog
 景気が悪化しているために最近では余り聞かれないが、一時期「人口が減少するから国力を維持するために外国人労働者を受け入れるべきだ」という主張があった。実際にブラジルから日系二世や三世を単純労働者として、フィリピン人を介護士や看護士として受け入れたりした。
 今では外国人を受け入れることより日本人の雇用確保のほうが優先されている。では外国人労働者はどうなったか。マスコミは余り伝えないが、多くは使い捨てにされて帰国しただろう。
 外国人は奴隷なのだろうか。日本人が働きたがらない3K(きつい・汚い・危険)の職場で低賃金で働かされ、景気が悪化したら真っ先に切り捨てられる。日本人は外国人には人権を認めないのだろうか。こんな国に働きに来るのは犯罪によってボロ儲けを企む者だけになってしまうだろう。

美はアンチテーゼ?

2008-12-02 13:48:19 | Weblog
 もし人類が健康で賢くなろうとするならその方向に男女の嗜好が向かうことになる筈だ。これを「正の方向性」と言って差し支えなかろう。
 しかし全然違う種族内淘汰が起こっている。女性が細いことや頭が小さいことが「美」として高く評価されている。つまり不健康で脳が小さいことが「美」とされている。
 なぜこんな不合理なことが起こるのか?なぜ正の方向性に逆行するような価値観が生まれるのか?
 1つの仮説として、同じ方向への進化を防いでいるということが考えられる。同じ方向への進化は絶滅を招きかねない。例えば恐竜は巨大化し過ぎたために気候変動に耐えられず絶滅した。現状の環境に完璧に適応すれば、環境が変われば忽ち不適応者になってしまう。
 カンボジアのポルポト政権は賢い者を虐待した。知恵のある者は原始共産制には馴染まないからだ。ヒットラーがユダヤ人を虐殺したのはユダヤ人がゲルマン民族に匹敵するほど聡明だと考えたからかも知れない。
 賢さや健康という偏った方向へと進化させないために「美」という異なった価値観がそれらに背く淘汰を積極的に生み出そうとしているのかも知れない。

リストラ(2)

2008-12-02 13:36:21 | Weblog
 企業の業績不振の責任は誰が取るべきだろうか。少なくとも一般社員や派遣従業員や外国人労働者ではない。多分、経営者および過去の経営者だろう。前に使ったことのある寓話を再度掲載する。
               *             *
 下手な陶芸家がいた。彼の作る器はいつも色も形も駄目な作品ばかりだった。彼は「この出来損ないの丼鉢め!」と言って毎日器を叩き割っていた。しかし責任を問われるべきなのは器ではなく彼自身だろう。
               *             *
 社員はその企業の将来性に期待をして就職する。入社後に業績が悪化すれば期待通りの報酬を得られないのだから彼は間違いなく被害者だ。その被害者がなぜ更なる追い討ちを受けねばならないのだろうか。
 若く生を満喫できる時期に自由を奪ってコキ使ったあげく年をとったら老廃物かゴミのように扱う。一生の一番大切な時期を無駄遣いさせておきながら使い捨てにしようとするのでは、まるでトカゲの尻尾切りだ。
 入社する社員はその企業に入社しなければ他の企業を選ぶこともできた。企業はその社員の一生を台無しにしてしまったことに対して責任は無いのだろうか。
 現在の従業員に責任を押し付けるよりは、誤った舵取りをして経営を悪化させた過去と現在の経営者の責任を追及すべきだろう。
 高給と高額の退職金を受け取った経営陣の責任を問い報酬の一部でも返還させるべきだろう。彼らには権限だけではなく責任もある。株主に対する責任以上に従業員に対する責任のほうが重大だ。

自転車

2008-12-02 13:18:56 | Weblog
 自転車は石油の代わりに皮下脂肪をエネルギーとして使うのだから、本人の健康のためにも地球環境のためにも良い、理想的な乗り物だ。しかし日本では場当たり的な対応のために「歩道を走る凶器」になってしまっている。
 車道の自転車が危険(邪魔?)という理由で自転車を車道から追い出して歩道を走らせれば、今度は歩道の歩行者が危険になることは分かり切ったことだ。これは大型肉食魚に食べられることを避けるために中型肉食魚を小型魚の水槽に移すような馬鹿げた対策だ。
 駅前の不法駐輪によって歩道を狭くされ、前方からも後方からも自転車の危険に晒される歩行者にとって自転車は厄介者でしかない。
 そもそも最初の分類が間違っている。車道と歩道にしか分類していないからだ。自転車は本来車両ではなく、かと言って歩行者でもない。それをどちらかに分類しようとするから無理が生じる。自転車道を作れば殆どの問題は解決する。
 自転車道の無い現状ではどうすべきか。原則としては車道の左端を走り、徐行する自転車に限り歩道通行を認めるということではないだろうか。
 いっそのこと不法駐輪ゾーンを自転車道にしてしまったらどうだろうか。不法駐輪ゾーンは道路として使えていないのが現状だから歩行者にとってデメリットは無い。むしろ自転車を隔離できるというメリットのほうが大きい。
 低コストで自転車道ができるのだから自治体や歩行者や自転車利用者の3者にとってメリットとなる画期的な対策となる筈だ。
 しかし大きな問題が残る。どこが新たな不法駐輪場になるかということだ。多分、新・自転車道に止めることはないだろうから、歩道に不法駐輪されて今より更に狭くなると予想される。しかしそれでも現状よりはマシだ。一番悪いのは歩道が無法地帯になっていること、つまり現状が最悪なのだから、今以上に悪くなることは無いだろう。