俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

群集心理

2011-07-19 15:10:57 | Weblog
 なでしこジャパンの快挙にケチを付ける気は全く無いが、スポーツバーなどで大はしゃぎする集団は気持ちが悪かった。
 全員がなでしこを応援するのだから感情は共有される。個々のプレーに対して全員揃って一喜一憂できる。本人達は連帯感を持っているつもりなのだろうが私には醜い群集心理としか思えない。
 本当のファンもいるだろうが俄かファンも少なくなかろう。俄かファンはそれまで女子サッカーになど全く関心が無かったにも関わらず日本代表が勝つことだけに関心を持つ。一緒に騒いで連帯感を得たいだけだ。
 反原発の盛り上がりにも同じような違和感を覚える。反原発のムードがあるから反原発という多数派になろうとする。2年前の衆院選での民主党の地滑り的勝利のようなものだ。理性ではなく情緒で社会が動いている。
 喜びを共有したいという欲求が、多数派になりたいという欲求に変わる。勝ち馬に乗りたいという欲求がファッションとなりファッショへと繋がりかねない危険な国民性だ。
 日中戦争も日米戦争も決して軍部だけの暴走ではない。日本人という群集が強い日本を望み、国民の熱狂的支持があったから軍部は勝ち目の無い戦争であろうとも戦わざるを得なかった。日本軍は国民の期待を一身に背負っていた。日本軍の暴走は日本国民の群集的熱狂が招いた悲劇だ。犠牲者は浮かばれない。ムードに流されてメダカのように同じ方向へと向かおうとするのが日本人の最大の欠点だ。

努力主義

2011-07-19 14:49:59 | Weblog
 日本では成果主義ではなく努力主義を採る。成果と努力に関しては次の公式が使われていると思われる。成果=能力×努力+運。
 この式を組み替えると努力=(成果-運)÷能力となる。頑張った人を高く評価するという国民性からすればこれは妥当なものと言えよう。この式を使えば個人の努力を正当に評価することができる。高い能力を持っている人が努力せずに成果を挙げても評価しないのだから公平に努力度を評価することができるという理屈だ。
 考え方としては賛成できるがこれはとんでもない矛盾を抱えている。能力のある人ほど評価されないということになるからだ。その一方、能力が乏しいのに成果を残した人は過大に評価される。
 かつて巨人に江川卓という投手がいた。「怪物」と呼ばれたとおり高校時代の能力は桁違いで、対戦するチームはいかに攻略するかではなく「いかにしてノーヒットノーランを免れるか」に的を絞って戦略を練ったそうだ。その後、法政大学ではかわすピッチングを覚え、プロ入りしてからは「手抜きの江川」という有難くないレッテルを貼られた。その象徴的なプレーはオールスター戦だった。8人連続三振で終わったからだ。本気で投げていれば9人連続三振は可能だった筈だと非難された。
 努力が大好きな日本人のメンタリティからすれば江川投手は好ましからざる人物だ。そのせいか現役引退後は監督にもコーチにも就任していない。
 しかし野球解説者としての江川氏は素晴らしい。単に才能に頼っただけではなく聡明な選手だったことがよく分かる。才能に対する過大評価が実績に対する過小評価を生んでいる。努力主義は能力のある人を潰すという弊害を持っている。むしろ努力も能力も評価する成果主義のほうが合理的だ。

テレフォンカード

2011-07-15 14:31:25 | Weblog
 格安チケット店では50度数のテレフォンカードが300円程度で売られている。最も安い店では270円だ。かつては切手や商品券と共に最も換金性の高い商品とされていたテレカだが、携帯電話の普及に伴って価値を大きく下げている。しかし企業がなぜこれを利用しないのか不思議だ。
 未使用のテレカで固定電話の通話料を払うことができる。手数料が52.5円だから447円以下で買って通話料に充当すれば採算が合う。
 300円で買ったテレカを1枚使うごとに147.5円の利益が出る(500-300-52.5)のだから、月間通話料が100万円の企業がテレカで支払えば295,000円の経費削減になる(1,000,000÷500×147.5)。簡単に29.5%も通話料を減らすことができる。
 企業は必死で経費削減に取り組んでいると言うが、こんな簡単な対策がされていない。もし一部の大企業がこの対策を実施すればテレカの市場価格はあっと言う間に400円程度まで跳ね上がるだろう。
 実はこの記事の内容は3ヶ月ほど前に思い付いた。公開する前にかつての勤め先の企業の取締役に提案した。もしこの提案が採用されたら記事にしないつもりだった。しかし彼は世間体を気にしてこの案を見送った。だから遠慮せずに公開することにした。
 切手にしても同じことが言える。チケット店では80円切手が70円ほどで買える。漫然と郵便局で買っている人はもう少し頭を使うべきだろう。

正比例

2011-07-15 14:15:17 | Weblog
 我々は正比例という関係に余りにも馴染み過ぎているように思える。多いほど良いとか少ないほど良いとか考え勝ちだ。
 健康に関する数値は多過ぎても少な過ぎても危険だ。BMIであれコレステロールであれ血圧であれ過多ばかりを気にするが過少も危険だ。なぜ医師は過少の危険性から目を逸らすのだろうか。
 こんなヤブ医者は世界を正比例の世界として見ているのだろう。多い(高い)ことが危険だと信じれば少ない(低い)ことの危険性が見えなくなるのだろう。困ったことだ。
 ここで孔子の中庸の徳を説くつもりはないが、過剰も過少も有害なことが多い。愛の不足だけではなく過剰な愛も溺愛となって有害だ。楽天性はすぐに無鉄砲へと繋がる。節制もケチのレベルになると見苦しい。
 中間を取ることが好ましい訳ではなく、両極を理解したうえで適切な位置を選ぶべきだろう。大胆さと慎重さを併せ持ち、時には大胆に時には慎重に行動できることが望ましい。パスカルは幾何学の精神と繊細の精神と表現したが理系の発想も文系の発想も欠かせない。一方に偏るべきではない。脳味噌まで筋肉になっている人も頭でっかちも片輪者でしかない。文武両道が理想だ。

所有

2011-07-15 13:57:01 | Weblog
 英語を学び始めた頃、haveの乱用にうんざりしたものだ。そのうち開き直って表現に困ったらhaveを使えば良いと考えるようになった。「私の足は長い」はI have long legsだ。「犬を飼っている」はI have a dogだ。「良い友達がいる」は I have good friends だ。何もかも自分の所有に結び付けるのが英米人の発想だと思った。この特徴は英語に限らなかった。他の西洋語でも同様にやたら所有を主張する。確固たる主体とその所有物という世界観があるのだろう。自分対世界という観点から自分のものとそうでないものを明確に区別するのが彼らの発想だ。
 日本語はその逆だ。所有ではなく存在として捕らえる。当然のことながら世界観もそれと連動する。自分対世界ではなく世界の中に自然に自分が存在している。言葉が先か世界観が先かは分からないが「ある」や「いる」の世界だ。それを自分が持っているかではなく存在の有無だけを表現する。haveではなくbeの世界観だ。
 I'm Sukiyaや日立のI'm possibleはわざと間違った表現をして印象を強めようとしているのだろう。
 グアムのレストランで日本人の旅行者がI am hamburgと言った時に私は驚いたがウェイトレスは平然としていた。多分そんな日本式英語に慣れているのだろう。

ポピュリズム

2011-07-12 13:59:15 | Weblog
 ポピュリズムを頭から否定するつもりはない。民意を無視する政治よりはマシだ。しかしポピュリズムが最優先の政治はあり得ない。芸能人による人気集めのためのパフォーマンスのようなものだ。
 菅首相は当初「強い財政・経済・社会保障」を主張し、その後、雇用重視やTPPや太陽光パネル1000万戸などを思い付くままに提唱した。多くは酷評されたが浜岡原発の停止だけは概ね高く評価された。
 唯一評価された浜岡原発にポピュリストの首相は味を占めたのだろう。反原発のスタンスさえ採れば人気を集められるというナントカの1つ覚えから突然ストレステストを主張した。二匹目のドジョウ狙いだろう。
 軽率過ぎる。大衆の支持を得ることしか考えない場当たり政策は政治ではない。余りの無軌道振りに国民が愛想を尽かしたから今回の支持率15%{朝日新聞)という評価へと繋がったのだろう。菅首相は政治を芸能人のパフォーマンスと同レベルに考えて人気取りに励んでいるのだろう。政治とは本来長期的展望も視野に入れた総合的判断だろう。場当たり的な思い付きが通じる世界ではない。
 最も典型的なポピュリズムは古代ローマ帝国の「パンとサーカス」だろう。皇帝は食と娯楽の大盤振る舞いをすることによって市民の歓心を買おうとした。こんなバラ撒き政治は奴隷制を前提としても成り立たなかった。当然現代日本で通じる筈が無い。最近では「国民一流・経済二流・政治三流」と言われる国の国民は政治家よりもずっと真剣に社会のことを考えている。政治家も芸能人も人気商売だが、本業を疎かにして人気集めしか考えなければ支持を失う。

安全性

2011-07-12 13:42:50 | Weblog
 原発と放射線に関する議論は虚しい。科学的に安全かどうかではなく政治的に安全性が議論されている。そんなスタンスだから安全宣言をした筈の原発が一夜にして安全でない原発に化けるのだろう。
 安全性が政治的問題であれば死に体の菅内閣ではこの問題を解決できない。政治的に責任を取れないからだ。これは瀕死の重病人を保証人にするようなものだ。政府が安全を保証するとは国が責任を負うということであり、もうすぐ崩壊すると分かっている菅内閣による安全保証など何の価値も無い。
 安全かどうかはかなり微妙な問題だ。例えば風速何m以上の暴風なら危険だろうか。暴風警報が出るまでなら安全だと考える人は殆んどいないし、一方、暴風警報が発令されても気にしない人もいる。
 食品には消費期限や賞味期限が明示されているが、私は1日後ぐらいなら平気で食べる。モヤシ以外の野菜はもっと曖昧だ。キャベツの消費期限は一体何日なのだろうか。私にはさっぱり分からない。
 安全性の議論は一旦政治から離れる必要がある。電力供給量とか被災農家への支援とかいった「雑念」を取り払って純粋に科学的に検証すべきだ。科学的に調べて正確なデータを公開することが優先課題であり、事実に基づいて安全かどうかが検証されねばならない。政治家が政治的思惑に基づいておかしな安全宣言をするから放射線汚染牛が市場に出回る。今なお野菜も魚も肉も安全ではない。

生命尊重

2011-07-12 13:26:12 | Weblog
 生命尊重を否定する気はない。しかし生命尊重が最優先になったら困ったことになる。犯罪者が人質を取ったら警察は対応できなくなる。犯人のどんな要求でも呑まなければならなくなるからだ。
 生きることそのものが目的になってしまった場合、いかに生きるかは問われなくなる。たとえチューブ巻きの状態であろうと生きていることそのものに価値があるのなら延命行為は肯定される。
 私は「生」を「場」あるいは「舞台」と位置付けている。場や舞台が無ければ人は何もできないから大切だ。しかしだからと言って場や舞台を最高価値とは認められない。それは空気を最高価値と評価するようなものだ。人は空気が無ければ生きられない。しかし空気を守ることを人生最大の目標とすることは馬鹿げている。
 生命も空気も水も大切だ。しかしそれらを維持するために命を懸ける訳には行かない。欲求の5段階の第一段階の基礎的生存条件にばかり拘泥していれば第二段階以上へは上がれなくなる。
 生きるのは「何か」をするためだ。チューブ巻きのような何もできない状態に陥った時、人は人間としての尊厳性を失う。正に植物人間だ。そんな状態で生き長らえても意味が無い。
 基礎的生存条件を目標にすることは余りにも空虚だ。生命を維持することだけではなくより高次元な「どう生きるか」が問われるべきだろう。ホイジンガーのホモ・ルーデンス(遊びを楽しむ人間)はそれに対する1つの答えだろう。

不機嫌

2011-07-08 14:17:36 | Weblog
 不機嫌な人には世の中そのものが不機嫌そうに見える。電車のドアは目の前で閉まるし、エレベーターはなかなか来ない。懸賞やクジなど絶対に当たらない。通行人は自分の行く手を拒もうとする。まるで世界が自分に対して悪意を持っているかのようにさえ感じる。
 困ったことに病気が感染するように不機嫌も感染する。不機嫌な人は例えば道を尋ねる時でもこんなぶっきらぼうな言い方をする。「おい、○○駅はどっちや?」尋ねられたほうは、言い方に不快を感じてたとえ知っていても「知らねぇよ」と面倒臭そうに答える。こうして尋ねたほうも尋ねられたほうも不機嫌になる。
 こんな形で不機嫌の連鎖は広がる。職場にたった一人不機嫌なメンバーがいるだけで不機嫌な職場になってしまう。
 松本元復興担当大臣のような品位の無い男がなぜ大臣に選ばれたのだろうか。民主党はそれほど人材難なのだろうか。それだから自民党からの引き抜き工作に励むのだろうか。
 NHKでは放映されなかったが、元大臣は宮城県知事に偉そうに指図したあと記者に「今のはオフレコだ。書いた会社は終わりだ」などと言論弾圧とも思える発言もあった。こんな人が早く辞めてくれて良かったが、できればもう一人日本を不機嫌にさせる張本人も道連れにして欲しかった。

民主党の敵

2011-07-08 13:59:14 | Weblog
 民主党は敵を作るのが本当に好きだ。まず沖縄県民を敵にしてしまった。基地を巡る二枚舌・三枚舌が原因で知事候補の推薦さえできないほど険悪な関係になってしまった。
 次に東北地方を敵にしてしまった。地震・津波・原発事故の三重苦に対する対応の拙さに不満が高まっている中で「知恵を出さない奴は助けない」などといったとんでもない暴言が飛び出した。勿論これは元大臣個人の放言でしかないが菅内閣の姿勢を象徴している。自らは何ら知恵を出さずに思い付きで支離滅裂な指示をして自治体に対して批判ばかりしている政府にこんな偉そうに言う権利があるのだろうか。
 更に佐賀県を敵に回した。安全宣言をして知事と町長の原発容認発言を引き出してから突然ストレステストをすると発表した。首長をコケにされた佐賀県民はさぞかし怒っているだろう。
 ストレステストの実施そのものは悪いことではない。しかし順番が逆だ。安全宣言をする前に実施すべきものだ。海江田経済産業相の甘言に乗せられた首長は阿呆の烙印を押されてしまった。結果的に騙す役割を担わされた海江田大臣も辞意を表明せざるを得なくなり閣内にまで敵を増やしてしまった。
 次に怒るのは全国民だろう。放射能汚染農産物に対するまやかしの安全宣言は全国民を愚弄するものだ。(下記の「汚染度偽装」参照)事ここに至っては内閣退陣では済まされない。民主党そのものが解体の危機を迎えている。解党して責任を有耶無耶にして誤魔化さなければ今後の選挙で候補者を擁立することさえ困難になるだろう。