俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

汚染度偽装

2011-07-08 13:40:59 | Weblog
 福島県の学校給食で県産品排除の動きがあるそうだ。県産品だけではない。関東産でさえ拒絶して西日本産や外国産の食品に頼ろうという動きまであるようだ。県産品の安全性をアピールしていながら自らは県内産どころか関東産まで拒絶するのはダブルスタンダードとして非難されるべきことだろうか。
 2つの事情が考えられる。
 福島県東部の放射線量は多い。外部被爆だけで危険値に達しそうな地域もある。それだからせめて内部被爆量を少しでも減らして総被爆量を減らそうとすることは正当な権利だ。
 実はもっと困った事情がある。放射線量の多い地域の野菜はよく洗ってから検査される。当初はこの辺が曖昧だったが、今では必ずよく洗ってから野菜の放射線量を計測して「安全」と評価している。これは偽装だ。大半の野菜はよく洗わずに土や塵の付いた状態で出荷される。表面に付着した放射性物質は流通している期間だけではなく家庭の冷蔵庫の中でも野菜へと浸透する。よく洗った野菜が安全であってもよく洗わない通常の野菜は安全でない恐れがある。
 放射線量が安全基準を超える静岡県産のお茶が外国で見つかった。これは当然のことだ。よく洗ったお茶を検査してよく洗わないお茶を出荷しているからだ。
 これは国による汚染度偽装だ。日本産品が信頼を失って当然だ。実際に汚染が確認されているのだからこれは風評被害ではない。有害物の輸出という恥ずべき行為だ。福島県民は政府による偽装を目の当たりにしているからこそ政府による安全宣言を信じないのだろう。
 政府は国民の安全を蔑ろにしている。日本に対する信頼を損なっている。今すぐ、よく洗う前の野菜の検査に変更すべきだ。

生活保護

2011-07-05 14:20:37 | Weblog
 義捐金や補償金の受領を理由にした生活保護費の打ち切りをマスコミは批判的に報じている。しかし収入があれば生活保護が中断されるのは当然ではないだろうか。
 そもそも「打ち切り」という言葉が不適切だ。記事を信じるなら打ち切った訳ではなく中断されただけだ。
 生活保護費受給者が駅前で物乞いをして収入を得たとする。この場合は収入額に応じて生活保護費の支給額は削減されるだろう。労働の一種とも言える物乞いの収入と比べて義捐金や補償金は言わば不労所得だ。勤労所得である物乞いよりも厳しく評価されるべきだ。
 被災者は支援されるべきだが被災者の利益を過度に尊重すべきではない。被災者だからという理由だけで非被災者よりも優遇すべき理由は無い。
 極論だが、住居費も食費も不要な被災者なら生活保護費は削減されて当然だ。避難生活でそれなりに補助を受けながら満額の生活保護費を要求するのは厚かましい。保護の二重取りだ。義捐金と補償金も得れば三重取りになる。
 被災者に同情することと生活保護の公平性は別の問題だ。生活保護費の支給は収入も支援も得られない人を優先して当然だろう。

夏物バーゲン

2011-07-05 14:04:34 | Weblog
 夏物の衣料品のバーゲンが7月1日から始まった。早い店では6月下旬から始めた。馬鹿げたシステムだと思う。実需期に安売りするなど不合理そのものだ。
 これは決して消費者のメリットにはならない。欲しい時に欲しい品が買えないからだ。実需期の時点で売り尽くし体勢になっていれば選択の余地が無くなる。安く買える訳ではない。元々が高過ぎるだけだ。大半をバーゲンセールで売ることになるからメーカーも小売店もあらかじめ高めに価格を設定する。バーゲン価格こそ本来の適正価格だ。
 こんな変な仕組みになったのはDC(デザイナー&キャラクター)ブランドのバーゲンのせいだ。DCは元々馬鹿高い価格を設定してバーゲンで売り捌いていた。これが大行列を生みマスコミはそれを大々的に報じた。
 定価で売るよりもバーゲンで売ったほうが儲かるとアパレル業界は気付いた。彼らは最初からバーゲン価格を最優先して副次的に定価を設定するようになった。
 これはメーカーにとって非常に楽なシステムだ。殆んど売れないという前提で定価を定めて売れる価格でバーゲンを迎える。バーゲンなら売り切れ御免だ。きめ細かいサイズ揃えをせずに売り切ることだけを考えれば良い。そのために大きなサイズや小さなサイズの人は早い時期に不当に高い価格で買わざるを得ない。
 バーゲンは値下げではない。バーゲン以前が値上げだ。

民意

2011-07-05 13:50:34 | Weblog
 政治は民意を追随してはならない。民意に先行すべきだ。民意に追随するのはポピュリズムでしかない。
 名古屋の道路幅は多分日本で一番広い。青信号の間に老人が渡りきれないほど広い。これは当時の市長が将来のモータリゼーション時代の到来を予想した街作りをしたからだ。先見の明と言えよう。
 大衆は未来について考えない。現在の幸せを望む。現在のために未来を食い潰すのが衆愚政治だ。
 大衆は保守的だ。現状に大きな不満を持つ人以外は現状維持を望む。改革は歓迎されない。問題は先送りにされる。国債の発行残高が1,000兆円になろうと気にしない。それは将来世代の問題であって自分達の問題ではないからだ。
 大衆はご都合主義だ。自衛隊の存在を是としつつ憲法改正を非とする。理念は全く無い。あるのは現状に対する異常なまでの執着と思考停止だ。平和憲法があるから戦争から免れられたなどという訳の分からない信仰とタテマエだけだ。タテマエなど綺麗ごとに過ぎないが正面切って批判することは著しく困難だ。
 売春は違法でありながらソープランドは存在する。ギャンブルは違法だがパチンコ店は公然と駅前で営業する。こんなデタラメこそ民意の表れだ。支離滅裂と嘘の塊だ。


ヘルシーな病人

2011-07-01 15:30:57 | Weblog
 厚生労働省の基準によるとBMI(体重÷身長÷身長)が18.5未満が痩せ型、18.5以上25未満が普通、25以上30未満が過体重、30以上が肥満とされている。この基準値は大いに疑問だ。
 既に多く指摘されているとおり過体重とされている人のグループが最も長寿だ。大抵のデータがそれを裏付けており、過体重の次に長寿なのが標準体型、その次が肥満、ズバ抜けて短命なのが痩せ型となっている。これらのデータを見る限りBMIは肥満診断に使うよりも痩せ過ぎ診断に使ったほうが有効だろう。
 日本人女性の痩せ願望は病的なレベルに達している。しかも社会がそれを助長している。低カロリー食をヘルシー食と呼び、ガリガリに痩せた芸能人をテレビや雑誌で持て囃し、医師は痩せ過ぎを放置する。「ヘルシー志向」が短命化を招いているとは奇妙なことだ。
 多分BMI基準を見直すべきだろう。各数値ごとの細かいデータが見当たらないので山勘でしかないが、17未満を病的痩せ過ぎ、17以上22未満を痩せ型、22以上27未満を普通、27以上32未満を過体重、32以上を肥満と改めたほうが良かろう。この場合、重点的に健康指導をすべきなのは病的痩せ過ぎと肥満だ。現行基準でも肥満以上に痩せ型への健康指導が急務だろう。
 メタボリックシンドロームの腹囲にも見られるように、医師は痩せることを奨励し過ぎる。命を預かる仕事なのだからもっと真剣に取り組んで欲しいものだ。

共有

2011-07-01 15:16:45 | Weblog
 私はかなり極端な個人主義者だ。リバタリアンに近いとさえ思っている。しかし妙に共有に関心を持っている。
 一人で暮らすよりは家族と暮らすほうが有利だ。キッチンやトイレや家電などは共有できるし役割分担をすればお互いが補完関係になれる。
 企業では机も椅子も電話もパソコンも共有物だ。私物は文具ぐらいだ。共有するから無駄が少ない。
 個人主義者は私有が大好きだ。それは私有することによって他者からの干渉を避けられるからだ。自分の物をどう使おうと自分の勝手だ。私有物ならどう手を加えようとも構わない。本に書き込もうと切り抜こうと自由だ。私有物は好きなように扱える。共有物ならそうではない。
 私は50本ほど傘を持っている。外出時に雨に会ったら買うが殆んど置き忘れることがないからだ。これは馬鹿げた私有だ。共有したほうがずっと合理的だ。
 資本主義のシンボルとも言える株式会社は、実は共有されている。不特定多数の投資家が株を買って共有するのが株式会社だ。共有は資本主義とも個人主義とも矛盾しない。
 子ども手当てよりも保育所や教育施設の充実のほうが良い。個人への武器の供与よりも治安の改善のほうが望ましい。自給自足よりも貨幣経済のほうがずっと合理的だ。都会では自動車よりも電車による移動のほうが便利だ。私有よりも快適な共有の例は幾らでも挙げられる。共有というシステムをもっと拡充できないものだろうか。

2011-07-01 14:57:04 | Weblog
 薬の大好きな人がいる。慢性病の薬だけでは飽き足らずサプリメントまで常用している人もいる。私は薬を毒物と考えるのでおぞましい光景と感じるが本人は健康に良いと信じているのだろう。
 健康のためなら死んでも良いとさえ考える人までいるようだ。秦の始皇帝は特効薬と信じて水銀や砒素などが含まれた薬物を摂取していたそうだ。毒は薬にもなり得るが、こんな成分は百害あって一利無しであり、かえって寿命を縮めたことだろう。
 日本で処方される薬は始皇帝の薬ほどには危険ではなかろうが薬の有毒性はもっと知られるべきだ。製薬会社がスポンサー様としてマスコミを牛耳っているだけに困難なことだろうがNHKとミニコミが啓蒙に努めるべきだろう。
 始皇帝は不老不死の薬を求めて東海にあると信じられていた蓬莱山へと徐福を派遣したが徐福は様々な穀物や宝物を積み込んだ船と共に消息を絶った。これが日本の文明の礎になったという伝説がある。
 健康のために死んでも良いとは思わないが、認知症にならないためなら命を懸けても構わない。呆けたクソ爺になる前に死んでしまいたい。足腰が衰えても自分ではあろうが、思考力が失われた自分を自分とは認められない。認知症の状態で生き延びることはチューブ巻きの状態で生かされるようなものだ。認知症が悪化する前に自ら命を絶ちたいが、それを自分で判断することは困難だ。認知症に罹ったら自分を認知症だと判断することはできない。自分が認知症だと判断できるのは認知症に罹っていない人だけだ。つまり認知症に罹った人も罹っていない人も自分は認知症ではないと判断する。嘘つき村のパズルのようなパラドクスだ。