俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

無信仰

2012-01-20 15:10:40 | Weblog
 世界人口70億人の大半は信仰を持っている。信仰を持つ人が多数派なのだから無信仰の人はグローバル性を欠くことになるだろうか。
 信仰とは偏見であり迷信の塊りだ。キリスト教徒とムスリムは、本音ではお互いを邪教徒だと思っている。これは犬と猫がお互いを狂った動物だと軽蔑し合うようなものだ。犬から見れば「ニャオ」と鳴く猫は狂っているし、猫から見れば「ワン」と鳴く犬は狂っている。キリスト教徒とムスリムは「ワン」と「ニャオ」で対立するようなものだ。「ワン」とも「ニャオ」とも鳴かない動物だけが偏見から自由になれる。つまり無信仰者だけが偏見から自由だ。
 日本文化は多分、世界で最も宗教から自由な文化だろう。宗教的偏見が少なければグローバル性を持ち得る。
 日本語は非常にローカルな言葉だ。どこの言語とも違う。そのため日本語に基づく思考はグローバル性を持ち得ない筈だ。しかし日本の漫画やアニメやドラマ(「羅生門」や「おしん」など)はグローバル性を持ち、世界中で支持される。これは偏見や迷信が少ないからだろう。
 世界は偏見と迷信に満ちている。その最大のものが宗教だろう。無信仰であることは偏見や迷信から自由であることであり何ら恥ずべきことではないどころか、宗教的偏見に捕われないだけに世界の問題を仲裁し得る最もグローバルな立場とさえ言えよう。

比例区

2012-01-20 14:52:34 | Weblog
 比例区の議席数を減らす必要は全く無い。逆にもっと増やすべきだ。一方、比例区の議員数はゼロにすべきだ。
 何を訳の分らないことを言っているのかと非難されそうだが、私は比例区の議席数は必要だが議員は全く必要ないと言いたいのだ。2010年3月23日付の「ヴァーチャル議員」でも書いたことだが、比例区は党に対する投票であって個人に対する投票ではない。党に対する投票を人に置き換える必要は無い。党に対して「議席数」を与えて国会での採決で票数に加えればそれで充分であり議員は要らない。選ばれた訳ではない人を議員にする必要は無い。こうすれば比例区の人件費はゼロになる。経費削減効果は80議席削減の2.25倍になる。
 比例区の定数削減によって大きなダメージを受けるのは公明党などの少数政党だ。これは多数者による少数者排除という民主主義にとって最も好ましくない横暴だ。小選挙区制などは民意の弾圧にも等しい。死に票が最も多く発生するのが小選挙区制だ。少数意見を切り捨てることは民主主義を否定して多数者による専政を推進するものだ。
 僅か20%程度の支持しか得ていない民主党と自民党が2大政党であることがそもそも間違っている。両党を支持しない60%の人の存在をどう考えているのだろうか。既存政党に対する大きな不満が大阪維新の会の躍進を生んだのではないだろうか。
 比例区は最も民意が反映される。個人ではなく政党に対する評価がほぼそのまま議席数になる。この大切な比例区に対する弾圧は民主主義の否定だ。少数政党およびその支持者はもっと怒るべきだ。

主張と実現

2012-01-17 15:14:38 | Weblog
 昨年の4月12日付「原発ビール」でnew clearはnuclearと同音だから早急に「新clear」に改めるべきだと書いたが、実際にその通りに実行された。6月頃にはnewが取られ、今年になって「新」が付け加えられた。
 買い物袋の有料化を非難したこともあった。有料化は実質的に値上げだから、逆に袋不用の客に対して値引きすべきだと書いた。最近になって「エコ値引き」をする小売店が増えている。私が最初に知ったのはイトーヨーカドーだが、その後、関西スーパーや近商ストアなどが追随している。
 フィリピンのかっぱえびせんが日本製より旨いことを嘆いて元祖の意地を見せるべきだと書いたこともある。究極のかっぱえびせんが存在することを最近知った。匠海(たくみ)という商品名で普及品の6倍の海老を使っているそうだ。
 歩道の自転車については何度も書いた。残念ながら大阪では改善の兆しも見えない。しかし愛知県や岐阜県の一部の高校では自転車免許証が発行されているそうだし、東京では無法自転車の取り締まりが強化されつつある。
 これらは私が主張したから実現したのかどうかは分らない。私の主張とは無関係に実現した可能性も高い。しかし実現しているのだから主張は正しかったと考えても良かろう。
 私には何の権力も無い。無名の1ブロガーに過ぎない。それでも正論であれば社会が受け入れるかも知れないと期待することは大きな励みになる。

新卒者の雇用

2012-01-17 15:01:58 | Weblog
 プロ野球には毎年多くの新人選手が入団する。しかしその多くが一軍の試合に出ることもなく数年で退団する。退団する本人は気の毒だが、球団にとっては無駄な投資だ。お互いにとって不幸なことだ。
 新人と比べればトレードは失敗が少ない。既に基礎はできており実力も分かっているから人材が生かされる。
 一般企業の雇用も同じようなことではないだろうか。新卒者は玉石混交だ。学校での成績が分かっていても社会人として通用するかどうかは全く未知数だ。しかし仮に期待外れだと分かっても、プロ野球とは違って、数年で解雇することは許されない。新卒者の採用はリスクが高い。これでは企業は慎重にならざるを得ない。
 中途採用はトレードのようなものだ。社会人としての常識を備えた人を雇うのだから即戦力にもなり得る。転職者市場が拡大し高齢者雇用が義務付けられればますます新卒者は不利になる。
 光源氏は理想の妻を求めて幼い紫の上を養育した。企業に望まれるのはこんな長期的なヴィジョンではないだろうか。理想の社員を育て上げるためには短期的な利益を犠牲にする覚悟が必要だ。光源氏のような高い理念を現代の疲弊した企業に期待するのは無理なのだろうか。

現状維持

2012-01-17 14:48:39 | Weblog
 この2年間、夏場は毎日3㎞以上、春秋冬は2㎞以上泳いでいる。もし20代でこんな生活をしていればウエストは5㎝減り胸囲は5㎝増えるだろう。しかし60歳の私の体型は殆んど変らない。現状を維持できるだけだ。クロールも平泳ぎも多少は早くなったが、体力が向上したのではなくフォームが良くなったからだろう。
 多分、50歳以上になれば向上することは困難なのだろう。鍛練しても現状維持が精一杯だ。知力も体力も20代までは昇りエスカレーターに乗っているようなもので、普通の生活をしているだけでも向上するし、努力すれば一層能力は高まる。しかし50代以上は下りエスカレーターを登るようなものであり、努力しても向上せず、努力を怠ればどんどん低化する。
 「鏡の国のアリス」には「同じ場所に留まるためには全力で走らねばならない」という言葉がある。ルイス・キャロルの時代には存在しなかったエスカレーターやムーヴィングウォークに逆向きに乗っていることをイメージすれば分かり易い。高齢者には衰退へと向かうベクトルが働いているから、努力を怠れば忽ち下降してしまう。

少数者

2012-01-13 15:15:03 | Weblog
 3日付けの「不平等」に批判的なコメントがあった。敢えて反論はしないが、少しだけ補足しておきたい。私はあくまで少数者の立場から多数者優遇を承認しているのであって、多数者の立場から多数者エゴを主張している訳ではない。この二者は全然違うものだ。
 多数者と少数者は共存すべきであり、相互に否定し合うべきではない。以前に(2007年11月14日付)「左利き」という記事を書いたことがある。私本人は右利きだが、社会が余りにも右利き向けに作られていることに憤った。しかしそれでも多くの道具が右利き用に作られていることは許されるべきだろう。日本人の9割が右利きなのだから基本的な道具が右利き仕様になるのはやむを得ない。左利き用が少なくしかも割高であるのは左利きに対する差別だという主張には賛同できない。あくまで経済合理性に基づくものだ。確かに左利き用の道具は普通の店では入手困難だが、今ではネットで簡単に購入できる。
 一番駄目なのは右利きにも左利きにも使い勝手の悪い道具だ。これは男女兼用水着のようなものであり誰にとっても不便な物だ。勿論こんな馬鹿な商品を作る企業は無い。しかし社会制度はそうではない。多数者だけが優遇されたり、逆に一部の少数者が不当に厚遇されたり、あるいは誰にとっても好ましくない奇々怪々な仕組みであったりしている。このバランスを少数者の視点から見直したいということが私のスタンスだ。例えば利用者の多い駅には左利き用の改札口を設けるべきだろう。

経験と偏見

2012-01-13 15:01:40 | Weblog
 人は経験に基づいて考える。しかしそれは同時に個人の偏見でもある。個人の偏見と常識(=社会の偏見)が矛盾することはしばしば起こる。どちらが正しいかを決めることはほぼ不可能だから、私は「私にとってはどちらが正しいか」を基準にして考え行動する。
 「私にとっての真実」という言葉は奇妙に聞こえるかも知れない。真実とは普遍的なものと考える人のほうが多いだろう。しかし2+3=5とかニュートンの万有引力の法則のような客観的真実など私にとってはどうでも良いことだ。それは既に確定している。しかし、いかに生きるか、とか社会はどうあるべきかといった問題は客観的真実たり得ない。だからこそより重要だ。
 私は無神論者だ。神も来世も信じない。従って神頼みもしないし来世にも期待しない。しかし世界人口の圧倒的多数を占める有神論者を馬鹿にする気は無い。彼らはそれを正しいと信じているのだから、彼らが私の権利を侵害しない限り容認する。神社や寺や教会があっても一向に構わない。しかしその費用は信者が負担すべきであって税金などの公金は1円たりとも使われてはならない。従って国家神道などは絶対に認められない。
 圧倒的多数者が有神論者であろうとも、私は無神論者であることを改めようとは思わない。私の経験(偏見)は神を承認しない。

平清盛

2012-01-13 14:46:07 | Weblog
 NHKの大河ドラマ「平清盛」の予告編では清盛が「この面白うない世を変えたい」と叫んでいるがこんなことを清盛が言ったとは思えない。少なくとも私は寡聞にして知らない。似た言葉なら知っている。清盛から約700年後の幕末の高杉晋作の辞世の句「面白きことも無き世を面白く」だ。
 清盛は決して改革者ではなかったし余り魅力のある人物とも思えない。視聴率の低さはその現れだろう。武士でありながら太政大臣になれたのはそれまでの功績によってではなく白河上皇の隠し子だったからということはほぼ定説だ。
 有名な「この一門にあらざるは人たるべし」も清盛の言葉ではない。義理の兄の時忠の言葉だ。この言葉を根拠にして「驕れる者は久しからず」と結論付けるのも正しくなかろう。平氏は驕ったからではなく、武士であることを軽んじたから失敗したのだと思う。平氏は藤原氏のように天皇の外戚として権力を握ろうとしていた。
 源頼朝は平氏とは全然違った戦略を採った。朝廷とは一線を画して遥か離れた鎌倉の地で武家政権を開いた。つまり武士としてのアイデンティティを貫いて武士のための社会を作った。英雄義経を殺したこともあって人気は無いが社会改革者としての功績は清盛よりも大きい。

人類と水

2012-01-10 15:09:10 | Weblog
 人類の運動能力は投擲力以外は他の動物に敵わないが、泳力は特に酷い。魚に勝てないのは当然だが、亀やペンギンにも敵わない。歩みの鈍い亀やヨチヨチ歩きのペンギンのほうが水中では人類よりもずっと速い。50m自由形の世界記録は20秒91で時速に換算すれば約8.6km/hだ。一方、アオウミガネは時速36km、コウテイペンギンは時速60kmで泳ぐ。全く勝負にならない。実際に海中で亀を追い掛けたことがあるが、鳥のように優雅に羽ばたいてあっと言う間に引き離されてしまった。
 人類は泳ぎが苦手だ。犬や馬などは訓練しなくても泳げるが人間は教わらないと泳げない。それだけ泳ぐためには不向きな体形をしているということだろう。
 人類は泳ぎが苦手なのに古代文明は川岸で生まれた。メソポタミア、ナイル、インダス、黄河、どれも大河のほとりだ。これは飲料水や農業・畜産のためには淡水が不可欠だからだろう。一方、日本の文明はそれらとは違って海辺で発展したようだ。今でも多くの人が海辺で暮らしている。これは海洋民族だからではなく、降水量が非常に多いからだろう。降水量が多いから水不足の心配が少なく、むしろ急峻な川が多いので洪水の危険性が高い川岸よりも水位の安定した海辺のほうが安全だったからだろう。

多数決

2012-01-10 14:55:09 | Weblog
 子供の頃から多数決が大嫌いだった。昭和30年代・40年代は民主主義=多数決と誤解されていたから、今では信じ難いようなことも罷り通っていた。
 私が小学生の時に私のクラスでは「給食を残してはならない」ということが議決された。当時の給食は今と比べれば酷い物だった。脱脂粉乳はアメリカの余剰物を処分することが目的だったし、パンはどうやったらこんな不味いパンが作れるのか不思議に思うような代物だった。これは豚の餌だと私は思っていた。
 私は決議に猛烈に反対したが、教師の誘導もあり議決されてしまった。教師は偏食が少なくなれば良いというぐらいの軽い気持ちだったのだろうが、議決した子供達は厳格にこれを守らせようとした。その結果、何が起こっただろうか。給食の度に泣き出す子供や嘔吐する子供まで現れた。喧嘩にもなったのですぐに済し崩しになった。
 丁度その頃、こんな新聞記事を見た。外国の教育関係者が参観している教室で、事実に反することを生徒が多数決で決めてしまった。教師は途方に暮れて外国人に泣き付いた。外国人は即座に答えた。「真実は多数決で決めるものではない」と。
 今でも多数決の大好きな人がいる。悪しき戦後民主主義の残滓だ。多数決が多数者による横暴だと気付いていないのだろうか。