もう今は亡きお舅だが、私に対する言葉の暴力は酷かった。
家族の中でも、私にだけ、言葉の暴力をふるったのだ。
まあ、時にはお姑にもふるっていたけれど。
お舅は、今思えば、典型的な自己愛性人格障害者だった。
家族の誰か1人を生贄にしなければ、自分を保てない人だった。
自分の優越感、自分の正統性を証明するために、私を攻撃したのだ。
お舅の頭の中は、いつでも自分が正しいのだから、正しくない私を懲らしめるために、言葉の暴力を使うという、大義名分があったのだ。
お舅から見て、間違っている私を懲らしめるのは当たり前だったのだ。
だが、私も若かったので、そんなお舅の心理など見抜けず、悪いのはお舅だと思っていた。
いや、実際今でも、お舅が正しかったなどとは死んでも思わない。
ただ、お舅の心理が分かるようになっただけなのだが。
人の価値観というのは、人それぞれで、ある人にとっては正しいことでも、別の人から見れば、全く正しくなかったりする。
それは、みんなそれぞれ、レベルが違うからなのだ。
だからぶつかるし、トラブルが起こる。
特に低レベルの人から見ると、レベルの高い人は間違っていて悪人のように見えるようだ。
さて、数年前に亡くなったお舅だが、もしあの世というものがあるとしたら、どんな世界に行ったのだろう。
人は亡くなると、自分と似たような波動の領域に行くというのが本当なら、お舅と同じようなレベルの人たちと、お互いにやり込めたり、やり込められたりしながら、トラブルだらけの世界にあるのかもしれない。
それで、なぜ私がお舅のような人と関わるという経験をしなければならなかったのかは、それについて考えなさいという事だったのではないだろうか。
周りがみな私に好意的なら、何も悩まず考えもせずにいられるが、もし、周りに自分を嫌う人、いじめる人がいたら、その事で悩み考え勉強し、解決策を見つけようとするからだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます