熊野神社であるが、本殿の裏に古墳がありました。
こういうタイプの神社は中仙道ではよく見ました。
武蔵府中熊野神社古墳
飛鳥時代の上円下方墳だそうですが、素晴らしい石組で大変立派ですね。
相当な権力者の墓なんでしょうね。
甲州街道の常夜灯
昔の真っ暗な夜道では、この常夜灯が陸の灯台のように人々の安全、安心に多大な貢献をしたでしょうね。
こんな曲がありました。
なかなか、素晴らしいですよ。
玉置浩二 - 常夜灯 - COVER
谷保天満宮
この鳥居をくぐった参道が下り坂になっていました。
これは、非常に珍しいかと思います。
上り坂というのはよくある神社ですが、大きな神社で下り坂というのはあまり知りません。
---------ウィキペディアより
谷保天満宮(やぼてんまんぐう)は東京都国立市にある神社。甲州街道沿いにある。社伝によると、903年(延喜3年)に菅原道真の三男・道武が、父を祀る廟を建てたことに始まるという。府社。式内社穴沢神社の論社でもある。
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谷保というとYahooや野暮の字を連想しますよね。
(地元の古くからの呼び方は「やぼ」らしいです。)
そこで語源を調べてみました。
東京新聞の記事で<地名編>谷保(国立市) 今は粋な『やぼ』の天神によると
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湯島、亀戸と並び、関東三大天神の一つの谷保天満宮は「やぼ」を名乗り、極めて融通のきかないことを意味する「野暮(やぼ)天」の語源ともいわれる。時は江戸。神様が出雲に集まる神無月の十月、谷保天神のご開帳が目白であった。大田蜀山人に「神ならば 出雲の国に 行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん」とからかわれた-。
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とありました。
(なお、目白とは学習院下の目白不動尊のことらしいのですが、どうもそこと交流があって御本体の出張みたいなものがあり、10月に目白で御開帳(出開帳)があったみたいらしく、それを蜀山人がツイートしたってことでしょうか。)
それ以外にもこんな話もありました。
---------タチカワオンラインより
原道真公が醍醐天皇時代に筑紫へと配流になった時、同時にその子三男道武は多摩郡分倍庄栗原郷(現在の谷保)に流されていた。その後、延喜3年に父道真公の訃報を聞いた道武(当時10歳)は、悲しみに打ちひしがれながら父の坐像を彫り、これをご神体として祀ったのが天満宮の起こりである。ところが、このご神体の彫刻があまりにも素人っぽい造りで、できが良くなかったため、それを見た人々が「やぼてん」の名をあか抜けしない極めて野暮なことを意味する言葉として使い、江戸の流行語になったという。
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落語じゃ野暮のことを棒鱈っていいますね。
棒鱈:野暮、でくのぼう、酒乱、酒飲み、あほんだら(やべっ、俺の事かも…(笑))
【落語】棒鱈【柳家小三治】
一方、Yahooの方は、谷保駅は駅名の英語表記がYahoだそうで、ヤフーにみえますね。
ややこしい。
境内で鶏を何故か?放し飼いしていました。
軍鶏とチャボのミックスだそうです。
夜はネコから襲われないように木の上で寝るそうです。
天満宮には必ずある「使いの牛」と本殿
天満宮と使いの牛(日本最古の天満宮 生身天満宮のHPより)
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天満宮には、なぜどこにでも「使いの牛」があるのでしょう。これには、いろいろな説があります。菅原道真公の生年が承和12年(846年)6月25日で乙丑の年だからという説。また薨去されたのも延喜3年(903年)2月25日の丑の日だからとの説。菅原道真公の御遺骸を載せた車を引く牛が座り込んで動かなくなった場所をご墓所と定めたことからとする説。この説から「使いの牛」は、ほとんど臥牛と呼ばれる座った姿勢をしています。
他にも農耕の神のご神徳からそのシンボルとする説。菅原道真公薨去後に下された「天満大自在天神」という神号からきているという説。「大自在天」は元々はバラモン教の大本尊で、仏教におけるお姿は、八本の腕と三つの眼を持つ八臂(はっぴ)三眼で、白い牛に跨がるとされているので、そこから結びつけられたようです。また、大宰府へ下られる際、牛に乗られていた。菅原道真公が牛を愛育されていた。刺客から牛が菅原道真公を守ったことがあった。など様々です。
写真はウィキペディアの大自在天より
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大自在天はヒンドゥー教の神シヴァのことですね。
この谷保天神の近くに城山公園があり、その辺りに城があったそうです。
様々な種類の野鳥が見られ、バードウォッチングにもってこいの場所だそうですよ。
潤澤学舎跡
この辺りは誰もが知るところの新選組の地元です。
そして、その活動は幕府直轄領である地元豪農層、名主層がバックアップしてました。
だから、国の在り方に注視する人々がこの地域には多かったようです。
そして、明治維新以後、天皇と薩長閥には反抗的で、土佐同様に自由民権運動が盛んでした。
その人びとにより開校したのが潤澤学舎で、現在の国立第一小学校の前身らしいです。
だから、この学校では戦前・戦中を通じて天皇の「ご真影(肖像画)」を奉る「奉安殿」が存在しなかったそうです。
また、この辺りでは、明治天皇の行幸に際して、名主家は表向き歓迎の挨拶を述べますが、街道沿いの家々はみな雨戸を閉め、無言の抗議を行ったらしいです。
(以上は、幕末から自由の権へ~本田家の人々が見た時代~を読んで参考にしました。)
甲州街道と交わる矢川(水がありません。農閑期だからでしょうか?)
ここに五智如来の祠(ほこら)がありましたが、写真を撮り忘れました。
今回はこの交差点でストップ
街道は分岐を左に行くのですが、自分は右に向かい立川駅そばの風呂屋に向かいました。
立川駅南口の風呂屋、高砂湯
ここの鳥肉屋で飲みました。
学生が多くて、なにかのサークルでしょうか、若い男女がワーワー、ワーワーと店内が騒がしく、耳の聞こえがよくない自分には、逆にその雑音(何を言っているのかわからない)の塊がぶわーんと耳障りに感じ、ちょっと参りました。
まあ、こういうこともあるでしょう。
頼んだひな鳥と親鳥の焼き物がドーン!
この雑音からオサラバしたかったのですが、味が良かったんで我慢しながら最後まで食べましたとさ。
(終わり)
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