宿場を守る鍵手(桝形)のコーナーを曲がると、醤油醸造店が2店舗ほど続いていました。
五味醤油(味噌のみの販売、創業明治元年)
奥村醤油(創業明治5年)
さらに、そのすぐ先に大きなビルが建っておりました。
(株)印傳屋 上原勇七 本店(創業1582年)
印傳(印伝)って何?
---------印伝(いんでん、)
ウィキペディアより
印伝革の略であり、羊や鹿の皮をなめしたものをいう。 細かいしぼが多くあり、肌合いがよい。なめした革に染色を施し漆で模様を描いたもので、袋物などに用いられる。名称はインド(印度)伝来に因むとされ、印伝の足袋が正倉院宝庫内に見られ、東大寺に文箱が奈良時代の作品として残る。
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染色した鹿革の上に、小花柄やトンボ柄の型紙を重ね、その上から漆をヘラで摺り込み、型紙を剝がすと、革の表面にぷっくりとふくらんだ漆の模様が浮かびあがってくるという作り方らしいです。
甲州印伝【印傳の山本】2017
ショーウインドーに飾られた印伝
この立派なビルのショーウィンドウの印伝を見た時は、自分は無知であるが故にお土産物のカバン屋さんかな?としか見ておりませんでした。
帰ってきてから印伝なるものを調べたら、「大変歴史のある美術工芸品なのである」と知り、店舗前をサラッと通り過ぎずに、お店の中に入ってジックリ見るべきであったと今は悔いています。
ただ、あの時すでに汗をかいていたし、
一見すると裸足に見えるワラーチ姿じゃ入れなかったかな?
もともと武士の鎧、武具などに使われる鹿皮に装飾を施したものが始まりだったようで、デザインも武士の縁起を担いだもの、「トンボ、菖蒲」が今でも使われているそうです。
トンボ柄
→前にしか進まないとんぼの性質から、とんぼを形どった文様は「勝負事に縁起の良い柄」の意味を持ちます。
菖蒲柄
→「勝負」「尚武(礼儀正しい様)」と同音の為、古くから甲冑に使われてきました。剣に似た葉形から魔除けの意味もある模様です。
印伝の店から甲府柳町宿の本陣へ向かう地図
さてさて、この宿場は
甲府柳町宿
という名前なんですが、
柳町はどこなのか?
という疑問がわきました。
どう走っても、柳町という地名や看板がないのです
甲州街道を歩いた人のブログを見ると
「甲府城の城下町で宿場の中ほどにある 柳町に問屋場などの機能が集まっていた」
とあるので、本陣や問屋場の辺りが柳町なのであろうと思われました。
そこで、スマホの地図アプリをみながら、本陣らしき辺りまで行けば、柳町という地名があるだろうと思ったのです。
アプリでは甲府柳町宿本陣はこの小さなGS辺りを指していました。
しかし、何もそれらしき案内板や石柱などは見当たりません。
(甲府市の観光課の皆さん、何らかの案内板たててくれませんか?)
GSの隣は如何かと行ってみると、小さなコンクリート製の大神宮がありました。
そこは
柳町大神宮
でした。
始めて柳町という文字を見つけました。
ですが、それ以上の情報がありません。
神社の由緒とか、それらしい案内は見当たりません。
ただ、小さな敷地内にお伊勢の森跡地と刻まれた石碑がありました。
この辺りは大きな森があったという事ですから、やはり本陣なのではないかと自分なりに想像したのでありました。
それに、こんな小さな神社に大きなお祭り(甲府三大祭りの1つ)がありました。
大神宮祭【甲府市】(フルHD映像)
さらには、朱イイを見渡すとGSの前がアーケード商店街入り口でした。
この辺りが問屋場だったのではないか?と歴史学者になった気分で吾輩はこの辺りをウロウロしたのでありました。
そして、納得したような、納得しないような気分でこの場を立ち去ったのです。
そんなこんなで、つい最近までモヤモヤしていたのですが、
自宅のPCからネット検索していたら柳町大神宮に関するもので、あるサイトを見つけました。
旧町名を復活させたい ~柳町(1)~
そこにはこう書かれた部分がありました。(以下、上記サイトより転載させていただきました。
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こちらの写真は昭和初期に柳町から現在の銀座通り方面を写したもので、右側に見える西洋風の建物は明治41年に開業した有信銀行です。この交差点は三日町見附と呼ばれ、市内で最も賑わった地点のひとつでした。有信銀行は昭和16年に山梨中央銀行と合併したことで同行の柳町支店となりましたが、甲府空襲によって焼失したとのこと。現在はこの斜向かいに吉字屋本店のガソリンスタンドがあり、その南側には今月号の表紙で取り上げた柳町大神宮が存在します。
2014年2月号で大神さんを取り上げた時に触れましたが、柳町大神宮は全国有数の歴史を誇る吉字屋の屋敷神です。もともとは古府中にあり、甲府城下町を整備した420年程前に現在の場所へと遷座しました。今では柳町という町名を残す数少ない存在となりましたが、旧町名を復活させたいという想いを強く後押ししてくれる存在でもあります。余談ではありますが、吉字屋の屋号は甲州金貨に刻印されていた「吉」の字からとったそうです。格好良いですね。
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文章の内容からすると、この写真はまさに先ほどの問屋場だったのではないかと思ったアーケード商店街の写真と同じところですね。
さらに、吉字屋本店を調べてみました。
---------吉字屋本店の歴史より
吉字屋の誕生
塩飢饉に苦しむ甲斐の武田信玄に好敵手上杉謙信が「塩を贈った」という戦国美談は、永禄10年(1567年)、武田太郎義信の自刃を因に、相模の 北条氏康が駿河の今川氏真と通謀して武田領国への「塩留」を断行した事に端を発します。山国の甲斐、武田領下にあった信濃の領民は、生活の必需品である塩の供給を得られず、塩飢饉で困窮した事は言うまでもありませんが、この窮状を見た越後の上杉謙信は、「戦いは 干戈を交えて行うもの」とし義侠をもって越後産の塩を送る事にした、と伝えられています。
この際、武田信玄の命を受け越後産塩の取り引きに使いしたのが塩屋孫左衛門(初代)で、無事信州松本まで塩を持ち帰ってたのが永禄11年(1568年)正月11日、甲府に帰着したのが同14日であったとされています。この越後塩移入の努めを果たし、国内の塩飢饉を救った活躍に対し、信玄公より当時の甲斐の国の通貨「甲州金」の裏刻印である「吉」の字を屋号として贈られ、「吉字屋」が誕生しました。
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ということは、吉字屋が本陣であった可能性がありますね。
そして、この小さなGSは大変な会社の様でした。
---------吉字屋本店の取扱商品の変遷より
明治33年、それまで浅野タンク印の県下総代理店として扱っていた石油(化石燃料)の取り扱いを英国ライジングサン社(現シェル石油)との直接取引に形態を替え、日本で最古の石油販売特約店として本格的に石油製品の販売に取り組みを始めました。
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帰ってきてから調べた結果わかったことではありますが、面白いですね。
問屋街入口交差点で左折するのですが、生地屋でマスクの生地が売ってました。
このころは、まだ手作りマスクが出始めたころです。
その交差点を曲がると老舗の寿司屋と蕎麦屋が並んでいました。
そして、すぐ寂れた商店街の突き当りになり、また左に曲がります。
その先も右に曲がる。
クネクネと鍵の手(桝形)になっていました。
商店街は立派だが、何故か人気がなく、寂しい。
大きな道に出ると、もう桝形はなく、幅の広い旧甲州街道になり、さらには相合歩道橋にて国道52号線(美術館通り)と合流し、とても広い道幅の旧街道になりました。
このときは気がつかなかったのですが、この日宿泊したホテルの前を通り過ぎていました。
(この日の目的地、韮崎まで走り、韮崎の宿に泊まろうと思っていたのです。)
相生歩道橋の上から甲府駅方向をみた眺め
(つづく)
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