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旧日光道ランニング「日光道中膝痛シ」…(日本橋~新田)その1

2018年05月07日 | 日光道走膝痛シ(旧日光街道ランニング)
写真は素戔嗚神社の芭蕉碑前にて
杖と笠がおいてありましたので、芭蕉になったつもりで記念写真



5月の連休は、いかがでしたでしょうか?

自分の場合は、毎年この時期は会社の都合で仕事があり、旅行などの予定が組めず、家でゴロゴロしてしまうことが多いのですが、都内は連休の効果でとても静かですから、家の中にいるのは大変勿体無い気がしておりました。

そこで、車のあまり走っていない都会のこの時期に、旧日光街道を走ることを思いつきました。

以前から、日光道は走るつもりではいたのですが、日光街道は他の街道に比べて交通量の激しい一般車道脇を走ることが多く、排気ガスを吸いながら走りたくないと気持ちから、走ることをためらっておりました。

まさに、今が絶妙なタイミングだと思いつきました。

5/5の子供の日は、清々しいほどの爽やかな快晴でした。
暑い日ではありましたが、適度な微風があり、走ると気持ちがいい程度のコンディション。

ゆっくりと10時頃から日本橋を出立しました。
たしかに、交通量は少ないと思いました。

街道は最初の100mくらいは中仙道と一緒ですが、三井住友銀行の前あたりで大伝馬本町通り(日本橋横山町問屋街)へと曲がります。



そこからは東京スカイツリーに向かって走っていきます。

今はこの辺りは衣料品の問屋街ですが、その昔は、小間物問屋、紙煙草入問屋、地本双紙問屋等が軒を連ねていたそうです。
また、江戸幕府の御用花火師であった鍵屋もここに所在したとのことです。

参考…鍵屋の歴史(以下、㈱宗家花火鍵屋のHPより抜粋しました)
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鍵屋の由来
「花火屋は何れも稲荷の氏子なり」

古川柳に「花火屋は何れも稲荷の氏子なり」
という一句があります。これは鍵屋の守護神であるお稲荷さんの狐が、一方は鍵をくわえ、一方は玉をくわえていたところから、この鍵をとって創業の際に屋号にしたことを詠んだもので、当時花火屋といえば鍵屋を指していたことがわかります。

 

鍵屋の七代目が番頭の清七にのれん分けする際、玉屋の屋号を与えたのも、もう一方のお稲荷さんがくわえていた玉にあやかるようにとの意図でした。それ以降、両国の川開きでは鍵屋、玉屋が川の上下に船を出して競演し、「鍵屋あー」「玉屋あー」と江戸の人々に声をかけられました。しかし、玉屋は不慮の失火により江戸所払いとなり、鍵屋は現在に至っています。
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浅草橋からの眺め

たしかに、この辺りから、蔵前、浅草に向けて花火の会社、店舗を何件か見かけました。



あと、何故だか不明ですが、オモチャに関係する店、会社も見かけました。

 



駒形どぜうは行列ができてましたよ。



ゴボウと一緒に割下で煮て沢山のネギをのせた『まる鍋』は私の大好物なんですが、私の父は「あのドジョウの目が嫌だ!」といって絶対に口にしませんでしたね。


雷門は観光客であふれかえっていました。



もう、歩道は人、人、人…で渋滞でした。

ワラーチで走ってるんで足を踏まれやしないかと足元ばかり見ていました。
ハイヒールで踏まれたらと思うと…恐しい!

ワラーチの大きなデメリットです。




都立浅草高校まえあたりで小休止



さすが、浅草だと思ったのですが、神輿の会社を数社みかけました。


靴屋も多いですね。

その理由を調べてみたら、弾左衛門(通称、浅草左衛門)(1823~1889)という人の功績が多かったようです。



以下、浅草に靴屋さんが多いのはなぜ?より
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東京・浅草には革靴製造をはじめとする皮革産業に携わる企業が多数あります。浅草は「靴の町」として繁盛を極めた時代があり、今でも地場産業として活躍しています。なぜでしょうか? その大きな理由の一つに弾左衛門(1823~1889)の功績が上げられます。弾左衛門は後に直樹と改名しました。

弾の家は、鎌倉時代から続く名家で、代々時の権力者から皮革取締りの特権を与えられていました。徳川幕府は関八州(武蔵、上野、下野、常陸、上総、下総、安房、相模)をはじめ甲斐、伊豆、駿河、陸奥を加えた十二カ国の皮革取締りの特権を許可しました。明治維新後も、その特権は従来どおり維持され、大きな勢力を誇っていました。弾は浅草亀岡町(現在の台東区今戸)に千坪以上の広大な邸宅を構え「直樹役所」と称していました。事実、その職権は町奉行に隷属し、その職を助け、関八州の町里を司り、自ら牢獄を備えて悪徒を収監する権がありました。屋敷の広大さは大名屋敷並といわれ、加えて三千石の収穫が上がる田地を所有していたのです。

軍靴の需要が拡大することを予感した弾直樹は、1871(明治4)年に滝ノ川に皮革・靴伝習所を開き、3人の中国人を靴作りの教師として雇いました。また製靴技師のアメリカ人チャールス・ヘンニンゲルを雇用しました。ヘンニンゲルの指導の下に製造された造靴用の革はチャールスにちなみ「茶利皮」と名づけられました。弾は、1872(明治5)年1月には隅田川に水利を求めて工場を浅草橋場町に移し、「軍靴12万足、十ヵ年納入」を受注すると製造工場を拡張し、靴工見習451名を募集して養成に熱中しました。しかし十ヵ年契約は一年を待たずに中止となり、弾の事業は決定的な打撃をこうむりました。その後事業は、三井の北岡文平が監督に入り、名称も「弾北岡組」と呼ばれるようになりました。事業は製革と製靴に二分され、製靴部門は同年12月浅草亀岡町にある弾の邸内に移されました。

巨費を投じた事業が頓挫して弾の晩年はさびしいものでしたが、病床で「数百人の靴工が巣立って全国に製靴法を伝えている。私の本望は達した」といってこの世を去っていったと言われています。弾は皮革産業の基盤を築いただけにとどまりましたが、周辺には関連する企業が集まり、弾のもとから数多の靴工が育っていったのです。
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東京珈琲四天王の1つ!バッハという喫茶店


あしたのジョーの泪橋を通り過ぎると、小塚原の処刑場あたりなんですが、囚人の涙、囚人の知人の涙だったとは知りませんでした。


隅田川駅というのがあるのって知ってますか?



正確には隅田川貨物駅で人の乗り降りはできません。
北、東方面発着の貨物列車の終着(始発)駅だそうです。




千住大橋の近く素戔嗚神社(すさのおじんじゃ)は6月におこなわれる天王祭の旗が沢山たなびいていました。

神輿をもむのが激しいお祭りです。
今年は3年に一度の本祭りみたいです。

平成27年 荒川区南千住・素盞雄神社天王祭【豪快】神輿振り=町屋連


神社境内の中に松尾芭蕉碑がありました。

 千寿といふ所より船をあがれば
  前途三千里のおもひ胸にふさがりて
  幻のちまたに離別の
  なみだをそそぐ
行く春や鳥啼き魚の目は泪

(つづく)



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