ハンギョレは内乱勢力のうそと歪曲に対抗し、独自入手した資料と取材をもとに昨年12月3日にあった事実を正確に記録していく。未来に正しい記憶を残すためには、現在を正しく記録することが唯一の方法だと信じる

2025-02-19 18:54:18 | 韓国を知ろう
 

【独自】「12・3内乱」の真実と嘘 

あの日、ヘリが計画通り飛んでいたら…

登録:2025-02-19 10:49 修正:2025-02-19 17:31
 
「2時間の内乱などありえない」という尹錫悦の主張の虚構 
 
クァク特殊戦司令官、当日の昼にキム前国防部長官から電話で指示受け 
「事前にヘリを陸軍特殊戦司令部に配置しておけ」 
クァク司令官は拒否…戒厳後、国会への到着が遅れる
 
 
国会事務処が4日、内乱罪被疑者の尹錫悦大統領の非常戒厳宣布後に国会に投入された戒厳軍の防犯カメラ(CCTV)映像を公開した。写真は映像のキャプチャー=国会事務処提供//ハンギョレ新聞社
 
 
                                         「12・3内乱」の真実と嘘//ハンギョレ新聞社

<尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領が1月15日に内乱首謀の容疑で逮捕されてから1カ月が過ぎた。憲政史上初めて拘束起訴された大統領は、憲法裁判所の弾劾審判にまで立ったが、「正当な戒厳」という無理な主張で韓国社会の分裂を図る。「何も起こらなかった」という言葉で、内乱をあたかも一時の騒動として片付けようとする。

ハンギョレは内乱勢力のうそと歪曲に対抗し、独自入手した資料と取材をもとに昨年12月3日にあった事実を正確に記録していく。未来に正しい記憶を残すためには、現在を正しく記録することが唯一の方法だと信じるからだ。

初回は「失敗」を「意図」で覆い隠した「2時間の戒厳」という尹大統領のうそに対する記録だ>

 「ソウルの夜」のあの日、12台のヘリが暗い空気を引き裂いて汝矣島に向かった。ソウル上空を飛んだ12機のヘリ「ブラックホーク」が国会本庁裏の運動場に着陸し、97人の特殊部隊員を送り出したのは、昨年12月3日午後11時49分。大韓民国国軍の最精鋭特殊部隊である陸軍特殊戦司令部所属の707特殊任務団の国会掌握が始まった瞬間だ。ヘリは隊員らを降ろし、再び100人の707特任団の要員を乗せて運ぶために飛び立った。

 濃紺のスーツに赤いネクタイを締めて生放送のカメラの前に立った尹錫悦大統領の口から「非常戒厳」という言葉が飛び出したのはその日の午後10時27分だった。707特任団が国会の運動場の芝生の上に降り立ったのは、それから1時間22分後だった。

 キム・ヨンヒョン前国防部長官は昨年12月5日、メディアのインタビューなどで軍投入が遅れた理由に「大統領の指示」を挙げた。非常戒厳宣布直後、尹大統領の指針が「警察優先措置、軍は少なくとも1時間後に投入」だったということだ。これは「警告性の戒厳」、「2時間の内乱」という尹大統領の主張の根拠になった。そもそも国会を掌握して戒厳解除要求決議案の議決を阻止する目的などなかったという主張だった。

 しかし、18日のハンギョレの取材の結果、キム前長官は非常戒厳当日の昼からクァク・チョングン前特殊戦司令官にヘリの待機を指示していたことが明らかになった。クァク前司令官がこれを黙殺したことで、国会掌握の最初のボタンが掛け違っただけだ。もしヘリをあらかじめ準備させておいたならば、内乱事態はわずか「2時間」では終わらなかった可能性が高い。

 クァク前司令官は検察の取調べで、非常戒厳当日の午後1~2時、キム前長官から電話がかかってきたと述べた。キム前長官はこの時、「ヘリを事前に陸軍特殊戦司令部に配置しておけ」と指示した。ところが、クァク前司令官はすぐにキム・セウン特殊戦航空団長に連絡し、「私の指示なしにはヘリを飛ばすな」と述べた。彼は「もしかするとキム前長官の指示を受けて特殊戦航空団のヘリが動くのではないかと思い、私の指示なしにヘリを動かすなと言った」と検察で明らかにした。この決定が、戒厳軍の翼を縛った。

 「司令官、一番早く移動できる部隊はどれだ」。キム前長官が再び電話をかけてきたのは、尹大統領が非常戒厳を宣布する談話の発表を始めた同日午後10時25分頃だった。クァク前司令官は「707特任団です」と答えた。キム前長官は「ヘリで早く国会に移動させろ」と指示した。クァク前司令官は同日午後10時30分になって、地域隊などに配置されている12機のヘリを京畿道利川(イチョン)の特殊戦司令部に展開するよう指示した。

 ヘリの投入が遅れると、キム前長官はクァク前司令官を督促したという。クァク前司令官は検察で「キム前長官は『なぜヘリを飛ばさないんだ』と言っていたのだが、これ(キム前長官の指示黙殺)によりヘリが遅れたため、続けて督促の電話がかかってきたようだ」とし、「あらかじめ司令部からヘリを持ってきて準備させていたら、国会まで20分もあれば着いていただろう」と供述した。尹大統領もまた、同日午後11時40分頃、クァク前司令官に電話し「国会に移動中のヘリはどの辺まで来たか」と移動状況を自ら確認した。実際、その日国会出動命令を受けた1つの地域隊のヘリは、午後11時20分頃、特殊戦司令部から離陸した。司令官の出動命令が下されてから約50分後だった。急いで国会へ出発した特殊戦司令部のヘリは、飛行目的を明らかにしなかったため首都防衛司令部の空域管理担当官がソウル上空への進入を許可せず、午後11時25分から31分までの約6分間は京畿道利川の上空で足止めされていた。

 707特任団が国会に到着した午後11時49分、国会周辺はすでに非常戒厳のニュースを聞いた市民たちや国会関係者で囲まれていた。ウ・ウォンシク国会議長はすでに午後10時58分に壁を乗り越えて国会本庁に向かった状態だった。他の国会議員も続々と本会議場に集まっていた。国会内外では、市民や補佐陣らが軍を止めた。ウ議長は非常戒厳宣布翌日の午前1時3分「在席190人、賛成190人で、非常戒厳解除要求決議案が可決されたことを宣言します」という言葉と共に議事棒を3回叩きつけた。こうして内乱は156分で鎮圧された。

 キム前長官の指示を黙殺したクァク前司令官も、実際に非常戒厳が宣布された後は指示に従わざるを得なかった。クァク前司令官は午後10時50分から7回もキム・セウン特殊作戦航空団長に電話をかけ、ヘリ投入を催促した。特戦司令部のある幹部は「クァク前司令官が誰かに電話で『なぜヘリが飛ばないんだ、始動をかけないのか』と怒号を上げた」と検察に供述した。無謀な内乱が幕を下ろした後、クァク前司令官は特殊戦司令部の指揮統制室で独り言のように「これからどうすればいいのか」とつぶやいたという。その質問への答えを持つ者はいなかった。

 クァク前司令官は非常戒厳の翌朝9時30分頃、合同参謀議長が開いた会議後、数人の部下たちとともにお茶を飲んだ。この席で彼は「実は事前にこういうことがあるだろうと聞いていた。半信半疑で旅団長たちには事前に何の指示もしなかった。この程度で止まったのは幸いだと思う。出動指示を受けて抵抗しきれなかったのは、長官の抗命の脅しと大統領の電話のせいだった」と語ったという。

クァク・チンサン、チョン・ヘミン、ペ・ジヒョン、カン・ジェグ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
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北京に来るのは初めて。北京に来て都市の様子に本当にびっくりした。西洋諸国のメディアが報じている中国とは全然違う。中国には未来がある」と語った。

2025-02-19 11:06:30 | 中国を知らなければ世界はわからない

中国侵略日本軍の悪行を記録した写真

622枚が北京に到着 中国に寄贈へ

人民網日本語版 2025年02月18日10:08
 

フランス人男性のマルクス・デトレーズさんは今月15日、第二次世界大戦中の中国侵略日本軍の悪行を記録していると彼が考える、母方の祖父ロジェ・ピエール・ローレンスさんが撮影した写真622枚を持って、友人2人と共に、北京に到着した。マルクスさんは、これまでずっと埋もれていた写真を中国に寄贈したいと考え、友人2人と共に、実現に向けて調整を進めてきたという。斉魯晩報が報じた。

マルクスさんは15日、北京で取材に応じ、「僕が中国に行く予定であることを知った友人の松松さんは四川省成都市から、フランス人のバスティアン・ラタットさんはタイのプーケットから駆け付け、北京で合流した」と話した。

写真を整理するマルクスさん。

写真を整理するマルクスさん。

3人は今回、北京で寄贈に向けた調整の進展を待つという。マルクスさんは北京のほか、上海も訪問し、ローレンスさんが当時上海で暮らしていた場所を探すほか、写真に写っていたローレンスさんの中国人の友人の子孫らも探す予定という。

中国カンフーが大好きというマルクスさんは、「中国に来るのは初めてではない。十数年前に、西安などを訪問して、カンフーを数日習ったことがある。でも北京に来るのは初めて。北京に来て都市の様子に本当にびっくりした。西洋諸国のメディアが報じている中国とは全然違う。中国には未来がある」と語った。

マルクスさんは2021年に、ローレンスさんの車庫を片付けていた時に、防水ケースに入れられたアルバムを発見したという。アルバムには、ローレンスさんが1930年代に上海で暮らしていた様子を捉えた写真が収められていた。

ロジェ・ピエール・ローレンスさんが撮影した写真。

ロジェ・ピエール・ローレンスさんが撮影した写真。

マルクスさんは、まず関連する写真170枚を見つけ、「その後整理していた時に、さらに452枚見つけた。写真には、旧日本軍が中国を侵略していた際、上海を爆撃した様子や四行倉庫、旧日本軍の一般市民に対する暴行などを捉えた写真も含まれていた。ほとんどの写真に、祖父がメモを加えていた。もし必要であれば、今回、写真を提供したい。中国国家文物局の鑑定作業にも協力したい」とした。(編集KN)

「人民網日本語版」2025年2月18日

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16日、DCインサイドに「女子芸能人ギャラリー」名義で掲載された声明文は「キム・セロンさんは自分の過ちを認め反省し、再起するために努力した。

2025-02-19 10:01:13 | 韓国を知ろう
 

「人格殺人」悪質な書き込み…

誰が俳優キム・セロンさんを死に追いやったのか=韓国

登録:2025-02-18 06:33 修正:2025-02-18 07:09
 
 
                                              俳優のキム・セロンさん=シネ21//ハンギョレ新聞社

俳優のキム・セロンさんが16日、25歳の若さでこの世を去った。過去に飲酒運転をした過ちが取り返しのつかない悲劇に至った事態を巡り、芸能人に向けた悪質な書き込みと、これを誘発し拡大する一部マスコミの報道に対する省察の声が高まっている。

 キム・セロンさんは才能に溢れる、期待の若手俳優だった。2001年に1歳で雑誌モデルとして芸能界にデビューしてから、2009年には映画『冬の小鳥』に出演し、俳優の道を歩み始めた。子役とは思えないほど繊細な演技で好評を得た。俳優ウォンビンさんと共に出演した映画『アジョシ』(2010)で、韓国を代表する子役の仲間入りを果たした。『冬の小鳥』で第19回釜日映画賞新人女子演技賞を、『アジョシ』で第8回大韓民国映画大賞新人女優賞を、『私の少女』で第35回青龍映画賞最年少新人女優賞を受賞した。『冬の小鳥』と『私の少女』で、フランスのカンヌ国際映画祭のレッドカーペットを2回も踏んだ。

 しかし、2022年5月に飲酒運転の交通事故を起こしたのが俳優のキャリアに大きな打撃を与えた。当時、ネットフリックスシリーズ「ブランドハウンド」で、キム・セロンさんの撮影分はほとんど編集され、後半には代役を立てられた。出演が予定されていた作品でも次々と降板せざるを得なかった。以後、演技活動を中断し、長い自粛期間に入った。

 問題は、大衆とマスコミの覗き見的な視線がキム・セロンを放っておかなかったことにある。バリスタの資格を持つキム・セロンさんがカフェでアルバイトをしているというニュースがマスコミを通じて流れると、カフェのSNSに誹謗中傷の書き込みが殺到した。キム・セロンさんが趣味で釣りをする写真をソーシャルメディアに投稿すると、マスコミは「『飲酒運転』キム・セロン、近況公開…釣りを楽しみながら笑顔」という見出しの記事でアクセス数を稼いだ。すると、人々はまた怒りをあらわにした。キム・セロンさんは昨年、演劇「トンチミ」で活動再開を打診したが、復帰のニュースが流れ、再び世論が沸騰したことを受け、一日で健康上の理由で降板した。遺作となった映画『ギターマン』の封切りを控えていたが、結局復帰は不可能になった。

 これに対し、芸能人に向けた憎悪と暴力の悪循環に対する批判の声が高まっている。米国イェール大学医学部精神医学科のナ・ジョンホ助教授は17日、フェイスブックに文を載せ「過ちを犯したからといって、再起のチャンスも与えず、人を社会的に葬ってしまう社会は健康な社会とは言えないと思う」とし、「失敗したり落伍した人を見捨て、何事もなかったかのように通り過ぎる韓国社会の姿は、まるで巨大な『イカゲーム』のようだ」と批判した。

 作家のウニュさんもインスタグラムで、「いわゆる『物議』を醸した芸能人の記事には目を通す方だが、そのほとんどが『これでも死なないのか』という人格殺人のレベルのもの」だとし、「芸能人であれ労働者であれ、生きていく勇気を与えることに興味がなく、公論の場が処刑台になった社会に何の希望があるのか」と問い返した。

 
 
                     DCインサイドの「女性芸能人ギャラリー」の声明文のキャプチャー//ハンギョレ新聞社

 オンラインコミュニティでも自省の声があがっている。16日、DCインサイドに「女子芸能人ギャラリー」名義で掲載された声明文は「キム・セロンさんは自分の過ちを認め反省し、再起するために努力した。だが、その過程で彼女に浴びせられた非難と世論の無視は人間的な限界を越えるものだった」とし、「韓国社会がより暖かい目ですべての人を見守るきっかけになることを願う」と述べた。

キム・ミンジェ、ソン・ギョンファ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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