Twitterで、「知らんけど」という言葉がトレンドにあがっていました。
これはですね。簡単にいうと、責任回避の言葉です。
ほら、いろんな情報が飛び交っていたでしょ。
それで、「なになにはこうだ」と断定して、間違っていると、非難されます。
だから、最後に「知らんけど」とつけるわけです。
例えば、「ジョンFケネディ・ジュニアは生きている。知らんけど」みたいな感じです。
ある事実について、自分で裏取り出来ないから、
仕方なく「知らんけど」とつけるわけです。
事実があったか無かったかは、知りません。
しかし、そんな話を聞いたよ、ということです。
ちょっと笑えますが、でもね、事はもっと深刻です。
最近の理不尽な出来事について、僕はニーチェの言葉を思い出しました。
「事実というものは存在しない。あるのはただ解釈だけである」という言葉です。
どういうことでしょうか?
たとえば、若葉マークをつけた青年が、ヤクザの乗ったベンツに、後ろから追突されました。
目撃者はいません。
「お前が俺の車にぶつかってきたんだよな。今回は許してあげるから気を付けろよ」
とヤクザは言いました。
青年は言い返せず、「はい」と言ってしまいました。
事実は、ヤクザが追突したということですね。
しかし、ヤクザの解釈は、青年がぶつかって来たということです。
そして、ヤクザの解釈が通ってしまいました。
事実はなく、あるのは解釈だけです。こういうことです。
この解釈が通ってしまう背景は何でしょうか?
それは圧倒的な暴力です。つまり、事実を捻じ曲げてしまう力です。
ニーチェの言葉を悪く捉えすぎて、怒られそうですが、まあこういうことです。
事実がいくら正しくたって、結局、力を有している者の解釈が通ってしまうということです。
理不尽ですよね。
しかし、選挙に明らかに不正があり、それをいくら訴えても、誰も聞かず、
結局、不正が通ってしまう世界とは、どういう世界でしょうか?
事実を知れば知るほど、こんなことがまかり通っていいのかと思います。
そういう時代がやってきました。
いや、昔からですね。悲しいけれどね。
だから、強くならなければいけないんです。
善なる心を保ちながら。