フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

知らんけど

2021年01月13日 07時00分00秒 | 日々の出来事・雑記

Twitterで、「知らんけど」という言葉がトレンドにあがっていました。

これはですね。簡単にいうと、責任回避の言葉です。

ほら、いろんな情報が飛び交っていたでしょ。

それで、「なになにはこうだ」と断定して、間違っていると、非難されます。

だから、最後に「知らんけど」とつけるわけです。

例えば、「ジョンFケネディ・ジュニアは生きている。知らんけど」みたいな感じです。

ある事実について、自分で裏取り出来ないから、

仕方なく「知らんけど」とつけるわけです。

事実があったか無かったかは、知りません。

しかし、そんな話を聞いたよ、ということです。


ちょっと笑えますが、でもね、事はもっと深刻です。

最近の理不尽な出来事について、僕はニーチェの言葉を思い出しました。

事実というものは存在しない。あるのはただ解釈だけである」という言葉です。

どういうことでしょうか?

たとえば、若葉マークをつけた青年が、ヤクザの乗ったベンツに、後ろから追突されました。

目撃者はいません。

「お前が俺の車にぶつかってきたんだよな。今回は許してあげるから気を付けろよ」

とヤクザは言いました。

青年は言い返せず、「はい」と言ってしまいました。

事実は、ヤクザが追突したということですね。

しかし、ヤクザの解釈は、青年がぶつかって来たということです。

そして、ヤクザの解釈が通ってしまいました。

事実はなく、あるのは解釈だけです。こういうことです。

この解釈が通ってしまう背景は何でしょうか?

それは圧倒的な暴力です。つまり、事実を捻じ曲げてしまう力です。

ニーチェの言葉を悪く捉えすぎて、怒られそうですが、まあこういうことです。

事実がいくら正しくたって、結局、力を有している者の解釈が通ってしまうということです。

理不尽ですよね。

しかし、選挙に明らかに不正があり、それをいくら訴えても、誰も聞かず、

結局、不正が通ってしまう世界とは、どういう世界でしょうか?

事実を知れば知るほど、こんなことがまかり通っていいのかと思います。

そういう時代がやってきました。

いや、昔からですね。悲しいけれどね。

だから、強くならなければいけないんです。

善なる心を保ちながら。


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