物語をグイグイ読ませるには、共感を得るように書かなければならないといわれる。
そのひとつの方法として、まず、主人公を目標に向かって走らせる。そして、簡単にはいかないように、葛藤や障害を設定する。その頑張っている姿に読者は共感する、という感じだろうか。なるほどと思う。
ここでもう一度エチカを引用してみよう。
われわれは、あるものを善と判断するから、そのものへ努力し、意欲しあるいは衝動を感じあるいは欲求するのではない。むしろ反対に、あるものを善と判断するのは、そもそもわれわれがそれに向かって努力し、意欲し、衝動を感じあるいは欲求するからである(エチカ第3部定理9注解)
スピノザ的に言えば、目標があってそれに向かって頑張るのではなく、まず、衝動があるということである。
宮台真司が面白いことを言っている。
本当にすごい奴は、端的な衝動に突き動かされた人間だという。すごい奴はありそうもない衝動や不思議な動機によって、とてつもないエネルギーを発している。
わたしたちはそのようなすごい奴に出会うと、理屈抜きにこの人のようになりたいと思ってしまう。この強烈な真似を「感染的模倣」という。 この感染的模倣は、共感を超えてしまっている。
この強い衝動に突き動かされた人間に出会うと、彼の持つとてつもないエネルギーに引っ張られ、わけの分からない衝動が内側から生まれてくるのである。
だから、共感を超え、人を感染的模倣にまで向かわせる物語を書くには、主人公のとてつもない衝動を表現することが必要になる。
このすごい奴は、道徳的に正しい人ではない。道徳的善悪は関係ない。悪党だって感染的模倣を引き起こすことが出来る。模範的な人間ばかり出てくる道徳的な物語が説教臭くてつまらないのは、強い衝動が欠けているからである。
本当の善は、スピノザ的に言えば、端的な衝動に突き動かされることだからである。
次は、この衝動に突き動かされた人間の悲劇について書きたいと思う。