ガンジス・河の流れ

インド・ネパール。心の旅・追想

ジャンキーの旅         マリー・・・・・5

2011-06-08 | 2部1章 マリー


マリーが用意してくれたスタッフ10gは一週間足らずで終ってしまうだろう。一日、小パケ二~三個で足りていたのに最後にはエマから5g単位で買っていた。フィリップスとの腐れ縁は長い、それを知っている他のプッシャーは彼に気を使っているからか、シンジケートの無言の決まりでもあるのか、ぼくへのスタッフの売りを控えていた。フィリップスのリリースを境にしてプッシャー達は動き出した。フィリップスとぼくのリリース迄の差は約一ヶ月足らずだ、その間にぼくは一日スタッフ1gを必要とする身体になっていた。
スタッフがキックする、夢のような幸福感に満たされ身体が心地よく揺れた。
 朝、トイレを済ましスタッフを一服した。窓のレースのカーテンは一日中開けられないだろう、スタッフを吸っている場面を隣の二階から見られては困る。キッチンに行って見るとトースト、ティーパックそれにミルク等が用意されていた。水道の蛇口を回したが水は出ない。フロアーには汲み置きしてあるのだろう水の入ったバケツが置いてあった。刑務所では朝のティーとトーストは当番によって運ばれてきたが、自分の事は自分で用意しなければならない。朝食を終えベッドの上で横になり至急やらなければならない事を考える。
フィリップスに会いスタッフ50gとチャラスの手配を頼む。大使館へは釈放の報告とお礼を兼ねて保管されているぼくのお金を引き取る。買物は小さなアラーム付きの置き時計、鋏み、アルミホイール、ライターそれに下着や洗面用具等、大使館からお金を受取った後になるだろう。
蛇口の下にバケツを置き水が出始めたら分かるようにバスルームのドアを開けて待っているが水はまだ出そうにない。給水の時間をマリーに確かめておく必要がありそうだ。

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ジャンキーの旅         マリー・・・・・4

2011-06-06 | 2部1章 マリー


ぼくはもうデリー中央第一刑務所、第五監房区へは戻らなくて良いのだ。窓の二重のカーテンを閉め扇風機を止めた。風が治まるのを待ってぼくはスタッフのパケを開き吸う準備を始める。急ぐ事はない、密告者もいなければ刑務官の抜き打ちのチェックもない。ぼくは深く、深くスタッフの煙を吸い込んだ。身体の隅々の細胞に広がっていくスタッフのエネルギーを感じ二度、三度とぼくは吸い込んだ。ベッドの上に横たわると心の緊張感が弛んでいく、だが頭の中に描かれるイメージは高い塀と鉄格子に囲まれた刑務所内の情景しか浮んでこない。もう終ったのだ、スタッフがキックしてぼくはそう呟いた。アシアナで五十日間、刑務所内の完全隔離治療でヘロインを断つ事に成功したかに見えたが薬物への強い依存体質は燻ぶり続けていた。
第一刑務所で再会したショッカンが用意したスタッフをその夜、ぼくは何の躊躇いもなく吸った。それから十ヶ月、刑務所内でスタッフを吸い続けた。心身は消耗している、それは異常な刑務所内の生活と過酷な熱波に襲われたデリーの夏が主要な原因と思われるが、その間に使用したスタッフも大きな要因であろう。このままスタッフを吸い続けていけばそう遠くない日、ぼくはカルロスのようにオーバードースで死に至るだろう。しかし今、自分の意志でスタッフを断つ事は不可能だ。アシアナのように外部と完全に隔離した医療施設で治療するしかヘロインから逃れる道はない。だが治療を終え街に戻った時、あまりにも安易に手に入るスタッフを断ち続けることは依存症者にとっては困難過ぎる。ベッドから起き上がり二回目のスタッフを吸う用意をした。
「ちよっと軽く、アメリカンだ」
吸い過ぎの言い訳を自分自身にして吸った。

 
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ジャンキーの旅         マリー・・・・・3

2011-06-05 | 2部1章 マリー


スープは美味しかった。フライドライスは小皿に取って少し食べたが、あまり食が進まない。不味いのではない、たぶんシックが始まっているのだろう。
夕方六時の施錠後、釈放の為ぼくを引き取りに来る刑務官を待っていた。スタッフを吸っている場面を刑務官に見つかったら全て終りだ。釈放されたらいつでも、なんの心配もなく吸えるぼくは我慢した。そして今、夜九時過ぎ、二回目のスタッフも吸っていない。
「スタッフ、持ってる?」
「部屋に帰れば用意してあるわ」
食事を残してぼく達は部屋へ向かう事にした。ぼく達を乗せたオート力車はぼくが全く知らない道路を走っている。刑務所を出てからかなり走っている、デリー中心部に近い場所だろうと思えるのだが、オート力車はある高級住宅地の中へ入ろうとしている。団地の出入り口にはゲートがあり、銃を持った警備員が二名立っていた。夜間警備だろうが力車は一旦停止を命じられた。
 大きな二階建ての家だった。一階玄関横の路地を入っていくと鍵の掛ったドアがあり、内階段を上がると突き当たりに又、鍵の掛ったドアがあった。ドアを開けると廊下で左へ行くと直ぐ左側はキッチンになっている、その前のドアを開けると十五畳程の広い部屋だ。その部屋をぼくが使えるようにマリーは用意してくれていた。部屋の左奥の壁際にあるセミダブルくらいのベッドは清潔な白いシーツで包まれ、その横にはテーブルが置かれていた。右奥のドアの中は広いバスルーム、マリーは廊下の突き当たりの部屋を使っているのだろう、スタッフをぼくに渡すと自分の部屋へ戻って行った。
部屋の何処を見回しても見慣れた鉄格子はない。高い大きな窓には白いレースのカーテンが掛けられ白い壁には壁掛けの鏡があった。鏡に映るぼくを見る、頭にも髭にも随分と白いものが増え頬はげっそりとこけ、目だけが異様に大きくぎらついていた。Tシャツを脱ぎ上半身を見ると肋骨や肩の骨が浮き上がり、栄養状態の悪い半病人か難民のような姿に我ながら情けない。
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ジャンキーの旅         マリー・・・・・2

2011-06-03 | 2部1章 マリー


一九九五年九月二十三日夜、ぼくは釈放された。この日釈放されたのは約十五名、外国人はぼくとナイジェリア人のアシュラムだった。センターゲート・オフィスでの釈放手続きは長い時間を要した、いつもの事だ。インド的な非効率的事務処理で待たされるのにはもう慣れている。センターゲートの潜り戸から刑務所の外へ出、迎えに来てくれたマリーと一緒にオート力車に乗ったのは九時を過ぎていただろう。暗い荒地の中を真直ぐ延びる道路を走り続ける、と前方に明かりが見え街の中へ入った。彼女はちょっと高級な中華風レストランの前でオート力車を停めた。レストランの中は高カーストのインド人客で賑っている。アフリカン・ブラック女と膝の出たトレーナーにサンダル姿でビニール袋をぶら提げたジャパニー、それを見たボーイは奥の離れたテーブルにぼくとマリーを案内した。
まずビールを頼む、ボーイが歩いていく後姿を目で追いながら華やかなレストランの現実と30分前までのネガティブだった日常の落差に気持ちの整理がつかない。
「今日でちょうど十一ヶ月だよ」
「何が?」
「ポリに逮捕されてからさ」
「あぁ、そう、長かった?」
「分からない、長かったのか、どうか?」
グラスを鳴らしマリーと乾杯する。冷たいビールが喉を刺激し、ぼくは自由になったのだ、煙草に火を点け煙を深く吸い込む。


(ぼくは社会復帰して10年、当時のノートを見ることはなかった)


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ジャンキーの旅         マリー

2011-06-01 | 2部1章 マリー


「大変よ、トミー」
廊下をパタパタと駆けるサンダルの音。朝、マリーが新聞を持ってぼくの部屋に飛び込んで来た。
「刑務所内で大事件だわ」
『デリー中央第一刑務所内で集団肝炎発生、多数の死傷者が出たもよう。原因は調査中だが刑務所内の水源汚染によるものと思われる』新聞記事。
「クリス、死亡。モハンマド、これはパラの本名なんだけど重体・・・」
彼女は記事を読み続ける。皆、ぼくが知っている奴らだ。一週間前の夕方、ぼくの釈放を監房内から手を振り声を掛け見送ってくれた。
「トミー元気でやれよ」
「外でまた会おう」
クリスはピーターと同じ四房、パラは九房、六房のムサカそれに七房のチョコマ。其々の房は異なっているが全員スタッフの常習者だ。ヘロインは体力を低下させると同時に痛みを感じさせない。末期癌患者の激痛はヘロインから作られたモルヒネで緩和させる。スタッフの中毒者である彼らは身体の異常に気付かなかった。第五監房区には三ヵ所の水場がある、飲んではならない水場はぼくも知っている。
 今年のデリーは異常気象で乾季は連日四十七度の熱波が襲った。五十度を超える照り返しの熱風から逃れる術はない。唯一の方法は房の鉄格子のドアを厚い毛布で覆って閉め熱風の侵入を防ぐ、それしかなかった。朝、起きて首筋や腕を触るとざら々するのは毛穴から汗が蒸発し肌に残った微細な白い塩の結晶だ。多くの収監者は体力を消耗し疲れきっていた。
クリス、三十七才死亡、小柄で人の良いフランス人だった。もしぼくの釈放が一週間遅れていたら・・・
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