先日は地元我孫子の農政課に農地の相談をしに行ってきました。
僕は商業目的で農業をやりたいわけではないので、表ルートから農地を見つけることはまず難しいことはわかっていましたが、僕は『農業』にいきなり裏口から入ってしまったので、表玄関から訪ねてみて、そのしくみを知っておくことは大事だと思ったのです。
それにしても、現在の主流であるお役所の推進する農業と、自分の考える農業との間にこれほどまでに意識のギャップがあるものかと痛感しました。
今の世の中では『農業』というのはあくまでお金をかせぐ手段のうちの一つであって、お役所の人なんかは特に、もう数字の上でのものでしか無くなっちゃっているんだなーと思いました。
今どこの地域でも、農家の高齢化に伴う放棄農地が問題になっていますが、その放棄農地を使えるようになるには、農業学校に通ったり、農家の方について何年か修行したりして、『信用』を得ることが重要になりますし、そのことは全く当然のことだと思います。
だけど必要なのは『信用』だけじゃなくて、『ビジネスとしてのプラン』なんだそうです。
農地を貸し出す判断は、毎月開催される評議会において決まるそうなのですが、その評議会を構成している人たちというのは就農生活50年とかの生粋の就農農家の方だそうで、「それで食っていく」という人にしか貸せないそうです。
本業の農家の方ですらパートなどをやりながらなんとか食べていっているという現在の農業の状況の中で、「バイトとの掛け持ちなんて言語道断」って一体何が目的なんだか。
食っていけないから若者が農業から離れていっているわけだし、お金をうまく稼ごうとすれば農薬や化学肥料に頼った農業をやらざるを得ないし、金銭換算で言うなら安い輸入品を買えばいいわけで、日本の自給率なんて回復するわけがありません。
もともと我孫子でやりたいと思ったのも、我孫子にはまだ有機農業とか新しい農法(というよりは本来の農法)の考え方が普及していないようで、山奥とかでやるよりはむしろ意味があるはずだ、という思いからもきているわけで、理解者に乏しい環境であろうことはわかっていましたが、あまりに金銭主義な現実を見てしまって、少なからずショックを受けていたところ、群馬の友人も、農家の方から理解を得ることができずに困っているというのを聴いて少し安心しました。
本来農業とは、人間として生きる一番あたりまえの「手段」です。
だれもお金を食べて生きているわけではないのに、食べ物がいつもお金と交換で出てくるので、なんとそのことを忘れてしまっているのです。
事実江戸時代までは国民の9割近くは農民でした。その後の開国、輸入自由化、近代化、グローバル化によって日本の自給自足のシステムは破壊され、食糧だけでなく、あらゆるものを他の国からお金で買うようになってしまい、個人レベルで言っても、自分が生きていくのに必要なものを何一つ自分で作ることができなくなってしまいました。
『農業』をビジネスとして考えている限りは、本来の農業の姿に気づくことはできないんじゃないかなーと思います。
とりあえず、父が畑の一部を貸してくれると言ってくれたので、技術も人のつながりも、少しずつ地道に作っていこうと思います。農music, No Life!!
「土を耕すのを忘れるということは、自分自身を忘れるということだ」マホトマ・ガンジー