これまでの記事
・自然の力、生命の力、肯定の力(1)~動的平衡part.1
・自然の力、生命の力、肯定の力(2)~動的平衡part.2
・自然の力、生命の力、肯定の力(3)~あいまいな量子part.1
<不思議の国の量子>
まず「量子(りょうし:クォンタム)」という言葉は、とびとびの量、量の固まり、というような意味があります。
ある現象から、ミクロ(極小)のスケールではエネルギーがとびとびの値をとる。ということがわかりました。そこで生まれたのが、エネルギーには最小の量の固まり(=量子)が存在する、という考え方です。
そして、そう考えることによって、それまで謎だった他の様々な現象にも説明がつくことが解ったのです。
(エネルギーの階段の図)
この「量子」という考え方によって、説明がついたものの一つが「光」です。
それまで、光は波だと考えられていました(し、実際そうでもあるのです)が、ある現象が光をエネルギーの粒=量子と考えることによってうまく説明がつくことが解ったのです。
そして、もうひとつ説明がついたのが、原子の周りを飛び交う電子のふるまいです。
電子のふるまいは謎めいていて、ずっと多くの学者の頭を悩ませていましたが、そこにとびとびの量という考え方と、とびとびの量の理由として、粒子である電子が波としての性質も兼ね備えている、と考えることで原子の中身の話がすっかり上手く説明できることが分かったのです。
物理学はこのように、ものはミクロサイズで見てみると、波であって同時に粒子でもある、というような不思議な2面性がある、という結論に直面しました。そしてこのような不思議なふるまいをするものが総じて「量子」と呼ばれています。
つまり、量子とは特定の大きさの粒子のことを指すわけではないのですが、この”量子らしさ”が大きく発揮されるのはよっぽど小さいものなので、たいていの場合「量子」と言ったときには電子や素粒子といったミクロサイズのものを指します。
ところで、ここで言う「波」とは、普段僕らがイメージする波とは少し違います。
つまり、自然界に存在する海のような波は、沢山の粒子が集まって「波」という現象を起こしているものなのですが、この場合の量子が波である、というのは一つの粒子が、一つの粒子でありながら同時に波にもなっている、という不思議な状態なのです。
この、いくら文字で聞いてもわからない不思議な「量子」のふるまいと、その量子力学の明らかにした自然界のありようを理解するのに最適なのが、有名な次の実験です。
<波であると同時に粒である?~2重スリット実験>
(2重スリット実験の図)
真空状態の実験装置の中に電子銃があり、その前に2つのスリット(隙間)があり、その後方には電子が当たるとカメラのフィルムのように感光して跡を残すスクリーンがあります。
(0)まず、スリットに向けて、光を当ててみます。すると、スクリーンには下図のようなしましまの模様ができます。
このしましま模様は、光が波としてスクリーンに伝わっていることを示すもので、つまりスリットAから出た光の波と、スリットBから出た光の波の、山と山の重なるところが強め合って、谷と谷の重なるところは弱め合うことでできる干渉模様です。
(光の干渉模様)
(1)では次に、電子銃から電子を一粒だけ発射してみます。
するとスクリーンには点がひとつ記録されます。
これは疑いようもなく、電子が粒子としてスクリーンに飛ばされていることを示すものです。
ただ、面白いのは同じ条件で何度電子を発射してみても、電子の記録される場所は一か所には定まらず、あちこちに記録されるのです。
(2) そこで電子をしばらく打ち続けてみると、驚いたことにスクリーンには、(0)の実験のときと同じ、干渉のしましま模様が浮かび上がってくるのです!
スクリーンでの観測結果は、電子があきらかに一粒ずつ飛ばされていることと、同時に波としても伝わっていることを示してしまいました。
一粒づつ飛ばされた電子には強め合う相手も弱め合う相手もいないはずなのに!です。
(2重スリット実験画像)
(3) さらにここで、ほんとのところ一粒の電子がどのように伝わっているのか確かめてやろう!と、スリットとスクリーンの間に電子の動きを見るセンサーを取り付けてみます。
すると様子を見ようとした瞬間、つまりセンサーが電子を一粒の粒子として捉えた瞬間、しましま模様はパタリと起きなくなるのです。
参考動画:HITACHIホームページhttp://www.hitachi.co.jp/rd/research/em/doubleslit.html
一体ぜんたいミクロの世界ではどんなことが起きているのか?世界中の天才たちが考えに考えて、実に様々な解釈が議論されましたが、結果として物理学会の定説として落ち着いているのが
「ものは観測されていないときは”波”で、観測された瞬間に波が収縮(確定)して”粒”として一か所に決定される。」
というあまりに常識はずれなものです。
なにしろ誰も見ていないときのものの状態なんて、誰も見ることができないのです。
言い逃れだと言われようがバカバカしいと言われようが、とにかくそう考えるしかないし、そう考えることで、実に量子は計算どおりの動きをするのです。
ただし、計算で求めることができるのは量子が「ここにいるかも」の「確率」まで。
「ミクロの世界では物のありようが確率的にしか予測できない?」
「物は誰も見ていないときはあやふやで、見た瞬間に物になる?」
これには、一緒に量子論を作ってきた多くの物理学者も猛反対!
物理学会は「あいまい」賛成派と反対派で真っ二つに分かれました。
「ものの動きには、法則に基づいた一つの選択肢しか用意されていない」
これは、近代科学、物理学の大前提であり、「あいまい」とか「ランダム(偶然)」だとかを認めてしまうことは旧い意味での物理学者にとって、自然界に対する「敗北」をも意味したのです。
それまであらゆる常識をぶち壊しまくってきたアインシュタインも
「宇宙原理の根本に“偶然”の入り込む余地は無い。神は宇宙相手にサイコロ遊びはしない!」
と、死ぬまで反対しました。
しかし、アインシュタインの死後、「あいまい」な量子論の正しさが次々と証明されていきます。
つまり、自然界の事があいまいにしか解らなかったのは、測定装置の技術や、人類の無知のせいではなく、自然界が本質的にあいまいにできていたことによるもので、古代哲学の「不正確さ」を否定することで生まれた物理学が、やっとのことで辿りついたのは、皮肉にも自然界の「不正確さ」だったのです。
*アインシュタイン:時間や空間が観測者の状態によって変化する相対的なものであること、重力が空間の歪みであること、物質とエネルギーが同じひとつのものの別の状態であること等、光速に近いスピードや、惑星間など極大スケールの世界において、日常の常識と、それまでの物理学(ニュートン力学)の通用しないこと等を明らかにした。
<あらゆるものは波である>
今回の実験は電子を使ったものですが、このような「波」と「粒子」の二面性は何も電子に限った話でもなければ、ミクロサイズのものに限った話ではありません。
ただし、どれだけ「波」の振れ幅が大きいか(=不確定性、どれだけ量子っぽいか)というのはそのモノの大きさに関係しています。
つまり、野球のボールや微生物などの日常的な大きさでは、ほとんど場所が決まっていて、波としての性質を気にする必要はありませんが、これが原子の大きさになると、原子の大きさと同じくらい場所が不確かになり、さらに電子サイズになると、もう電子よりはるかに不確かさの幅が大きくなり、場所の予測が確率でしか求められなくなってしまいます。
日常サイズでは問題ない「不確かさ」も、ミクロサイズでは大きな誤差となってあらわれてしまうわけです。
そして量子力学とは、この確率の波を計算で求める学問であり、現在のエレクトロニクスのテクノロジーはこの量子力学によって成りたっています。
ミクロの世界を覗いてみて解ったこと、
「もの」は確かめようとすればするほど“あいまい”になっていく。
(続く…)