ヤンチャなインプラントDRのヤンチャだった頃。
私は昭和35年の生まれです。
丁度、日本の神懸り的な経済成長期で、東京オリンピック、東海道新幹線、東京タワーと日本が元気だった頃を幼少期として過ごしました。
一応生まれは鹿児島県の出水市の実家、自宅です。
12月14日と言う冬の真っ最中、東京人は信じられないようですが、南国鹿児島にも雪はチャンと降るもので、私の生まれた日は祖父の膝まで埋まる位雪が積もったそうです。
雪が積もっている中、祖父が一所懸命に帰宅して、今か今かと生まれてくるのを待っていたそうです。
その頃、父は単身赴任で埼玉に住んでいました。
昔はこう言う事が良くあったそうです。
当然、生まれてから暫くは田舎で育ち、祖父祖母に可愛がられて過ごしていたそうです。
田舎の実家では祖父が動物好きで、鶏、ガチョウ、猫、犬、馬、豚と色々と飼っていたそうです。
終戦後の話ですが、進駐軍が復活祭のお祝いで実家のガチョウを全部連れて行ったしまったそうで、その時は悲しくて皆で泣いたそうです。
又、農地解放では実家は財産の9割以上を失ったと聞きました。
そんな中、跡継ぎ一人娘の長男坊、待望の男の子として私は誕生しました。
我が家は女系の家系で、跡継ぎで男の子とが授かる事は珍しい、慶事のことでそれはそれは親戚関係皆で喜んだそうです。
私の誕生に際してのお話を今日は書きます。
実は私は母が19歳の時の子供です。
母が高校卒業と同時に結婚して、すぐに身籠ったのが私でした。
松元の苗字は、母方の苗字で、父は旧姓中馬ですので、私は松元です。
母は19歳と言う若さでしたのでの妊娠でしたので、どうしようか、要するに産もうか、今回は御免なさいにしようか、ともめたそうです。
母は、大学に進学して栄養学を勉強して栄養士になりたい、と言う夢を持っていましたし、まだ若いから幾らでもチャンスはある、勉強と育児は両立は難しいだろう、と言うことで今回は・・・、と言うことに固まりかけていたそうです。
ところが、その時に普段無口で有名だった松元の祖父が、せっかくの授かりものなんだから、神様からの贈り物なんだから生みなさい、と鶴の一声で母の気持ちと、親戚一同の意見も固まったそうです。
厳格で明治な男だった祖父が、一族の長として下した決断でしたので、皆それに従ったのです。
そして、そのお陰で待望の男の子が松元家に生まれたのです。
後からになりますが、その後私の姉妹は妹ばかり3人でしたから、母が産んで置いて良かった、と話してくれます。
そう言われながらも、実際に頼りになるのは女の子で、実家に出入りも良くしてくれるし、両親の事も何かと考えていてくれます。
男の子は結婚して家庭を持つと細君と子供が大事で、中々実家の方の世話は出来ないですね。
結構役立たずの長男です。
でも、鹿児島と言う土地柄でか男の子を授かったのは有り難い、と喜ばれたのは私自身も自分の子供で経験しています。
長男、男の子一人でそこに又男の子が授かったので、母が凄く喜びました。
男の子の所に男の子が授かると言うのは、松元の家で多分100何十年ぶりのことで、慶事だそうです。
私はもしかするとこの世に生を授かっていなかった、その時の多数意見ハッキリ言って松元の祖父以外はまだ若い、と言う意見だったと聞いていますから、祖父の決断授かった命は大切にしないといけない、には心から感謝しています。
お陰様で私は生を受け、今何がしかのお役目を果たそうと頑張れています。
小さい頃から跡継ぎ息子、と親戚一同から見られ、育てられて来た為に少しだけ息苦しいな、とも感じないことがなくもなかった私ですが、祖父には本当に感謝しています。
まあこう言う性格に生まれ付いていますので、そうは言いながらも天真爛漫、自由に育った、個性豊かに大人になりましたが。
妹達に言わせると、お兄ちゃんは凄く大切にされていた、特別扱いだった、と羨ましがられていた、というのもあります。
こう言う色々なことがあって、私はこの世に生まれて来ました。
19と言う若さで産んでくれた母、命の大切さを説いて、鶴の一声を無口にもかかわらずその時には発してくれた祖父。
命の有り難さを深く感じます。
私は昭和35年の生まれです。
丁度、日本の神懸り的な経済成長期で、東京オリンピック、東海道新幹線、東京タワーと日本が元気だった頃を幼少期として過ごしました。
一応生まれは鹿児島県の出水市の実家、自宅です。
12月14日と言う冬の真っ最中、東京人は信じられないようですが、南国鹿児島にも雪はチャンと降るもので、私の生まれた日は祖父の膝まで埋まる位雪が積もったそうです。
雪が積もっている中、祖父が一所懸命に帰宅して、今か今かと生まれてくるのを待っていたそうです。
その頃、父は単身赴任で埼玉に住んでいました。
昔はこう言う事が良くあったそうです。
当然、生まれてから暫くは田舎で育ち、祖父祖母に可愛がられて過ごしていたそうです。
田舎の実家では祖父が動物好きで、鶏、ガチョウ、猫、犬、馬、豚と色々と飼っていたそうです。
終戦後の話ですが、進駐軍が復活祭のお祝いで実家のガチョウを全部連れて行ったしまったそうで、その時は悲しくて皆で泣いたそうです。
又、農地解放では実家は財産の9割以上を失ったと聞きました。
そんな中、跡継ぎ一人娘の長男坊、待望の男の子として私は誕生しました。
我が家は女系の家系で、跡継ぎで男の子とが授かる事は珍しい、慶事のことでそれはそれは親戚関係皆で喜んだそうです。
私の誕生に際してのお話を今日は書きます。
実は私は母が19歳の時の子供です。
母が高校卒業と同時に結婚して、すぐに身籠ったのが私でした。
松元の苗字は、母方の苗字で、父は旧姓中馬ですので、私は松元です。
母は19歳と言う若さでしたのでの妊娠でしたので、どうしようか、要するに産もうか、今回は御免なさいにしようか、ともめたそうです。
母は、大学に進学して栄養学を勉強して栄養士になりたい、と言う夢を持っていましたし、まだ若いから幾らでもチャンスはある、勉強と育児は両立は難しいだろう、と言うことで今回は・・・、と言うことに固まりかけていたそうです。
ところが、その時に普段無口で有名だった松元の祖父が、せっかくの授かりものなんだから、神様からの贈り物なんだから生みなさい、と鶴の一声で母の気持ちと、親戚一同の意見も固まったそうです。
厳格で明治な男だった祖父が、一族の長として下した決断でしたので、皆それに従ったのです。
そして、そのお陰で待望の男の子が松元家に生まれたのです。
後からになりますが、その後私の姉妹は妹ばかり3人でしたから、母が産んで置いて良かった、と話してくれます。
そう言われながらも、実際に頼りになるのは女の子で、実家に出入りも良くしてくれるし、両親の事も何かと考えていてくれます。
男の子は結婚して家庭を持つと細君と子供が大事で、中々実家の方の世話は出来ないですね。
結構役立たずの長男です。
でも、鹿児島と言う土地柄でか男の子を授かったのは有り難い、と喜ばれたのは私自身も自分の子供で経験しています。
長男、男の子一人でそこに又男の子が授かったので、母が凄く喜びました。
男の子の所に男の子が授かると言うのは、松元の家で多分100何十年ぶりのことで、慶事だそうです。
私はもしかするとこの世に生を授かっていなかった、その時の多数意見ハッキリ言って松元の祖父以外はまだ若い、と言う意見だったと聞いていますから、祖父の決断授かった命は大切にしないといけない、には心から感謝しています。
お陰様で私は生を受け、今何がしかのお役目を果たそうと頑張れています。
小さい頃から跡継ぎ息子、と親戚一同から見られ、育てられて来た為に少しだけ息苦しいな、とも感じないことがなくもなかった私ですが、祖父には本当に感謝しています。
まあこう言う性格に生まれ付いていますので、そうは言いながらも天真爛漫、自由に育った、個性豊かに大人になりましたが。
妹達に言わせると、お兄ちゃんは凄く大切にされていた、特別扱いだった、と羨ましがられていた、というのもあります。
こう言う色々なことがあって、私はこの世に生まれて来ました。
19と言う若さで産んでくれた母、命の大切さを説いて、鶴の一声を無口にもかかわらずその時には発してくれた祖父。
命の有り難さを深く感じます。