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生と死についての私の考え 私の医療、治療への根源にある思い それでも人生にイエスと言う

2012年08月18日 | 日々のインプラント臨床の話

今日は、インプラントとか歯科関係のお話ではなく、私の死生観、医療観を述べさせていただきたいと思います。

かなり哲学的、宗教的お話になることを最初にお断りして置きます。

 

私は整形外科医の子供として生まれ育ちました。

高校2年生まで宿舎住まいでしたので、身体障碍者、脳性小児麻痺などの不自由な患者さん達は身近な存在でした。

実は、私自身も生まれた時には斜頸で生まれていて、小学校2年に矯正手術を父の執刀で受けられるまで、首を真っ直ぐに出来ない子供でした。

矯正手術の傷跡は今も左の首の付け根に残っています。

 

こう言う育ち方をして来た為なのか、私自身の性格もあって、人の定め、運命、医療、医学の限界、人の生き方、死に方、と言うことを常に考え続け成長しました。

 

人は皆、同じように生まれ育つ筈なのに、そうではない方がいる。

そのことが、運命で左右される人が沢山いることが、とても不条理なことに思えて、どうしてこんなことになってしまうんだろう、と言う疑問を抱き、その答えを求め、理解も出来ないくせに哲学書とか宗教書を沢山読みました。

 

不条理としか言いようのない運命にもて遊ばれる人、神様は何をしているんだろう、どうしてこんな過酷な運命がこの人を襲うんだろう、それが全く分からなかったのです。

 

やがて、私は神様に救いを求めることには無理がある、人の定めは無常で、誰にも突発的な不運を予見して避けることは出来ない、人に出来ることは、ただ降り掛かった運命を受け入れるだけでしかない、と諦観するようになりました。

そうした流れで、仏教、老荘思想に染まるようになっていったのです。

特に心惹かれたのが、仏陀、お釈迦様でした。

 

しかし、仏教の持つ諦観、諦めの感覚、人の死とか不幸に際して淡々としている態度の取り方とかに対してはどうしても違和感が拭えず、かと言って神様関係の方にも胡散臭さを感じてしまって、纏まりの付かない、悶々とした不条理に対する憤懣を抱えて学生時代を過ごして来たのです。

そして、私自身は人を相手にして人生を過ごすことに殆ど魅力を感じなくなり、大自然を見詰めて生きる方向に行きたい、家族を持ったり妻帯したり子供を持つことも何か気まずいような、そんな考えを持つようになっていったのです。

 

生死、運命、不条理な定め、常に心の中にあり、私は生涯を通じる真理、生き方、死に方と言うものに関心を持ち続けて来ました。

そう言う中、いつも知りたいと思っていたのが仏陀の心、お釈迦様の悟りの心とは何か、どう言うものなのか、と言うことでした。

今思えば、青臭い、分かりもしない思想に被れている、お馬鹿な一人の若者だったのです。

 

人は運命にもて遊ばれる、抗い難い辛い定めに生きる方もいれば、信じられないような幸運に恵まれ人も羨むような人生を生きる方もいる。

私自身、斜頸に生まれたにもかかわらず、父が整形外科医であったと言う幸運に恵まれ、適正な時期に適正な矯正処置手術を受けられ、普通の方と変わらない姿で成長出来る幸運を授かって来た。

このような差、矛盾への思いが、私自身人並みの生活を避けようとする気持ちに傾いていた理由に成っていたと思います。

 

お馬鹿なお話なのかも知れませんが、若輩者にして世捨人、仙人のような生き方、仏教徒のような家族を捨て真理を追究する、そんな生き方に憧れていた若者でした。

なら、さっさとそう言う生き方をしている立派な方々のように、本道を歩み若くして得度して仏教徒、僧職として生きる道に進めば良かったのに、そうする勇気、根性もなく、だらだらと厭世的に過ごしているだらしない者だったのです。

 

歯学部に進んだのも、父に勧められ、手に職を付けろと言う厳命で、2浪の末にやっと入った、と言う按配でした。

嘘偽りのない、本当の話です。

 

そして、あいも変わらず生きるとは死ぬとは、何故生きるのか、生まれて来たのか、どうせいつかは死んでしまって何も残らないのにと感じていて、仏陀、お釈迦様に引っ掛かって生きていました。

 

こんな私が今、先端医療を行い、それを生業として生きているのです。

 

医者の子供として育った環境、辛い人生としか思えない人を見続けて、周囲からは父の跡を継いでお医者様になるものだ、立派な人になるのだ、と見られ続け、それにチャンと答えられるだけの実力もなく、斜に構えて成長して来た、と言うのが正しい姿でした。

 

そして、眼前で見せられる医者の仕事の辛さ、必ず救える訳ではない深刻な面を少なからず抱えている、と言う事実。

父は間違いがなく卓越した整形外科医です。

しかし、その父を持ってしても救えない、助けられない患者さんがいる、と言う辛い現実。

生死に直面し、疲れ果てて帰って来て、肩を落とす父の後ろ姿。

 

何故、どうして、運命、定め、逃れられない宿命、と言う意識が、深く心に残っていました。

 

産まれ来て、生きて、やがて年老いて死んで行く。

無常です。

 

これは誰にも変えることは出来ません。

生命の定めです。

 

そして、私は医療とは祈りなんだ、と思うようになりました。

医療とは、根源的に多分、子供が病んだ時に、怪我をしてしまった時に感じる痛み、それを何とかして上げたい母性、父性に由来するものなんだろう、と考えるのです。

 

意識、考えを持つに到るに従って、人は生きる、死ぬとかを考えるようになります。

しかし、赤ちゃん、幼子は純粋に生きています。

何も思い煩うこともなく、ただ純粋に生を享受し、母に、父に、祖父母に、兄弟姉妹に愛され、構われ成長します。

 

今の時代は、周産期死亡率も少なく、出産した女性の死亡率も極僅かです。

が、このような時代は漸く今到達したものでしかなく、少し前までは赤ん坊の死亡も出産した女性の死亡も多かったのです。

このような生死の出来事に直面することを経て、人は医学、医療を発展させて来た、それが間違いのないことです。

ですから、医療とは赤子、幼子が無事に大きくなって欲しい、生んだ母親も無事でいて欲しい、と言う気持ちの中なら生まれて来たに違いない、と考えています。

 

産まれて成長して行く中で、自分の子供が怪我したり病気をすると、親は自分のことよりも心が痛みとても辛い思いをさせられます。

我が子の怪我でその血を見た時のいたたまれない気持ち、痛がって泣いている姿は、本当に辛いものです。

幾ら医療、医学が進んだとしても、正しい良い治療が施され、治るのが安心して予想出来る時であっても、親心は何とか早く綺麗に楽に治って欲しい、そう心の底から祈ってしまうものです。

 

成長し、色々と考えてしまって、生死を意識するようになると難しい、解くことの出来ない迷路に迷い込んでしまうかも知れませんが、純粋に生きる赤子、幼子の姿、その無事を祈る親の姿にこそ、生命への、医療医学への純粋な答えがあるのではないでしょうか。

私はそう思います。

勿論、その反対にやがて年老いて亡くなる両親、祖父母の姿に置いて、残される子供たちの思い、育てられ愛情に包まれ、自分自身も伴侶を得て子供を持ち、真の親心を理解出来るようになって、それでも定めに従って先達を看取って行かねばならない、そう言う時の思いにも医療医学の原点があるのでしょう。

ですから、私は医療とは祈りである、と思っています。

根源的に、家族愛、子供、親を思う、その平安な人生を心の底から願う気持ち、それが医療でしょう。

 

 

今の時代、医学、科学が進化し、まるで治ること、治癒することが当たり前で、エビデンス根拠と言う名の下に、それを信じ切る、頼り切れば何とかなる、と言う信仰が広がっているように私は思います。

しかし、幾ら医学、科学が進んでも、不条理な定めにより事故で、病気で亡くなる方はいますし、原因不明の辛さ、現代医学を持ってしても救い切れない難病、難症を抱えてしまう方もいるのです。

その時には、科学、医学も無力です。

その先に、宗教とか思想とかがあるのでしょう。

 

 

V.E.フランクル博士は、それでも人生にイエスと言う、と言う名著を残されています。

色んな人生があるでしょうが、フランクル博士ほど過酷な人生を生きられた方はそうそうはいないと思います。

それでも人生にイエスと言う、至高の名言であると思います。

 

そして、私は仕事ではどんな難しい状況に成ってしまったとしても、自分からバンザイはしません。

私がバンザイしてしまったら、患者さんは救われない思いに打ちのめされてしまうんじゃないか、と心配で仕方がないからです。

私自身は、その思いだけで仕事をし、勉強し続けて来ました。

 

はっきり言って、自分の身のことだけでなら、ここまで一生懸命にはならなかったでしょう。

何とかして欲しい、救って欲しいと言うご本人の気持ち、ご家族の思いに突き動かされて、已むに已まれず学ばされて来た、と言うのが真実の姿です。

偉そうなことを良く書いていたりしますが、本当はそんなものだったのです。

ですから、偉そうなことは言えません。

 

でも、上で述べて来たような斜に構えている思想被れの汚い大学生が、何故か定め、運命の下、ここまで出来ることがあり、それなりの実績も残せて来たのです。

こんな私ですら出来たんですから、私よりも真面目で努力家で立派な方々が出来ない訳がない、と私は感じて仕方がないのです。

その思いが、私のブログでは溢れて、叱咤する、激情を迸らせる内容になってしまったりしているのです。

 

祈る思い、医療への気持ち、志が、ほんの僅かでも心の片隅に残っていれば、出来る、そう本当に心の底から思うのです。

 

変な兄ちゃんにしか過ぎなかった私も、いつの間にか52歳になります。

この業界に住んで25年以上です。

 

その途中で、自分自身も生死の境をさ迷う大病をしました。

その時に、不思議な位、私は死ぬことが怖くありませんでした。

この苦しさ、辛さから解き放たれるなら、それも良いと思っていた位でした。

 

しかし、以前書いていますが、幽体脱離の経験をし、地獄界を体験させられ、生きていることの有り難さ、これからの人生の生きることについて深く深く考えさせられました。

 

何があっても、それでも人生にイエスと言う、フランクル博士には遠く及ばなくても、その言葉に倣いたい、と思います。

 

そして今、私は生涯現役主義を高らかに宣言し、この世界で出来るだけ長く居続けよう、学び続け、後世に幾らかでも残し、まだ元気らしいよ困っちゃうね、と若い者達に言われるようになろう、と決めています。

嫌でしょうね、若い方々。

 

自分が死ぬ、その時にそれでも人生にイエスと言う、周りに感謝しながら死のう、そう誓うのです。

 

今日はとても長くなりました。

思う所があってのことです。

ご容赦下さい。

 

明日は、インプラント学会の研修です。

1日缶詰らしいですが、又頑張ります。

 


8月17日(金)のつぶやき

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