2021年3月のクライストチ
ャーチ・ウエストコースト旅
行2日目のホキティカにて。
ホワイトベイターの小径があ
る広々したホキティカ川沿い
一帯はピアソン・エスプラネ
ードと呼ばれる遊歩道です。
ピアソンって肘掛椅子アート
が捧げられていた、あの人
興味を持ち調べてみました。
ヘンリー・ピアソン
(1916-2003)
アメリカ人移民の祖父を持ち
生後18か月で両親をインフル
エンザで亡くし、7人の子ど
もがいる大家族の伯母の家で
愛情を注がれて幸せに育つ。
高校を中退して港湾局、道路
工事、製材所など建設関係の
仕事を転々としつつ大工とし
て経験を積む。1941年には仲
間とともに船を出してエジプ
トのカイロに赴き、軍事訓練
を受けて第二次大戦に参加。
1944年に帰国。48年に結婚。
50年代にはスポーツの怪我で
片目を摘出。自宅を建てた後
今は乳業工場になっている
町の中心でキャンプ場を経営
ウエストランド乳業は2019年
より中国乳業最大手伊利傘下
これだけでもパイオニア精神
溢れる移民らしい華麗な経歴
ですが、ピアソンは人生後半
で政治の道を歩み始めます。
40歳でホキティカの市議とな
り、66~73歳は市長を歴任。
こうした功績から遊歩道に名
を冠され、海岸にアートが捧
げられ、さぞや地元で信望あ
る名士だったのでしょうね。
街のシンボルは大きな時計台
建設の目的は戦争記念碑で完
成は1903年。つまり第一次大
戦前で、第2次ボーア戦争(18
99‐1902年)での地元出身の犠
牲者4人と出兵した130人に捧
げられたもので時計は二の次
ボーア戦争記念碑というのに
まず驚かされましたが、4人
の犠牲者に募金を募ったとは
いえ、それだけの資金が集ま
り、これだけのものが建設で
きた(設計・製作はすべてオー
クランド。運搬後にここで組
み立てられたもの。4面の時
計はイギリス製)、当時のウ
エストコーストの権勢に驚愕
時計台完成後わずか12年で始
まった第一次大戦(1914~19
18年)は、犠牲者数としては圧
倒的な数にのぼったにもかか
わらず(出兵によるNZ戦没者
は全国で1万6,000人)、時計
台を超える記念碑が造られな
かったことに、この街の急激
な栄枯盛衰がうかがえます。
19世紀のゴールドラッシュで
街は一気にピークに達し、今
や信じがたいことながらホキ
ティカは一時、国内最大の人
口を抱え、金の枯渇で20世紀
の到来とともに過去の街に。
そんな時代の生き証人が意外
にも外資で建設されたカーネ
ギー無料公共図書館でした。
現ホキティカ博物館
(※現在は改装で臨時休業中)
カーネギーホールで知られる
アメリカの鉄鋼王にして篤志
家アンドリュー・カーネギー
により建てられ1908年完成。
カーネギーは貧富の差にかか
わらず万人が書物を通じて教
育を得られるよう1879~19
17年にかけて5,600万米ドル
を投じアメリカ国内だけでな
く支援申請があった諸外国に
も無料図書館を建設し、その
数2,509ヵ所に上ったそう。
NZにも18ヵ所も建設されて
いたとは知りませんでした。
現在も12ヵ所の建物が現存
するそうでこれは興味深い
アメリカ系移民市長といい、
カーネギー図書館といい、NZ
の片隅で見つけた小さなアメ
リカ。捕鯨やゴールドラッシ
ュという19世紀独特のグロー
バリゼーションの片鱗のよう
今のホキティカは地方観光地
(※ジェイド、ボーン、シェル
カービングの店。マオリはジ
ェイドや貝殻だけなく牛骨、
鹿角、鯨歯などの天然素材を
独特の形に繰り抜き、アクセ
サリーというよりお守りにす
る伝統があり、ここは自分だ
けのオリジナルが作れる店)
消防署を改装したらしい消防
署という名のホテルに消防車
来てみて気づいたのが、街は
国内観光客より、かなり外国
人観光客に頼っていたようで
(※キウイとウナギ園)
世界を縦横無尽に行き来する
21世紀のグローバリゼーショ
ンから恩恵を受けていたホキ
ティカはコロナで想像以上の
直撃を受けていたようです。
(※こじゃれたB&B)