「ハワイにもこんなイギリス風の建物があるなんて」
と思った
H.Nグリーンウェル・ストア博物館
中に入ったら
キムラさんが黙々と働き(笑)
藍の絣に白い前掛け、ジーンズに足袋というファッション
日系コーヒー農家の女性の典型的な作業着だったそう。
新しい土地で新しい生活を築きながら
図らずも新しい時代を築いていった移民の先駆者たち
イギリス人だろうが
日本人だろうが
ポルトガル人だろうが
中国人だろうが
フィリピン人だろうが
どの民族にもどの家庭にも
本が何冊も書けるほどの逸話があったことでしょう。
大農園の小作農から小農園主になった日系たち
家族総出で懸命に働き、コナに根を下ろしていきました。
カギ(鉤)
コーヒーの実を摘むのに使われたもの
コーヒーの実を入れた
ラウハラ・バスケット
タイヤのインナーチューブで縁を強化し
ストラップはゴザの再利用という一世の知恵
金属製バスケット
雨天でのコーヒー摘みに使われたそう。
竹製バスケットと子ども用の缶
子どもも重要な労働力だったので、缶や籠を首から提げ
落ちた実を拾ったり下の枝の実を採ったりしたそう。
涙ぐみそうになるほど可愛い姿
日系人の子どもは4、5歳になると農園で働いていました。
1910年の段階で日系農家はコナのコーヒー生産の80%を担い
一方でキャプテンクックとアメリカンファクターズの2社が
業界を牛耳り、コナ・コーヒーの70%を支配していたそうです。
日系農家は生産したコーヒーを全てこの2社のいずかに卸し、
代わりに食料品や日用品を2社の店からツケ(借金)で購入し
支払いはコーヒー豆で行うという危うい契約下にありました。
けれどアメリカが第一次世界大戦に参戦すると戦争特需が起き
日系農家の経済状態も大きく改善していきました。
コナからの出征兵士
NZでいえばアンザック兵たち。
1928年まではコーヒー豆の高値が続き、全てが順調でした。
そして迎えた1929年。米国株が大暴落し世界大恐慌に突入
コーヒー豆価格も史上最安値に急落してしまいました。
価格の暴落で日系農家の2社への借金は雪だるま式に増え
(※支払いは価値が暴落したコーヒー豆で行うため)
夜逃げしたり自己破産をしたりする農家が相次ぎました。
しかし、取引先が2社しかないため農家には交渉力がなく、
残った農家も10~30年間の収穫を担保に借金を重ねる状態で
1929年に1,100だった日系農家は
1938年には580にまで減少してしまいました。
多くの二世はコーヒー産業を離れ、街に働きに出ました。
苦労して今日の生活を築いてきた一世の親が借金に苦しむ中、
コナに残った二世たちは業界再編に向けて立ち上がり、
2社の支配から逃れて財政的に自立する道を模索し始めました。
その中で農家は一致団結し、代表を立てて2社と交渉し
アメリカンファクターズから借金の98%の棒引きを勝ち取り
交渉は成功しました。
1938年に借金から解放されたE.モトヒロさん
それまで長く苦しい10年だったことでしょう。
こうしてコナのコーヒー産業は土壇場で破たんを免れました。
暗黒の時代が終わって、ようやくひと息つくかつかないかのうちに
1941年12月には真珠湾攻撃が起き
コナだけでなく全米の日系社会が闇暗に閉ざされます。
それを覆すように、ハワイの日系二世志願兵は1,500人の募集に
1万人近くが応募し、コナからも第一陣で25人が出征しました。
赤紙ならぬ黄紙
第一陣だったヤスミツ・デグチさん
二世志願兵たち
何人が還り何人が還らぬ人となったのか。
コナ・イッセイ・コーヒー・パイオニアと称えられる一世たち
全てを乗り越えた1953年の集合写真
彼らの弛まぬ努力と不屈の精神でコナ・コーヒーは残り
「移民一世とはなにか?」
と改めて自分に問いかけるきっかけにもなりました。
すでに決めていたこととはいえ、この4月のハワイ旅行の後
私たちは5月にNZ国籍を申請し、去年8月にNZ国民になりました。
と思った
H.Nグリーンウェル・ストア博物館
中に入ったら
キムラさんが黙々と働き(笑)
藍の絣に白い前掛け、ジーンズに足袋というファッション
日系コーヒー農家の女性の典型的な作業着だったそう。
新しい土地で新しい生活を築きながら
図らずも新しい時代を築いていった移民の先駆者たち
イギリス人だろうが
日本人だろうが
ポルトガル人だろうが
中国人だろうが
フィリピン人だろうが
どの民族にもどの家庭にも
本が何冊も書けるほどの逸話があったことでしょう。
大農園の小作農から小農園主になった日系たち
家族総出で懸命に働き、コナに根を下ろしていきました。
カギ(鉤)
コーヒーの実を摘むのに使われたもの
コーヒーの実を入れた
ラウハラ・バスケット
タイヤのインナーチューブで縁を強化し
ストラップはゴザの再利用という一世の知恵
金属製バスケット
雨天でのコーヒー摘みに使われたそう。
竹製バスケットと子ども用の缶
子どもも重要な労働力だったので、缶や籠を首から提げ
落ちた実を拾ったり下の枝の実を採ったりしたそう。
涙ぐみそうになるほど可愛い姿
日系人の子どもは4、5歳になると農園で働いていました。
1910年の段階で日系農家はコナのコーヒー生産の80%を担い
一方でキャプテンクックとアメリカンファクターズの2社が
業界を牛耳り、コナ・コーヒーの70%を支配していたそうです。
日系農家は生産したコーヒーを全てこの2社のいずかに卸し、
代わりに食料品や日用品を2社の店からツケ(借金)で購入し
支払いはコーヒー豆で行うという危うい契約下にありました。
けれどアメリカが第一次世界大戦に参戦すると戦争特需が起き
日系農家の経済状態も大きく改善していきました。
コナからの出征兵士
NZでいえばアンザック兵たち。
1928年まではコーヒー豆の高値が続き、全てが順調でした。
そして迎えた1929年。米国株が大暴落し世界大恐慌に突入
コーヒー豆価格も史上最安値に急落してしまいました。
価格の暴落で日系農家の2社への借金は雪だるま式に増え
(※支払いは価値が暴落したコーヒー豆で行うため)
夜逃げしたり自己破産をしたりする農家が相次ぎました。
しかし、取引先が2社しかないため農家には交渉力がなく、
残った農家も10~30年間の収穫を担保に借金を重ねる状態で
1929年に1,100だった日系農家は
1938年には580にまで減少してしまいました。
多くの二世はコーヒー産業を離れ、街に働きに出ました。
苦労して今日の生活を築いてきた一世の親が借金に苦しむ中、
コナに残った二世たちは業界再編に向けて立ち上がり、
2社の支配から逃れて財政的に自立する道を模索し始めました。
その中で農家は一致団結し、代表を立てて2社と交渉し
アメリカンファクターズから借金の98%の棒引きを勝ち取り
交渉は成功しました。
1938年に借金から解放されたE.モトヒロさん
それまで長く苦しい10年だったことでしょう。
こうしてコナのコーヒー産業は土壇場で破たんを免れました。
暗黒の時代が終わって、ようやくひと息つくかつかないかのうちに
1941年12月には真珠湾攻撃が起き
コナだけでなく全米の日系社会が闇暗に閉ざされます。
それを覆すように、ハワイの日系二世志願兵は1,500人の募集に
1万人近くが応募し、コナからも第一陣で25人が出征しました。
赤紙ならぬ黄紙
第一陣だったヤスミツ・デグチさん
二世志願兵たち
何人が還り何人が還らぬ人となったのか。
コナ・イッセイ・コーヒー・パイオニアと称えられる一世たち
全てを乗り越えた1953年の集合写真
彼らの弛まぬ努力と不屈の精神でコナ・コーヒーは残り
「移民一世とはなにか?」
と改めて自分に問いかけるきっかけにもなりました。
すでに決めていたこととはいえ、この4月のハワイ旅行の後
私たちは5月にNZ国籍を申請し、去年8月にNZ国民になりました。