ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

11月19日、生野区在宅サービスセンターにてお話をさせていただきました。

2016-11-19 21:19:35 | イベント
「在日コリアンとして生きて」

 


     




 *まず自己紹介をさせていただきますね。

―私は長い間教職についていましたが、2010年3月末に南巽にある朝鮮中級学校を定年退職した後、その年の4月からコリアタウン近くの初級学校にて放課後学童指導員として6年間勤務いたしました。


 今年の4月からは大和八木の「放課後等ディサービス」にて、週2回「絵本の読み聞かせ」を主に担当しながら、ハンディを持っておられるお子さんたちとすごしております。


 また在日大阪の文芸同文学部と演劇口演部に所属しながら、月に4回夜に、ハングル詩の創作や朗読活動を続けております。又地元の分会で日朝両国の方々に週1回ハングルを教えています。(ハングルとは朝鮮の文字のことです。)


 また個人的には6人の孫と近くに住みながらお弁当を作ったり、地元通学班の見守り隊として毎朝学校まで子どもたちと一緒に歩いています。


 日本で生まれ育ちましたが、小学校から体系的に民族教育を受け、卒業後も民族団体や民族学校関係の仕事に携わっていた私は、日本の方々と交流する機会がほとんどありませんでした。


― そんな私が、6年前の夏「朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー」の製作を呼びかけた京都の詩人、河津聖恵さんの呼びかけに応じ、生まれて初めて日本語で詩を書きました。50年近くハングルで詩を書きましたが、日本語で詩を書くなんて考えたこともなかった私です。それには、幼少時代の祖父の影響が大きかったのだと思います。

私が祖父に初めて会ったのは、流浪の旅の末、やっと京都にたどり着いた5歳の時でした。東福寺の坂の下の半洞窟の家で、廃品回収をしながら一人で暮らしていた祖父は、空襲で奪われた片足に義足を付け、毎日リヤカーを引っ張っていました。祖父のリヤカーに乗って1日を過ごしていた私に、祖父は故郷の話を聞かせてくれ、ウリマル(朝鮮語)を教えてくれ、済州島の方言を教えてくれました。

ある日祖父は、戦争で失った片足の付け根を見てしまい驚いている私に、ウリマル(自分の国の言葉)を守らねば、また国を奪われると言いました。幼かった私がどれほど祖父の言葉を理解できたかは知りませんが、ウリマルは大事だ、私も人の2倍、3倍、ウリマルの勉強をして、いつか祖父と故郷に帰り、アナウンサーになるんだと言う希望を持つようになりました。それから半世紀以上の歳月が流れましたが、私が日本語で詩を書かなかったのは祖国を二度と奪われてはならないという、本能に近い考えからだったように思えます。

私にウリマルを教えてくれ、心の柱を育ててくれたウリハッキョ(朝鮮学校)を守るため書いた日本語による詩を朗読します。

詩「ふるさと」   

          
生まれ育ったところが故郷だと
誰が言ったのだろう
私には故郷なんてなかった
ふるさとがなかった

60年が過ぎた今も
両足首に残ったゴム紐の痕を見ると 
知らぬ間に涙が出る
優しかったオモニを思い出す 

北海道にいるという父を訪ねて
身重の母は姉と次兄の手を引き
幾度も幾度も列車を乗り継いだ
風呂敷包みひとつ頭に載せ

突然津波のようにやって来た陣痛
青森の小さな旅館の布団部屋で 
私をこの世に生み出してくれた母 
自分の歯でへその緒を切ってくれた母

6ヶ月後に北海道に渡り
馬小屋で寝起きした日々 
函館の海でいか裂きしながら 
私達を育ててくれたオモニ

零下20度の凍て付くような浜風
私をおぶって浜で働いたオモニは
私の靴下が脱げない様
ゴム紐をきつくきつくまきつけた

青森から北海道へ
北海道から東京へ
東京からやっと京都に戻ったとき
私は5歳になっていた

生まれて初めて会ったハラボジ
空襲で1本足になったハラボジ
ハラボジのリヤカーに毎日乗って   
声張り上げた《ボロおまへんか》と
 
あの路地この路地、一緒に回った日々
いつも聞かせてくれた故郷のはなし
ハラボジが出してくれた出生届
いつのまにか出生地は京都市になっていた

家族そろって大阪に移り
りっぱな朝鮮人になれと
父、母が送ってくれたウリハッキョ
満員電車に押し込められて通った学校

初めて通ったウリハッキョは
藻川に沿った小さな小さな学校
体育の時間は広い川原でころげまわり
図工はのどかな川辺でいつも写生

麦飯とキムチだけの弁当
雨の日あちこちにバケツが並んでも
暖かい先生や友達に囲まれて
ちっともイヤじゃなかった、楽しかった

ア、ヤ、オ、ヨ…
歌う様にハングルを習い
子ども心に誓った
将来は故郷のアナウンサーになるんだと
    
ウリハッキョで学んだ日々
恋もし、喧嘩もし、悩みもしながら
進路について話し合った懐かしい日々
一度もなかった。孤独な時なんて

同胞のために頑張ろうと仕事を選び
済州島に住む長兄に会う日を夢見ながら
集会にも、デモにも参加した日々
夢は近づいては遠のいたり

疲れを知らなかった青春時代
休むことを忘れてた中年時代
突然悪夢の様に悲しみが押し寄せた日

それでも踏ん張れよと
ギュッと抱きしめてくれた
それがウリハッキョ
オモニの様に温かかったウリハッキョ

生まれ落ちた場所さえ知らない私に
思い出と友と夢と勇気をくれ
愛する心を育ててくれたウリハッキョ

私にも祖国が在る事を教えてくれた
ウリハッキョはゆるぎない心の柱
私のふるさとは ウリハッキョ

決して誰も奪えない
私が通い、子供達が学び、孫達が通う
ウリハッキョ 心のふるさとを!

― この詩を書くには勇気が要りました。なぜなら自分の惨めな生い立ちを全て吐き出さねばならなかったからです。でも、ウリハッキョがいかに大切なところであったかを訴える為には、根無し草のように流浪の旅路を続けなければならなかった自分の生い立ちを書く事が、一番説得力があると思ったのです。


 日朝79名の詩人が参加したアンソロジーの編集にも携わり、その過程で60数年間、貝のように閉ざしていた私の心に大きな変化があらわれました。河津聖恵さんをはじめ日本の友人との生まれてはじめての友情と信頼の関係が生まれたのです。


 アンソロジーの編集が終わり出来上がった本を手にした時、私の胸は感動で一杯になりました。アンソロジーが素晴らしかっただけではありません。2週間もの間、河津さんと共にさまざまな難関を乗り越え、弱気になりかけたときも励ましあい、寝る時間も惜しんで編集し、ついに完成させた本でした。


その友人が、自分が無償化除外を反対をしているのは在日の人々のためだけではない。これは日本人自身の問題だ。朝鮮学校に対する除外がまかりとおれば日本の民主主義はどんどん衰退し次は紛れも無く日本人自身にふりかかってくるといいました。その言葉は私たちの信頼関係を確固たるものにしてくれただけではなく、友情とは民族の違いや国の違いが問題なのではなく、人間として信頼できるかどうかなのだという事を教えてくれました。


 アンソロジーはまたたくまに完売され9月には又1000部増刷しましたがそれもすぐに完売され手元には在庫が1冊もありません。それはどれだけ多くの人々が朝鮮学校無償化除外を理不尽と感じていたかと云うことの表れであったと思っております。


在日の子供達にも学ぶ権利があり、ましてや歴史的な観点から見れば自分の祖国の歴史や自分の国の言葉や文化を学ぶ事は当然であり、それは国際条約や子供人権条約でも認められていることなのです。


アンソロジ―を携え、日本の詩人、在日の詩人が共に文科省に要請にも行きました。アンソロジーの製作にとどまらず、大阪、広島,京都,東京、奈良と、朗読会を開くごとに連帯の輪はどんどん広がって行きました。著名な詩人である石川逸子さん、セゾングループ会長の辻井喬さんらも参加してくださいました。


―その翌年の3月11日、想像を絶する東日本大震災が起こり、あまりにも壮絶な惨状の前に言葉を失ってしまった私たちでしたが、奈良朝鮮初級学校で行われた震災復興を願うチャリテイコンサートに出演したことを皮切りに、今まで無償化除外反対の為に使ってきたエネルギーを震災復興を支援する活動へと拡げて行き、在日の詩人、音楽家はもちろんのこと、河津さんや日本の詩人と共に一番被災の大きかった東北の朝鮮学校での復興支援コンサートも行いました。




―そればかりか、自分が生まれた場所さえ知らなかった私が、復興支援コンサートの次の日、青森県平川市碇ヶ関総合支所の方々の尽力により、この世に生を受けた大切な場所をついに探すことが出来たのです。




 想像を絶する東日本大震災が起き、津波のため故郷を根こそぎ流されてしまった人々の痛ましい姿をニュースで見ながら、私は何かにとりつかれたように思い続けました。(行かねば、行かねば、今、生まれ故郷を探さねば必ず後悔する。)と!

仙台にある東北朝鮮初中級学校での慰問公演が決まった日、私はインターネットで見つけた碇ヶ関総合支所に「私の生まれ故郷を探してください。碇ヶ関という村の自炊旅館だったそうです。」という手紙と、自伝史のような詩「ふるさと」をFAXで送り協力を求めました。


交信を始めてから一ヶ月が過ぎ,あきらめかけていたころ、碇ヶ関支所から「お探しの木賃宿跡がついに見つかりました。隣に住んでいた方も見つかりました。到着したらすぐ支所に来てください」という夢のようなメールが送られてきたのです。それはまさに東北に出発する三日前のことでした。


7月9日、東北朝鮮初中級学校での慰問コンサートを無事終えた次の日の朝、私は高速バスで弘前まで行き、奥羽線に乗り換え弘前から四つ目の駅である「碇が関」に到着した後すぐに総合支所を訪ねました。日曜日だと言うのに支所長さんと、メールのやり取りを続けていた黒滝さんが迎えてくださいました。


碇ヶ関関連の書物や地図、明日の予定表、おまけに青森リンゴやジュースばかりか、生まれ故郷での夜を楽しんでくださいと70匹もの平家蛍までガラス瓶に入れて持たせてくださったのです。あまりにもの手厚いもてなしに言葉が出ませんでした。

翌朝、支所長さんと一緒に木賃宿の跡地に向かいました。小高い山のふもとの閑静な場所に跡地はありました。跡地の入り口には江戸時代に山から引っ張ってきたという白沢の水場が残っていました。手を伸ばし沢の水に触れ、手のひらで水をすくい一口含んでみると、なんともいえない感慨に胸が震え優しかった母の笑顔が浮かびました。



支所長さんと一緒に木賃宿があった頃から隣に住んでいたという花岡チエさんにお会いしました。花岡さんは60数年前のことを一つ一つ思い起こしながらはなしてくださいました。 花岡さんのおかげで木賃宿の御主人の名前が外崎さんだったことも、この木賃宿が旅館代の払えない貧しい人々をいつでも迎え入れてくれた有難い自炊旅館であったことも知ることが出来ました。


終戦間もないあの時代に、一目見れば朝鮮人であることが分かったであろうに見ず知らずのよそ者を暖かく迎えてくださった外崎さん。私の命の恩人、感謝してもしきれません。貴重な証言をしてくださった花岡さんの手を取り、心から感謝の言葉を述べさせていただきました。その後もずっと故郷の方々との交流は続いております。

詩「ふるさと」を読んで、同じ郷里を持つ者として他人事とは思えなかったと一緒に泣いてくださった黒滝さん。自分の事のように心配してくださった総合支所の皆さん!

碇ヶ関の方たちのおかげで無事この世に生を受けたばかりか、人生の黄昏時にまた大きな恩恵を受けてしまった私。たった2600人が住む小さな村ですが、母のように心優しい人々が住む村が私の生まれ故郷であったことが何よりも誇らしく嬉しいです。





誰しも故郷を持ちますが、私たちのように異国で生まれ育った者にとって故郷とは一体どんな意味を持つのでしょうか。私たちの国が植民地にならなかったなら、私が日本で生まれるということはなかったし、貧困と差別がなかったなら、根無し草のように流されるままに生きることもなかったはずです。


私は自分の生まれ故郷を探していましたが決してそれは場所ではなく、私のルーツである父と母の人生そのものを知りたかったからかも知れません。二度と奪われてはならない祖国と、国を奪われた民がたどらねばならなかった人生を、後世に伝えなければならないという使命感があったからかも知れません。

― 在日として生きて還暦を迎えるまで、日本の友人を1人も持たず、近所の人々とも挨拶以外、会話をしたこともなかった心の狭い私が、近所の人々と語り合い、無償化除外反対をアピ―ルし、生まれ故郷の病院を守るための署名までお願いできる信頼関係を持てるようになった事には自分ながら驚いています。


 そればかりか、2011年11月27日、<無償化除外反対>アンソロジーのダイジェスト版が韓国で出版されソウルで行われた「ハングル版-出版記念 詩の朗読会」に河津聖恵さんと一緒に私も招待されソウルの地で自作詩の朗読までいたしました。




又、朗読会の次の日、生まれて初めて故郷―済州島を訪ね、両親の墓参りをし、離れ離れに暮らしていた上の兄や親戚とも会う事が出来ました。こんな嬉しい事が他にあるでしょうか?父が亡くなり30年、母が亡くなり22年たってはじめての墓参りです。




 「在日コリアンとして生きて」 私が今、思うこと、それはたとえ異国に暮らそうとも自分が誰なのかをしっかり見つめ、自分の国の言葉や歴史を学び、民族の誇りをもって生きることがどんなに大切な事なのかを再認識しました。それと共に日本の方々との垣根を取り払い、お互いの違いを認め、お互いを尊重しあいながら歩んでいかねばならないとしみじみ思いました。


 ―2012年4月17日から大阪府庁前で朝鮮学校無償化除外を反対し、大阪市大阪府の補助金の再交付を要請する「火曜日行動」が正午から1時まで毎週行われています。今週の火曜日219回目を迎えました。2012年6月19日の第10回目から参加し始めた私は、その後1度も休むことなく200数回連続参加をしております。4年半の間、毎週お会いする方々はもう国や民族の違いを超え兄弟姉妹のようです。



 私は「火曜行動」をブログやフェイスブックで全国に発信し続けて参りましたが、昨年からは日本の方3名と私たち3名の6名で「春母(ハルモ二)会」を立ち上げ、6人で力を合わせ、毎週発信を続けております。その内容は写真撮影を通しての記録、アピールされる方のお話の内容の聞き取り、参加者へのキャンディの配給等です。毎週この作業を続ける中で日本の方々と今は姉妹の様に信頼しあいながら過ごしています。

 アンソロジー投稿者であり、奈良在住の歌人でもある淺川肇さんが、ある日私にこう仰いました。「日本政府が万一朝鮮学校を無償化から除外できたとしてもこの間、心が通い合った日本人と在日の方々との絆を決してたち切ることは出来ない」と!

その通りだと思います。今現在、何一つ目に見えて解決できたものはありませんが、私の心の中に起きた変化、又、日本の方々との相互理解と友好親善の尊い輪をつぶす事は決して出来ないと思います。

私はこれからも、国や民族を越え1人の人間として、隣人を愛し朝日友好の架け橋になりたいと思います。最後までのご清聴有り難うございました。 

                       2016年11月19日   
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