国が行う福祉政策にどうして金がかかるかについて、フリードマン氏の主張には興味深いものがある。
・官僚は他人のお金 ( 税金 ) を、他人のために消費している。
・官僚がそのお金を、国民のため最も有益に使うということについては、人道主義に満ちた親切心をあてにする以外に道はない。
・他人の金 ( 税金 ) を手に入れてやろうという誘惑は、極めて強いものだ。行政に当たっている官僚を含め、これにたずさわる多くの人びとは、お金が他所に流れるよりなんとか自分の手元に来るように一生懸命努力する。
・仕事を通じて腐敗や詐欺に加担したくなる誘惑は、あまりに強く、その誘惑と闘い続け、負けずにおれるということは難しい。
・お金が自分の許へ流れるように、官僚は詐欺行為の代わりに、立法という手段を利用するだろう。
・その法を制定させるため、官僚以外の人びとはロビー活動をする可能性が高い。
・担当する官僚は、自分の俸給の引き上げや役得の増大のため、いろいろ工夫を重ねるだろう。俸給の引き上げと役得の増大は、福祉諸施策が大きくなればなるほど容易になる。
ここまであからさまに書いて良いのかとに言いたくなるが、日本の役人もおそらくこんな誘惑に負けているのだろう。35年も前に、米国で語られていたというのだから驚きだ。
福祉政策に使われる税は、途中で沢山抜かれてしまい、最終の受益者にはわずかの金額しか行き渡らない。だから国家の福祉政策は、何時までたっても際限なく赤字になると、彼が説明する。
日本の年金制度は今後百年揺るがないと厚生省が豪語し、給与天引きの年金保険料が引き上げられたのは、何時のことだったか。正確に覚えていないが、上がったとたん、役人や政治家たちが金を気前良く使いだした。
ゆとりのある暮らしにはリゾートが大切だ、余暇のスポーツが重要だと、使いもしないスポーツ施設や官営リゾートホテルなどが、しかも不釣り合いに豪華な施設が全国各地に建てられた。
それが軒並み自治体の赤字を増大させたため、「破綻する年金制度」とマスコミが騒ぎ始め、天下りの高給官僚たちがやり玉にあげられた。
フリードマン氏の意見が他人ごとでないのは、経験からする実感だ。35年前だろうと、100年前だろうと、「人間の心は、金の魔力にめっぽう弱い」。
立派な意見を述べていても、自分がこの魔力に勝てるかと自問すれば、自信無しという答えが即座に出る。
だから役人による管理・監督を否定し、政府に信を置かず、国民の自由に任せよというフリードマン氏の主張には一面の理がある。氏が強調しているのは「個人の自立」と、「自己責任」の大切さだ。個人の生活支援にまで政府は干渉せず、自然発生的な慈善運動に任せれば良いと言う。
しかし氏の本も読み進んで行くと、次第に無理が出てくる。自由競争を放置すれば富のある者が勝ち進み、貧しい者が這い上がれない社会になる。
自堕落に生きて来た人間が這い上がれないのは自業自得だが、真面目に生きた者が無惨に孤独死する社会は是認できない。不平等は絶滅できないとしても、極端な貧富の差を政府が放置するのは、正しいことか。
支援は末端に届かないばかりか人びとの自立心を失わせ、自助努力を無くした国民が更に堕落すると、沢山のデータを示して彼が反対する。
全ての人間を平等にという理想は理解しても、現実には無理な話だから、金持ちは金持ちらしく、貧乏人は貧乏人らしく生きるしか無いと断言する。要するに、「貧乏人は麦飯を食え」という理屈だ。
ここまでくるとどうしても、竹中平蔵氏の顔が浮かんでくる。国も民族も考えず、効率一筋に経済の活性化を説く、冷酷な新自由主義者だ。自由を万能とする氏は、無数の自由を国民の前に展示してみせる。素晴らしい数々の自由に混じり、「貧乏する自由」、「不幸になる自由」、「自殺する自由」が混じっているので、ため息が出てくる。
フリードマン氏の住む米国は、もともとそういう人間の集まりが出発点だから、それで良いとしても、日本はそんな国ではない。「民の竈は賑わっているか。」と庶民の暮らしを案じられた天皇が、古代からおられたという思いやりの国である。
たとえ作り話だとしても、そんな話が語り継がれているところに日本の良さがあるでないか。竹中氏に間違いがあるとしたら、おそらく日本の歴史への無知と無理解だ。
本はやっと300ページだ。次第に晴耕雨読の楽しい書でなくなって来たが、もっと酷い本があったことを思えば、これしきのことが何だろう。
美しい5月の庭に、小鳥のさえずりが響く。先ほどまでウグイスが、心地よい鳴き声を聞かせてくれていた。近くの山にいるのだが、わが「ねこ庭」で聞くのは初めてだ。氏の本が詰まらなくなったのを察し、ウグイスが慰めに来てくれたのだろうか。
そんな空想が信じられるほど、緑のあふれた5月の庭だ。