ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

ベトナムの食えない面々

2015-05-25 21:18:03 | 徒然の記
 木村聡氏著「ベトナムの食えない面々」(平成9年 株式会社めこん刊)を、読んだ。昭和40年生まれの氏は、新聞社の報道カメラマンを経て、今はフリーライターとして生きている。
定価1500円の割には粗末なザラ紙に印刷され、写真はすべて白黒のモノトーンだ。それでも、写された人物が皆生き生きとしており、本の内容にも味があった。

 面白いので、少し長くなるが引用してみよう。
「今日も人々の生活が路上に散らばっている。そこはやかましくて、むんむん暑くて、体臭、腐臭、乳臭、あらゆるものが混じった匂いが渦巻く。路上とは、しゃがんでフォーを食うところであり、ナマズを置いて売るところであり、洗濯するところであり、ホンダがいっぱい人を積んで走るところであり、喧嘩、泥棒、博打、密談、何でもありの空間である。
食堂になって、市場になって、自転車の修理工場になって、床屋になって、ときには便所にもなる。」

 ベトナム語の先生、サパの老人、メコンデルタの女神、北からやって来た通訳など、世の厳しさや貧しさにめげず、したたかに生きる人びとが描かれている。ものを売るなら吹っかけろ、買い物するなら思い切り値切れ、騙されるより騙せと、男も女も大声で喋る。知らないことでも知った顔で話し、相手の迷惑など考慮せずどこまでも自己中心で妥協しない。そんな人々を、卒直に、時として辛辣に批評するが、言葉の向こう側には、作者の暖かい目が感じられる。

 貧乏人の息子として育った私は、木村氏が描写する情景に心を奪われ、文章のえげつなさにも惹き付けられる。
英国外交官だったカーン・ロス氏の「独立外交官」も面白かったが、育ちの良い高級官僚の文章には、木村氏のような魅力が乏しかった。俺はセレブの育ちだぞと木村氏に苦情を言われそうだが、言葉遣いの乱暴さと赤裸さにはどう読んでも貧乏人仲間の味がする。

 征服者だったフランスと戦って勝利し、アメリカと戦っても勝ち抜き、祖国の南北統一をやり遂げたベトナムだ。輝く過去を持つ国だというのに、何時までも貧困から脱せられないのは何故か。本当にベトナムは戦争の勝利者だったのかと、氏が素朴な疑問を投げかけるが、それはそのまま私の疑問につながる。
19世紀の植民地戦争時代に、独立を守り通した日本も素晴らしいが、二つの大国と戦って勝利したベトナムだって大したものでないか。アジアでは日本だけが誇れる過去を持つと思っていたが、ベトナムも誇るべき歴史の国だった。

 昭和50年の4月にサイゴンが陥落した時、ホーチミンの共産主義政府が腐敗と堕落の南部を解放し、新生ベトナムが輝く一歩を踏み出したと、日本のマスコミが高揚した記事を書いた。朝日新聞などは、社会主義の勝利だと賛美一色だったと記憶している。
首都ホーチミンを昔ながらの「サイゴン」という名で呼び、言論の自由、個人の自由など、南部の人々は北への不信を押し隠している。北に吸収された南部の国民との間に、今も気持ちの断層があり、根深い対立が残っている事実を教えられた。

 それで、どうしたって、私は自分の国のことを考えずにおれない。
反日・売国の人間たちを獅子身中の虫と私は嫌悪し、一刻も早く退治したいと願っているが、ベトナムではついこの間まで殺し合った南北の人間が同居しているのだ。

 憲法改正が国論を二分する日本だと嘆いているが、ベトナムの状況に比較したらまだ増しなのだろうか。自民党と共産・民主党との対立より、もっと激しいものが国中に満ち、何をするにも議論がまとまらず、堂々巡りしているのだろうか。
陸続きのベトナムでは他国の介入も簡単になされるだろうし、「ドイモイ」などという元気なスローガンの背後では、国民不在の政治が続いているのだろうか。

 それともわが国がこのまま「獅子身中の虫」を野放しにしていたら、やがてベトナムみたいにやっかいな状況になるのか。
木村氏の本が人々の暮らしを生き生きと語っているだけに、日本の日常についていやでも考えさせられる。

 今から12年前、まだ会社員だった頃、私はベトナム旅行をしたことがある。
今では考えられないが、当時の会社は長く勤務した社員を大切にし、表彰したり褒美をくれたりした。勤続三十年目の私に、夫婦での旅行券を会社がプレゼントしてくれ、家内と旅の計画をしなぜかベトナム行を決めた。正社員をカットしたり、臨時のパートを増やしたり、そんな目先の利益だけを追求しなかった、良き時代の会社の話だ。

 グループ企業の中に旅行会社があり、自由が利いたこともあって、団体でなく個人の旅ができた。飛行機はビジネスクラス、ベトナムでの移動は日本の乗用車(中古だったが高級車)、そしてベトナム人の通訳と添乗員が付くという、後にも先にも初めての優雅な強行スケジュールの旅だった。
(自慢のため述べているのでなく、ついこの間まであったのに、消えてしまった「古き良き時代のわが国の会社」について語りたかったのだ。)

 そこで私が見た風景は、木村氏が語る情景と重なり、とても懐かしかった。
ベトナムの農村風景は、かっての日本を偲ばせ、不便さも不潔さも、人々の暮らしの慎ましさも、すべて懐かしかった。敗戦後の田舎の貧しさと、それでいて生き生きとした明るさや、穏やかさなど、私は心を揺さぶられ通しだった。

 言葉が通じないので人々との会話は無く、笑顔で礼を言ったり挨拶したりで終わったため、楽しい思いばかりが刻まれているのだろうか。氏のように言葉が話せたら、悪口や陰口まで理解できて、思い出が別のものになったのかも知れない。
心に残るベトナム人は、誰も人なつこく、穏やかで、遠慮がちな表情ばかり見せている。アオザイ姿の若い女性などは、優しい笑顔でしか思い出せない。

 氏の本を読み、ベトナム人は別の姿をしているのだと知ったが、私は自分の思い出と印象を大切にしたい。ベトナム人だって、その方がいいに決まっている。

 さてそこで、肝心のこと。
「食えない」という言葉を辞書で引いたら、「ずる賢くて、油断できない」という意味だと書いてあった。要するに平気でウソを言い、自分を正当化するためには妥協しないという厚顔さ。私はベトナムだけでなく、東南アジアの人々が多かれ少なかれそんな気質で暮らしていることを知っている。

 他人を責める前に、自分を反省しなさいなどと教えているのは、アジアでは日本だけでないのだろうか。
インドネシア、マレーシア、シンガポール、タイ、香港と、会社に勤めていた頃、現地の社員と東京で接して来たが、ホテルに泊まれば仲間で夜遅くまで騒ぐし、約束の時間は守らないし・・・・という彼や彼女らを、沢山見て来た。

 謝ることは決して無く、乗り物が遅れたとか、人に邪魔されたとか、言い訳ばかりの彼らに呆れさせられた。彼らには「自責」という観念が無く、24時間「他責」の念で暮らしている。彼らを引率して来た現地駐在社員に聞くと、これが当たり前のことだと聞き流された。おまけに言われたのは、「日本の常識は、世界の非常識です。」だった。あの時はむかっ腹が立ったけれど、今では、名言でなかったかと感心している。

 つまり、ここで再度「肝心のこと」だ。
日本の過去を誹謗し、捏造のウソで攻撃し、反論をものともせず、愚かしい宣伝を、恥も無く続ける中国と韓国・北朝鮮のことである。己の非道や殺戮には一顧だにせず、よくもまあ、あんな傲慢なでっち上げをと日本人は怒っているが・・・・・。

 もしかすると、アジアでは中国と韓国・北朝鮮のやり方が当たり前なのではないかと、そんな気がしてきた。
つまり「日本の常識は、世界の非常識」ということで、孤高の日本というのが現実なのではないだろうか。そうだとするのなら、私たちはもっと割り切って生きなくてならない。

 「郷に行っては、郷に従え」だから、「礼節」、「正直」、「勤勉」、「誠意」などという生き方は国内だけのものとし、外へ出たら「他責」、「自己主張」、「大ウソも方便」で、堂々とやり合うことが正しいのではないのか。

 驚くことは無い。日本にだって、世界の常識でやっている会社が沢山ある。朝日新聞とNHKを筆頭に、マスコミ各社は何年も前から「世界の常識」で報道をしている。
平気でウソの記事を書く、間違った報道をしても謝らない、責められたらへ理屈で反撃する、恥も無く誇りも無く、その場その場を大声で取り繕う。
「日本の常識が世界の非常識」と、マスコミ各社が言わなかったとしても不思議は無い。彼らの報道には、真実とか、正義とか、誠とか、そんなものは頭から無く、眉に唾して読んだり聞いたりするべしと、氏の本がシッカリと教えてくれた。

 九州から戻って久しぶりのブログだが、「みみずの戯言」というより、今回だけは「onecat01の本気」と改めることとしよう。
コメント (2)
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