保坂正康氏著『後藤田正晴』( 平成10年刊 文元春秋社 ) を、読んでいます。400ページの本の230ページですから、やっと半分というところです。
右か左か、反日か愛国かと、単純思考しか出来ない私にはやっかいな本なので、途中で一休みせずにおれなくなりました。理由は二つです。
1. 著者である保坂氏が、私の嫌悪する獅子身中の虫の一人であること。
2. 後藤田正晴氏が、護憲派の政治家であるということ。
保坂氏については、平成25年の6月と9月、平成26年の2月と過去3回、氏を批判するブログを書いています。
「改憲は、積み重ねてきた歴史への背信である。」
氏の基本的姿勢は一貫してここにあり、憲法改正を語る安倍総理へ反対します。平成25年の6月に、氏は講演会で次のように述べていました。
「もし帝国主義的な乱暴な国があったら、私たちは憲法とともに積み重ねてきた実績をもとに、その国を批判することができるのです。」
「あなた方がやっているのは、帝国主義的な手法ではないですかと言えるし、言わなくてならない。今の憲法を持つことには、そういう意味もあるのです。」
これが尖閣の領海侵犯をする中国への、氏の意見です。ひとかどの評論家を自称していますが、ひとかどの評論家とは考えられません。参考のため、平成25年の9月のブログからも、氏の意見を紹介します。
「ケリー国務長官とヘーゲル国防長官が、千鳥が淵戦没者墓苑を訪れたのは、安倍総理が、靖国神社とアーリントン墓地は同じと言ったことに対する、米国の怒りの意思表示である。」
「靖国神社は宗教的・政治的であると同時に、何よりもA級戦犯の刑死者が祭礼の対象になっている。」「米国共和党の怒りは、神聖なアーリントンを、異質な靖国と同じにしないで欲しい、こんな神社がアーリントンと同じである訳が無い、ということだ。」
アメリカが何を言おうと、歴史を知り、日本を大切に思う人間は靖国神社をそんな言葉で語りません。だから私は、最初から偏見を持って本を読みました。後藤田正晴氏の伝記ですから、幼少の頃から書き起こされています。氏は後藤田氏を議員会館に何度も訪ね、親しく対談した間柄だと言います。
保坂氏の本業は作家でなく、評論家だと思いますが、読むに耐えない叙述です。後藤田氏は、今をときめく自民党の実力者なので、多少のお世辞はあると思いますが、鳥肌が立つような追従文でした。
生きている著名人の伝記を、三文文士が書けばこうなるのかと、我慢しながら読みました。私の偏見なのか、氏の文章を紹介します。
「後藤田の顔は、確かに笑顔がいい。邪気の無い、爽やかさを絵に描いたような顔になる。そのために、相手に与える印象がソフトになる。」
「だが、高校時代の同級生たちはその顔と、ひとたび議論になり、自説を主張する時の厳しい顔もみている。その二つのコントラストが、かえって同級生たちには、人間的な魅力と映った。」
しかし90ページ読んだ時から、本への興味が湧いてきました。
「昭和17年、夏のことである。後藤田はマニラの司令部に、連絡将校として出張を命じられたことがあった。」
「マニラでは日本軍の将兵が、わがもの顔で街を歩いていた。フイリッピン人は、それに怯えていた。」「後藤田はこの時に、日本軍の横暴さを幾つも目撃した。これが大東亜共栄圏の実態かと、日本人でありながらフイリッピン人に同情した。」
戦前の日本人がアジアで何をしたのか、今も私が知りたいのはここです。市も同じだったのか、後藤田氏に質問しています。
「どういう光景に出会ったのかと問うと、そりゃあ君、ひどいもんだ。そのことは言いたくない。」
「とにかく無茶なもんだ。軍人には、ひどいことをするものがいるんだ。あれでは、戦後になって、アジアの人々に弾劾されるのも、無理はない。」「後藤田は、この話の時には眉をひそめた。」
私が乱読を続ける理由の一つは、戦前の日本が知りたいからです。後藤田氏と、保坂氏の会話には、私の知らない日本がありました。後藤田氏についても、知らない姿でした。
1. 警察予備隊の創設に、実務官僚として関わっていたこと
2. 機動隊の創設者であったこと
3. 浅間山荘事件では、警察のトップとして指揮をしていたこと
無知を啓蒙してくれる本には感謝する私は、軽蔑する保坂氏の著作にも敬意を表すこととなり、忙しくなりました。
それで一息入れ、頭を冷やすことにしました。私はまだ若いのですが、それでもこのような本を手にすると疲れます。本日はこれまでとし、「ねこ庭」の雑草でも抜くことにします。