岡田啓介氏著『岡田啓介回顧録』( 昭和25年刊 毎日新聞社 )を、読んでいます。著者は元海軍大将、元首相の岡田氏で、氏の晩年の口述を本にしたものです。
氏は慶応4年に生まれ、昭和27年に84才で亡くなっています。田中義一内閣で海軍大臣をつとめたのち、次の斎藤内閣で再び海軍大臣となり、その斎藤内閣が瓦解したため、大命降下により総理大臣となりました。
世間を揺るがした二・二六事件の時の総理で、青年将校による首相官邸襲撃の難を逃れたという話の方が、私の記憶に残っています。
堅苦しく、真面目一方の人物と思っていたので、語り口の軽妙さが意外でした。福沢諭吉の『福翁自伝』や、勝海舟の『氷川清話』の軽妙さを思い出しました。前回の本もこの『回顧録』も、図書館でもらった本ですが、有意義な本に続けて出会えるなど、人生には時々良いことがあります。
67年前の本なので、小さな活字で印刷され、表紙がすっかり日焼けして変色し、背表紙の題名がかすれています。ページの四隅が茶色に変わり、丁寧にめくらないと、破れてしまいます。持ち歩いて読んでいましたら、表紙の糊代が外れ、中身がそっくり取れてしまいました。
有意義な書とはいえ、ここまで古びてしまいますと、読み終える時はどうなるのか心配になります。( 298ページの本の120ページまで読みました。丁寧に、丁寧に、読んでいます。)
紹介すると切りがないのですが、どんな内容なのか、さわりの部分を4つ転記します。
〈 1. 当時の軍艦事情 〉
「当時の金剛、比叡は、英国で作った最新式軍艦だったが、2千2百トン、半鋼鉄艦で、竜骨は鉄、舷にも1 インチの鉄板が張ってあるが、他の部分は木だった。主砲は17サンチ砲2門、速力13ノット、いざという場合は石炭を炊いて走るのだが、いつもは帆走する。」
「それ以前の日本には、扶桑が一隻しかなかった。3千7百トンで、主砲は24サンチで、唯一の鋼鉄艦だった。英国から金剛・比叡がきて、やっと軍艦らしい軍艦が、3隻揃うという状態だった。」
「日清戦役の前清国の北洋艦隊が、日本に示威を行う意図で、3千3百25トンの定遠、鎮遠などが訪問してきた時、日本国民はその威容に恐れをなしたものだった。」
中国は日清戦争以前から、軍備で日本を威圧していたのだと、これで分かります。早稲田大学教授の小林英夫氏が、『日本軍政下のアジア』という著書で書いていたことが、嘘だったことも分かりました。反日左翼の氏は、次のように説明てしていました。
「日清・日露戦争、第一次世界大戦と、ことあるごとに日本は、東アジアで領土拡張を試み、植民地領有を目指したが、いずれも作戦は短期間のうちに、勝利をもって終わりを告げた。地方政権や、弱小政権を相手にした小規模な戦争だったから、これでこと足りたのである。」
反日学者らしい、偽りの叙述です。領土拡張を目指すどころか、当時の日本こそが弱小国家で、巨大な中国の軍事力に脅されていたのです。何も知らない学生を騙す左翼教授の罪深さを、私たちは頭に刻まなくてなりません。
次は面白い、バナナの話です。
〈 2. バナナ士官に、洗濯水兵 〉
「さて、金剛、比叡は・明治22年8月横須賀港を出発して、練習航海に乗り出した。」「34、5日走って、ハワイのオワフ島に入港した。在留邦人が多勢で迎えにきて、持ってきてくれたのはバナナだった。初めて見る果物で、誰も聞いたことがなかった。」
「みんなが食べてみて、これは変な匂いがするというので、半分は捨ててしまう始末なので、居留民がその香りがいいのですよ、まあ、二三日してごらんなさい、きっと好き二なりますから、という。」
「なるほど2、3日すると、みんなうまい、うまいと言うようになり、上陸すると、士官たちはバナナで夢中になる。」
「水兵は洗濯物がたまっているものだから、領事館のうしろの清流に並んで洗濯をする。ハワイの新聞には、〈バナナ士官に、洗濯水兵〉という記事が出た。」
バナナの話も面白いのですが、水兵が洗濯物を領事館の裏の川で洗濯するなど、現在では想像もできないのどかな風景です。次も、呑気な時代の話です。
〈 3. 軍艦旗条例の話 〉
「さて横浜に近づいてみると、日本の軍艦がへんな旗を掲げている。われわれは日の丸を掲げているのに、ここではアメリカの国旗のようなものを掲げている。だんだん調べてみると、練習航海中に、海軍旗章条例というものが発布されて、軍艦旗ができていた。」
今なら情報が瞬時に伝えられるのですが、通信手段の限られていた昔は、こんな状況だったのです。おそらくこれが、隣の韓国・朝鮮が親の仇のように嫌悪する、旭日旗のことでしょうか。のんびりした話がある反面で、次のような緊張する話もあります。
〈 4. 日清戦争中の話 〉
「その戦争の最中、英国機を掲げた汽船がやってきた。よく見ると、どうも清国兵が乗っているらしい。そこで東郷艦長は、停止、投錨を命じ、臨検士官を送って船内を調べさせると、多数の清国兵と兵器弾薬があるので、捕獲することに決め、浪速の後について来いと、命令した。」
「ところが乗っている清国将校が、船長を脅して命令を聞かせない。そこで東郷艦長は、船長その他の第三国人だけ浪速に収容し、汽船を撃沈しようとした。」
「清国将校が、船長以下が浪速に移ることを許さず、太沽へ引き返せと強要するため、とうとう浪速は、水雷と大砲を放って汽船を沈め、船長と船員を艦内に収容した。」
「このことが内地に伝わると、みんなびっくりした。イギリスの船を沈めてしまったのだから、驚くのも無理はない。」「伊藤首相などは、卓を叩いて、西郷海軍大臣を難詰したそうだ。」
「西郷さんは、東郷がでたらめなことをやるはずがないと、すましていたそうだが、朝野をあげて、海軍がとんでもないことをしてくれたという空気だった」
ところが、当時世界一流の国際法の権威だった、イギリスの何とかいう学者が「東郷艦長の取った処置は正しい」と言ったので、非難がピタリと止んでしまったそうです。昔も今も、日本人の西欧崇拝が変わらないことを教えられます。しかし私は、これに続く氏の言葉に注目しました。
「敗戦後の今日、わが国は、主張して良さそうなことも全然主張せず、いじけているが、少し国際法を研究して、敗戦国にも権利があることを調べてみたら良いと思う。」
敗戦後と言っているのは、大東亜戦争での敗北を差しています。GHQに統治され、言われるがままだった当時の日本を、岡田元首相がどんな目で見ていたのかが分かります。
現在の日本には、軍備を増強し核も持ち、敵対国を叩き潰してしまえと、威勢の良い保守がいます。すぐにでも国交を断絶しろと、勇ましい言葉に酔っている保守もいます。
しかし氏が語っているのは、短慮の勧めでなく、もっと国際法を研究し、敗戦国の権利を調べなさいということです。卑屈なままでいるのでなく、よく研究した上で、東郷艦長のように自信を持って対応しなさいと述べています。