嘘か誠か、驚くような叙述に出会いました。後藤田氏が、警察予備隊を作っていた時期の話です。そのまま紹介します。
「後藤田はこの期間に、吉田茂という首相の硬骨漢ぶりを、眼のあたりにした。」「吉田こそは、アメリカという支配者に対して、巧妙な手を用いて、自らの信念や理念を崩さず、日本の主体を守り抜くことに成功した首相だ、と思った。」
「後藤田は、あの当時吉田のような政治家がいなかったら、日本は際限なく、原則を崩してしまったのでないかという。」
「その吉田が、後藤田や外務省、旧内務省など各省からの官僚が、警察予備隊に関し、シビリアン・コントロールを模索しているとき、突然、顔を出したことがあった。」
「吉田は講堂にこれらのスタッフを集め、新聞記者の入室を拒んだ後、こう訓示した。」
「私は表向き、警察予備隊は軍隊でないと言い続けている。だがはっきり言って、これは軍隊である。諸君も軍隊という認識をもって、しっかりと、国土を防衛するつもりで努力してほしい。」
吉田氏がこうした意思を持っていたことを、初めて知りましたが、同時に戦後日本の不幸は、吉田氏と後藤田氏にあったのかと、納得もしました。両氏は共に軍人の横暴さと、傲慢さを身近にするす経験しか持っていなかったからです。提灯記事を書く保坂氏は、吉田氏と後藤田氏を賞賛しますが、牙を抜いた軍隊を作ることの過ちの大きさを、七十余年後の国民が知らされることになりました。
ここは大切なところなので、長くなっても紹介します。
「警察予備隊について、具体的にどのような編成を進めたのか。後藤田は、この面の実務責任者であった。」「武器などは、初めはアメリか軍から譲ってもらった軽装備であった。いってみればアメリカ軍の余剰の武器を、押し付けられた格好であった。」
「後方部門、つまり兵站、補給を拡充すれば、オーバーシーが可能になってしまう、と後藤田は考えたのである。こうした後藤田の考えに、米軍の将校たちも、別段異論を唱えなかった。」
アジア諸国に広く展開し、無残に敗北した軍を、吉田氏も後藤田氏も嫌悪していました。自由主義者だった吉田氏は、軍人に痛めつけられ、彼らに怒りを抱いていました。敗戦後に、台湾から帰還した後藤田氏が、郷里の徳島の実家に帰るとき、どんな気持ちだったかという描写があります。
「後藤田が、帰郷の途中で見た光景は、まさに国敗れて山河ありだった。いたるところに戦禍の跡があり、浮浪者や孤児があふれていた。そのような光景を見て、敗戦の惨めさを感じた。」「人々は食べることのみに必死で、そこには国を盛り立てていこうという気概は、感じられなかった。」
「馬鹿な戦争をしたものだ。軍人などに国を任せると、このざまだ。二度と彼らに、国を任せることはできないと痛感した。」
優秀で聡明だと保坂氏は、後藤田氏を描きますが、戦争の原因を単純化して考え、何もかも軍人に転化する人物だとすれば、私には疑問でしかありません。
後藤田氏は、警察予備隊について次のように語っています。
「これは重要なことですが、いかなることがあっても、オーバーシー用の武器は持たないし、装備はしない、というのが主眼だったのです。」「足の長い、つまり外国へ出ていけるような装備は、しないということでした。部隊そのものが、外国に出ていけない、隊員にもそのような教育はしない、という方針でやっていたわけだ。」
「長距離爆撃機など、決して持たないわけです。兵站や補給にしても、国土防衛が中心ですから、それほど大がかりなものでなくていい。だから僕は、アメリカから命令された後方部門は、削ってしまった。」
日本軍を悪とする思想が、ここから出発していました。氏は戦争の実態を知らない高級官僚でしかなかったかと、私はそう考えざるを得ません。国益をむき出しにし、敵を殲滅させる戦いをするのが国際社会で、それが歴史だと、こんな常識もなかったということです。
氏が作った軍隊は専守防衛の軍で、実際には日本の防衛さえできないお粗末さでした。七十年が経過し、北朝鮮や中国が、核兵器で攻撃すると脅してくる現在では、敵基地攻撃なしで、国土の防衛ができないことが明らかになりました。
攻撃される前に敵基地を破壊しなければ、日本は消滅します。国が瞬時に破壊される核戦争が生じたとき、遠く離れた米国が、自国の危機を招く日本防衛をするはずがありません。核戦争時の日本は、自力で国土を防衛するしかありません。これが国際社会の現実ですから、保坂氏がいくら後藤田氏を褒めても、うなづく気になれません。
占領軍統治下の日本なら、軍人を責め、軍隊を呪っても、異を唱える者はなかったとしても、今は状況が違います。国の安全保障はどうあるべきか、軍隊の役割は何なのかと、優れた指導者なら百年の大計で考えます。
それでも後藤田氏を無下に出来ないのは、次のような記述があるからです。
「昭和46年後藤田は警察庁長官として、全国警備局長会議などで共産党に対し、強い警鐘を鳴らした。」
「日本共産党は、巧妙な戦術を用いて国民を欺いている。微笑戦術を取りながら、国民の持っている警戒心を解き、支持の拡大を進めている。少なくとも幹部たる諸君は、微笑の陰に隠された、革命勢力としての共産党の本質は、少しも変化のないことを、心に銘記しておかねばならない。」
「共産主義勢力や、新左翼のイデオローグたちに対する後藤田の見方は、常に厳しく、ことあるごとに批判を行った。」
「例えば学生が暴徒化し、騒乱状態になっても、警察はそれに耐える装備と、訓練を行っている。」「警戒すべきは、共産党だ。彼らは、本質的に、武装革命に転換する可能性があると漏らした。」
後藤田氏は、このようにして昭和40年代初期の学生運動に向き合い、安保騒動に対峙したのです。むやみに力を行使せず、しかし断固として学生の活動は抑え込む、こうした理性的処理をしたのが後藤田氏だったと知りますと、氏への批判が簡単にできなくなります。
氏は警察予備隊、つまり今日の自衛隊を骨抜きにした元凶ですが、共産党対策では見事な指揮を取りました。ブログで語る口舌の徒でしかない私は、命がけの仕事をした氏を、簡単に批評できなくなりました。
ということで、本日はここまでとします。最後まで目を通せば、いい知恵が得られるのかもしれません。