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岡田啓介回顧録 - 3 ( 皇道派と統制派 )

2017-06-30 23:23:20 | 徒然の記

 陸軍に皇道派と統制派があり、激しく対立していたという話は知っていました。関係の本を読んでも、今一つ理解できませんでしたが、岡田元首相の説明ですべてがハッキリしました。

 これまで読んだ本は、あっちを立て、こっちも立てと、曖昧にしていたから理解できなかったのだと分かりました。長くなりますが、後の 2・25事件につながる重要なことなので、割愛せずに紹介します。

 「陸軍にはいつのころからともなく、皇道派と統制派という派閥があり、ことごとに争っていた。」「皇道派と見られていたのは、真崎甚三郎と荒木貞夫なんだが、真崎は陸軍三長官のひとつである教育総監の地位にあり、若い将校などを家に出入りさせて、おだてたりし、林陸相のやることに干渉していたらしい。」

 「林の下には、軍務局長永田鉄山がいて、これがまあ、林を操縦しているんだとも言われていたが、林は部内統制のために、真崎を退けようと画策し、ついに非常手段として、閑院参謀総長宮のご同意を得て真崎をやめさせた。」

 「真崎を辞めさせるという日に、私にも内々知らせがあって、今頃は真崎が怒っているだろうなと、成り行きを心配していたものだが、皇道派の連中は永田の陰謀だと騒ぎ、かねて真崎を崇拝していた相沢が、昭和10年の8月、台湾への転勤の途中、陸軍省へ挨拶に来て、永田軍務局長を切ってしまった。」

 「凶行の後で、省内で雑談していたところを、小坂慶助という憲兵がやってきて、なだめすかして、憲兵隊へ連行したという話だった。」

 相沢中佐は、皇道派の者たちから英雄のように見られ、公判は大変な騒ぎになったと言います。皇道派の動きが剣呑になり、今にも不詳事件が突発しそうな様子だったそうです。

 「具体的なことは、私にはわからない。クーデターのようなことが、起こるかもしらん。私も狙われているだろうと、そのことは覚悟していた。」

  皇道派と統制派について、別途調べましたので整理したいと思います。

 ・ 皇道派とは、陸軍内にかつて存在した派閥。 

 ・ 北一輝らの影響を受けて、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソ連との対決を志向した。

 ・ 名前の由来は、理論的な指導者だった荒木貞夫が、「日本軍を皇軍と呼び、政財界(君側の奸)を排除して、天皇親政による国家改造」を説いたことによる。

 ・ 皇道派が全盛期の時代の犬養内閣時に、荒木が陸軍大臣に就任し主導権を握り、皇道派に反対する者に露骨な人事を行い、中央から退けた。

 ・ この処置が、多くの中堅幕僚層の反発を招き、反皇道派として団結するようになった。

 ・ 皇道派に敵対する永田が、自らの意志と関わりなく、周囲の人間から、統制派なる派閥の頭領にさせられていた。

 したがって永田軍務局長にすれば、「陸軍には、荒木貞夫と真崎を頭首とする、皇道派があるのみで、統制派という派閥は存在しない」ということになります。最も分かりやすかったのが、岡田元首相の次の区分でした。

 1. 皇道派は、陸大出身者がほとんどいない下士官クラスで占められている。

 2. 非皇道派  ( 統制派 )は、陸大出身の将官クラスで占められている。

 下士官クラスの軍人が、なぜ北一輝の思想に惹かされて行ったかについては、当時の社会情勢を考慮する必要があります。

 世界恐慌の影響で、日本経済が大打撃を受け、農漁村の疲弊と貧困には目を覆うものがありました。貧しい村では、娘たちが悪徳商人に売られていきました。彼女たちは低賃金で働かされる女工となるだけでなく、売春婦にもなりました。政治家と結託した経済界だけが、巨利を得て贅沢をしていました。

 下士官クラスの軍人の多くは、そうした農漁村の出身者でしたから、北一輝の「天皇親政論」に強い共鳴を受けました。「無私の天皇陛下による、万民平等政治」に、彼らは夢と願いを託しました。一方、非皇道派 (統制派) の陸大出身の将官クラスの軍人たちは、裕福な家庭の出身者が多数ですから、北一輝の思想に惑わされません。

 いわば北の思想は、天皇陛下の独裁による共産主義政治ですから、現在の左翼思想がそうであるように、現実と遊離したユートピア思想でした。これについて述べると、著作を離れてしまいますので、元へ戻ります。

 「非皇道派の中堅幕僚層は、永田鉄山や東條英機を中心に纏まり、後には、陸軍中枢部から皇道派が排除されていくこととなる。」「路線対立はこの後も続くが、軍中央を押さえた統制派に対し、皇道派は、若手将校による過激な暴発事件(相沢事件や二・二六事件など)を引き起こし、衰退していくことになる。」

 「天皇親政の強化や財閥規制など、政治への深い不満・関与を旗印に結成され、陸大の出身者がほとんどいなかったのが、皇道派である。これに対し、陸大出身者が主体で、軍内の規律統制を尊重するという者たちが、統制派と呼ばれた。」
 
 岡田元首相の説明を受けた後で、これまでの知識を整理しますと、騒乱の時代が鮮明な映像として理解できました。同じ陸軍内でも、生死をかけた対立があり、更に陸軍と海軍も戦略の違いから争っていました。
 
 現在でも自民党に派閥があり、政治家たちが対立し、更に与党と野党が次元の低い政争をしています。いつの時代になっても、政権をめぐる争いは無くならないと、歴史が教えています。
 
 「もし野党側が大多数を占めるようになったら、総理は潔よく辞めますか、その方が男らしくていいですね、という者もいたが、私の組閣の使命はそんな単純なものではない。岡田啓介という人間が、もみくちゃになるまでやるんだ。」
 
 これが、岡田氏の言葉です。自民党の総理も、こうあってもらいたいと思います。突然話が変わりますが、「憲法改正」は、日本が独立国家となるための不可欠の条件です。自衛隊を軍隊へ変えることも、当然の話です。
 
 反日の政治家や学者たちが、やたら軍の暴走を語りますが、もともと軍はそうした要素を持っており、だからと言って日本だけが「軍備全廃」という話にはなりません。
 
 日本以外の国が公正と信義の国であるはずもなく、他国の軍も信義の軍隊ではありません。平和憲法を守れ、九条を守れとか叫ぶ人々は、歴史も知らず、国際政治も知らず、日本を滅亡させる人間ではないでしょうか。
 
 岡田元首相の書は、様々なことを平成の私たちに教えています。「お花畑の住民」は、相変わらず軍人は嫌だ、戦争は嫌だと、子供のように駄々をこねるのでしょうが、私は明日も続きを書きます。
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