〈 第十九闋 赤白符 ( せきはくのふ ) 奥州をめぐる武力抗争 〉
渡部氏の解説に、心が惹かされます。
「奥州の状況がこんな時だったのに、京都の方ではどうだったのであろうか。貴族たちは、大邸宅を建てることを競っていたのである。道長の長男の頼通のその贅沢は、父以上のものがあった。彼の作った高陽院 ( かやのいん ) は、『栄華物語』にも、〈華麗比なし〉と書かれている。」
頼通の作った平等院鳳凰堂は、10円硬貨の表面に刻まれ、国宝建築として国民の多くが知っています。贅沢も規格外になりますと、時の経過で国の宝となり、国民に親しまれるのですから不思議な魔法みたいです。
「彼の弟の教通 ( のりみち ) も、驕侈 ( きょうし ) の点では父にも兄にも負けていなかった。彼の造った二條第 ( にじょうだい ) は、〈 広壮を極む〉と言われた。あまり立派なので兄の頼通も不愉快に思い、自分の息子の師実 ( もろざね ) に、〈 大きな私宅を構えて街並みを一杯にしてしまうのは、程度を超えたものではなかろうか 〉と言った。」
すると息子の師実が次のように答え、頼通がうなづいたと言いますから、落語でも聞いているような気持ちになります。
「父上のおっしゃられる通りですが、一族の人間のやることですから、別に文句を文句を言うことではないでありませんか。」
「これを聞いて父親の頼通は、それもそうだなとうなづいた。というわけで上級貴族たちは、競走で雲に届くような大邸宅を建て始めたと言う。」
都でこのような私邸の建築競争をやっているちょうどその頃、東北では、源頼義が援兵も食料の補給もなく苦戦していました。もちろん頼義は何度も食料の運輸を上申し、兵士を徴発する官符 ( あかふ ) を賜るよう願い出ていたと言います。
「官符は出ても一向にききめがなく、食料も届かず兵隊も来ない。出羽守・源兼長も全く出兵する気がない。一方貞任の方は、白符を用いて徴発し、ますます勢いが盛んである。こうした狡猾な北方の敵 ( 黠胡・ かつこ ) を、どうして頼義は討つことができようか。この状況を頼山陽は、次の三行でまとめた。」
高位の人たち ( 五侯 ) の邸宅は雲に連なるように豪華なものが、次から次へと建てられている
それなのに東北の遠征軍に対して、兵士や食料の途絶えていることは一向に省みない
鎮守将軍は一体、何を頼りにして狡猾な北方の蛮族 ( 胡 ) を征伐することができようか
並の将軍でしたら、遠征を断念するところです。しかるに朝廷の方では、平定が進まないのは頼義の責任であると考え、康平5 ( 1062 ) 年、彼の任期が切れると解任し、代わりに高階経重 ( たかしなのつねしげ ) を任命しました。
現地の事情を知らないまま軍事の判断を下すと言うのですから、驚いてしまいます。しかしよく考えてみますと、現在の私たち国民も政府も、似たようなことをしています。危険極まりない国際社会、特に狡猾な隣国の無謀さに気づかず、「平和憲法を守れ」「日本の再軍備を許すな」「戦争だけはしてはならない」と、国の守りを軽視し続けています。
軍拡競争と言われようと、狡猾な敵から国を守るには、同等の武力行使ができる体制が要ります。「やられたらやりかえす」「攻撃されたら倍返しする」と、こういう気概が戦争を防止する事実も、忘れてはいけません。平和呆けした愚かな朝廷 ( 今で言うなら政府 ) について、氏が間違いを指摘します。
「この辺が、当時の朝廷の甘いところであった。武士たちは頼義の威名を慕って集まっているのであるから、経重の指揮を受けようとしない。それで経重はやむをえず、なすことなく京都に帰る羽目になった。」
第十九闋の詩は1960年前の出来事ですが、私は現在の日本の状況と重ねて読んでいます。
「頼義は朝廷に頼るわけにいかないことを知り、援軍を出羽の俘囚の酋長である清原光頼 ( みつより ) と武則 ( たけより ) に求めた。最初のうち二人はなかなか協力しなかったが、頼義が自腹を切り何度も珍しい宝物を贈ったので、二人はようやく説得され、一万余の軍勢を率いて頼義を加勢することになった。」
加勢は死の覚悟無しにできませんから、二人の決断は宝物 ( 金銭 ) に目が眩んだと言うより、自らの懐を痛めても戦おうとした頼義の気概への共感だったのではないでしょうか。
「と言っても、戦いは簡単に終わったわけでない。平野にまた城攻めに激戦を重ねたのち、ようやく厨川 ( くりやかわ ) 、ウバ戸の柵を囲んで、敵を全滅させることができたのである。貞任や経清の首は箱に入れて京へ送り、家任 ( いえとう ) ・宗任 ( むねとう ) らを捕虜にした。」
その功によって頼義は正四位下、伊予守に任ぜられます。彼が鶴岡八幡宮を造ったのは、この時だそうです。しかし他の功労者には朝廷から恩賞の沙汰がなく、頼義の願い文は朝廷での議論が定まりませんでした。
「そのことを要請した頼義の上疏文 ( 天子に差し出した書状 ) は、今日なお人の心を動かす名文である。」
こう言って渡部氏が、その一部を紹介しています。
「虎狼の俗 ( 官に反対する人間 ) に向かい、甲冑をまといて、もって千里の道に赴き、矢石 ( しせき ) に交わりて、もって万死の命を忘れ・・・」
名文なのかどうか見分ける力はありませんが、伝わってくる頼義の熱い思いがあります。
「こうして戦った者たちに、恩賞がないのだ。それで頼義は私物を与えたのである。そのような行為に対して、部下が感激しないはずはない。朝廷は当てにならないが、頼義は当てになる。かくして源氏は、東北・関東に強固な基盤を築き始めるのである。」
結局頼義は、金で人心を掴んだ。金権政治家の走りではないかと、そんな誤解をする人たちのため、説明をしておきます。金銭ほど人間の姿を映すものは、ありません。強欲、吝嗇、狡猾、卑劣などと言う言葉が、金に目のくらんだ人間を表すときに使われます。逆に言いますと、金銭は人間にとってそれほど大切なものであると言うことになります。
大事なのは、持っている金銭をその人がどのような使い方をするか、ここにかかっている気がします。自分の金は少しも使わず、公金を浪費する者を褒める人はいません。大切なお金をどのような使い方をするのか、高名な人物でも庶民でも、人物評価の判断をここにおいている人間は沢山います。彼が自腹を切っているのか、公金を使っているのか、区別のつかない人間はいません。
金権腐敗政治をする政治家が尊敬されない理由が、ここにあります。自由民主党の政治家が槍玉に上がることが多いのですが、野党の政治家も同じでないかと考えています。大手マスコミが報道するかしないかで、金権腐敗政治家が決められていますが、ネット世界が進化すれば世相も変わる気がします。
頼山陽の七行詩の解説を、五行まで紹介しました。余計なことを述べスペースを使いましたので、残る二行は次回といたします。