ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 110 ( 壺切剣 ( つぼきりのつるぎ ) )

2023-06-05 18:09:12 | 徒然の記

 〈  第二十闋 剣不可傳 ( けんつたふべからず )  藤原時代の終焉  〉

 今回も順番に、「書き下し文」と「大意」を紹介します。

 〈「書き下し文」( 頼山陽 ) 〉 9行詩

   剣伝ふ可 (べ) からずんば 伝えざるも可なり

     吾は剣を恃 ( たの ) まず吾は吾を恃む 

   太子即身即龍泉 ( りゅうせん )

   龍躍 ( おど )りて淵に在り五雲 ( ごうん ) 裹 ( つつ ) む

   倒持 ( たうじ ) の柄を再び収奪して

   天に跨 ( またが ) る老霓 ( ろうげい・虹 ) を手づから一截 ( いっせつ ) す

   光芒遍 ( あまね ) からむと欲す大八洲

   惜しむ可 ( べ ) し剣身 ( けんしん ) 忽 ( たちま ) ち自 ( みずか ) ら折れるを

   嗚呼惜しむ可し剣身 ( けんしん ) 忽 ( たちま ) ち自 ( みずか ) ら折れるを 

 〈 「大 意」( 徳岡氏 )  〉

   東宮の剣壺切りは、藤原氏の母を持たぬ私には伝えられぬと?  伝えなくともかまわぬ

   私は剣を頼りとはせぬ、 私は私自身を頼りとする

   太子はその身そのまま、 まさに竜の族だった

   龍は淵に躍り込んで、そのまわりに五色の雲がたちこめる

   逆さまになっている権力の所在を再び奪い返して

   天に長々とまたがっている老いた妖しの虹の精を、手ずから一度は切ったのであった

   かくて稜威 ( りょうい ) は大八洲 ( おおやしま ) に あまねく満ち溢れようとしていたのに

   惜しんでも余りある、剣身がたちまち自然に折れてしまったのは

   嗚呼、惜しんでも余りある、剣身が忽ち自然に折れ、この英帝が在位わずか四年で去られたとは

 渡部氏の解説は直接頼山陽の詩に入らず、時代の背景を読者に伝えるところから始まります。

 「戦後は、刀剣に対する日本人の情熱もいささか冷えたように思われるが、それまでは大したものだった。武士の魂というので、刀を使う必要のない飛行将校まで、刀を持って愛機に乗り込んだ。」

 「何しろ名剣の話は日本の建国神話とともに古く、草薙剣 ( くさなぎのつるぎ ) は三種の神器の一つになっている。刀剣崇拝は、武家時代になってさらに強化され、名剣にまつわる伝説も多い。」

 「事実であったか否かは別しとて、特別の崇敬心があったからこそ、多くの伝説も生じたのであろう。今回の闋 ( けつ ) も、その剣に関係がある。

 剣の歴史の中で、大和の刀工天国 ( あまくに ) は、画期的な名人だったそうです。彼は天武天皇の御世 ( 697~707 ) 年に活躍し、その作品の中には平家重代の宝刀小烏丸 ( こがらすまる ) や、藤原氏に伝わる壺切剣 ( つぼきりのつるぎ ) などがあると言われています。頼山陽が詠っている剣は、この壺切剣 ( つぼきりのつるぎ ) です。

 スペース節約のため、文章体をやめて項目に分けて紹介します。

 ・壺切剣は、藤原長良 ( ながら ) が長男として受け継いでいたが、これは子の基経 ( もとつね ) に与えられた

 ・基経は父長良の弟良房 ( よしふさ ) に子がなかったので、その養子となった。

 ・この良房・基経親子が、第十二闕の「髫齓 ( ちょうしん ) の天皇」で述べたように、藤原氏の栄華の基礎を築くことになった。

 ・基経は陽成、光孝、宇多三帝の御即位に関与し、「十指三たび結ぶ神璽 ( しんじ ) の綬 ( じゅ ) 」 と言われた。

 ・基経は宇多天皇に、伝統的な名剣である壺切剣 ( つぼきりのつるぎ ) を奉った。

 ・その名剣を宇多天皇は、当時皇太子であった醍醐天皇に、守刀 ( まもりがたな ) として与えられた。

 ・それ以来壺切剣は、皇太子が立てられた時に伝承されることとなった。

 ・三種の神器が皇位の象徴であるとすれば、壺切剣は皇太子の象徴である。

 ところが後三條帝が皇太子となられた時、藤原道長の長男で摂政・関白であった頼通は、皇太子に壺切剣が渡されることに反対したと言います。これ以後は、渡部氏の解説を紹介します。

 「その理由は、皇太子が藤原氏の出でないから、と言うのである。たしかに後三條帝の母は、第六十七代三条天皇の娘の祺子 ( よしこ ) 内親王であって、藤原氏の娘ではない。」

 「と言っても三條帝の母は藤原兼家の娘、つまり道長の妹の超子 ( とおこ ) である。祺子 ( よしこ ) 内親王は、三條帝と道長の娘キヨ子との間に生まれた娘であるから、道長の孫で頼通の姪である。」

 それなのになぜ頼通は、皇太子の後三條帝に壺切剣を渡さなかったのか。一族の原則を通そうとする頼通の思考を、氏が説明します。

 「後三條帝はわれわれの目から見れば、濃厚に藤原氏の血を受け継いでいる。しかしそれはあくまでもわれわれの目から見ての話であって、当時の藤原氏の実権者から見れば、皇太子の母は、藤原氏の実権者 ( 氏の長者 ) の娘でなければならなかった。」

 「そうでなければ、藤原氏の実権者の孫が天皇であるという伝統、つまり天皇の外祖父でなければならないという伝統が崩れると感じられるのだろう。」

 頑迷と見える頼通にも、それなりの理屈があると分かりました。朝廷の伝統を崩すと、藤原一族の支配体制が崩壊すると言う危機感は、女性宮家を作ろうとする反日左翼への危機感に似たものを感じます。しかし、暗殺された安倍総理を含め日本を大切にする多くの国民が守ろうとしているのは、皇室の伝統ですから、頼通と同列に並べては間違います。

 息子たちまで間違うといけませんので、深入りするのを止め、次回も渡部氏の解説を紹介いたします。

コメント (4)
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