〈 第二十二闋 藻璧門 ( さうへきもん ) 平安朝の幕を引いた 「平治の乱」 〉
回を改めスペースに余裕が生まれましたので、省略していた渡辺氏の解説を紹介いたします。
白龍魚腹 ( はくりゅうぎょふく ) して 却って網を脱す
頼山陽の詩の二行目を、氏は次のように説明していました。
「白龍とも言うべき高貴な方 ( 二條帝 ) が平凡な魚に見える服を着たため、返って網に例えられる番兵の目を逃れることができた。」
読者のため丁寧な説明をしていた氏への、詫びの気持ちから、省略部分をそのまま転記します。
「シナの故事に、淵に住む白龍が魚に化けたら、豫且 ( よしょ ) という者にその目を射られたと言うのがある。貴人が下賤の服装を着ると、思わぬ災危にあうことがある・・こう言って伍子胥 ( ごししょ ) が、呉王が民衆に混じって酒を飲もうとするのを諌めたと言う話が残っている。しかし二條帝はその故事とは反対に、魚服して危急を脱した。」
お詫びの追記として、徳岡氏の「大意」より、氏の解説の方が正しいのではないかと思える例を紹介します。それは詩の三行目です。
龍逃るるにその雌 ( し ) を将 ( ひき) い
頼山陽の詩の大意を、徳岡氏は次のように書いていました。
女装して逃れる帝は、龍が雌になったも同然
これを渡辺氏は
龍 ( 帝 ) は逃げる時に雌の龍 ( 中宮 ) も連れて出たのに、
と解説しています。徳岡氏の大意は意味が不明ですが、渡辺氏の解説は辻褄が合います。氏へのお詫びだけでなく、私が漫然と本を読んでいるのではないと、息子たちに伝えたい気もあります。気持ちが晴れたところで、氏の最後の解説を紹介します。
「惟方・経宗の二人は信頼と義朝に逆心の汚名を着せ、功は自分たちで盗んだ。当然のことであるが、後白河上皇は怒った。しかし今や実力行使には、武家を使うより仕方がない。しかも平治の乱で源氏は滅びたも同然であり、残るのは平清盛だけである。」
「それで上皇は清盛に命じて、惟方・経宗の二人を捕らえさせ、それぞれ長門と阿波に流した。一人輝きを増したのは、清盛の威光である。」
強力な武家だった源氏が二匹のまむしのため滅び、そのまむしが島流しになってしまうと同時に後白河上皇の威光も薄れます。なぜなら清盛は、最初に自分を頼って来られた二條天皇を、仁和寺に逃れた上皇より親しく感じ、強く支援したからです。その現れが、次の解説になります。
「しかし惟方・経宗の二人は、一時流されたがまた戻った。特に宗経の如きは左大臣・従一位まで出世し、皇太子傅 ( ふ ) となり、輦車 ( れんしゃ・勅許を得た重臣の乗り物 ) ・牛車 ( ぎっしゃ ) を許される身分にもなった。惟方も許され、その子供たちも順調に出世している。」
後白河上皇の威光が衰え、二條天皇の力が増しているため、こう言う事態が生じます。氏の解説が、それを裏付けます。
「頼山陽はこうしたユニークな史観を、その『日本政紀』に詳述しているが、更にこれに加えるならば、二條天皇と後白河上皇の父子関係の悪さということである。」
「それは結局、保元の乱の元にもなった美福門院に由来する。従って平安朝を終わらせた保元・平治の二乱は、ともに美福門院に由来すると言う、大町桂月のような見方も出てくるわけである。」
これが最後の文章ですから、氏もまた大町桂月の言う美福門院説を採っていることになります。
第二十一闋・朱器臺盤で、氏は後白河帝と二條帝の微妙な関係を次のように説明していました。
・後白河帝は早く妻を亡くされたため、その長男を美福門院 ( 得子・なりこ ) が養育していた
・美福門院 ( 鳥羽上皇の寵愛する女性 ) は、この少年が可愛くてたまらず、この子に皇位が行くことを願うようになった
・このためには、その父が皇位につく必要があり、後白河帝が誕生した
・軽躁 ( 軽はずみで考えが足りない ) で、人気のなかった親王が即位することとなり、これが後白河帝だった
・やがて美福門院の希望通り、彼女の可愛がっていた少年が後白河帝の跡を継ぎ、二條天皇となった
つまり後白河天皇が皇子である二條天皇に譲位された時、それは後白河天皇のご意志でなく、美福門院の意思だったことになります。後白河天皇の母が美福門院でなく、待賢門院だったことを思い出せば、円満な譲位でなかったことがうかがわれます。
保元の乱のきっかけ・・・美福門院が産んだ近衛天皇を即位させるため、崇徳天皇を意に反して退位させた
平治の乱のきっかけ・・・美福門院が可愛がっていた二條天皇を即位させるため、後白河天皇を意に反して退位させた
この部分だけに注目すると、大町桂月説が有力になります。しかし「学びの庭」としての、「ねこ庭」での結論は違います。再度述べますが、宮廷と貴族社会の乱れと歪みを作った大本 ( おおもと ) は、道長の「後宮政策」です。藤原一族の権勢を磐石なものとするため、天皇の外戚としての摂関家を築くという政策でした。
美しい娘たちを天皇の皇后、皇妃、中宮、女御にする政策は、確かに氏長者 ( うじのちょうじゃ ) である藤原氏の地位を確固としたものにしました。けれども世代を重ねるうちに、歪んだ、異常な親子関係や夫婦関係が出来上がり、人心を乱れさせる結果をもたらしました。しかも、その異常さをほとんどの人間が問題視せず、流れに任せていました。
氏の解説を読んでいると、LGBT法をゴリ押した岸田政権の間違いを教えられます。この法律は運用を誤ると、歪んだ異常な親子関係や夫婦関係を作り、人心を乱れさせる結果をもたらします。人間平等の社会であるから、LGBT法を皇室にも適用すべきだと、そんな意見を言う学者・評論家・活動家がいると聞きます。とんでもない話です。
良いことも悪いことも含め、歴史が古代から繋がっていることを忘れないようにしつつ、次回からは本書の「最終闕」の紹介となります。
〈 第二十三闋 烏帽子 ( ゑぼし ) 平清盛が最も恐れた嫡男・重盛 〉