〈 第二十二闋 藻璧門 ( さうへきもん ) 平安朝の幕を引いた 「平治の乱」 〉
今回は源義朝に対峙する信西についての、渡辺氏の解説を紹介します。
「一方源義朝は、一族の多くを失い孤立した状態にあった。保元の乱の時の関係もあって、義朝は自分の娘を信西の息子の是憲 ( これのり ) と結婚させたいと願った。しかし信西は、〈 自分の息子は学生 ( がくしょう ) だから武人の婿にはなれません 〉と断った。その時の断り方が傲慢であったので、義朝は不快に思った。」
鎌倉幕府を開いた源頼朝の父が義朝であったということは知っていましたが、信西との関係は初耳です。氏の解説は、歴史の中の人物を生きた人間として伝えてくれます。
「しかしそれから間もなく信西は、平清盛の娘と息子の成範 ( なりのり ) を結婚させたのである。義朝は怒った。一族を犠牲にし、父まで殺したにもかかわらず、平家より恩賞が少ないので鬱々としていたのに、さらに信西から恥をかかされたのだから当然である。」
一族郎党を率いる武家は、朝廷から得た恩賞を彼らに与えることによって主従の関係を維持します。義朝が恩賞にこだわるのは、金銭を欲しがっているというより、朝廷の評価の低さでした。分かり切っていることなので渡辺氏は説明を省いていますが、息子たちのためには省略できません。しかもその評価を天皇に進言しているのが信西ですから、義朝が怒りを燃やすのは当然です。
「信西に腹を立てている義朝に、信頼 ( のぶより ) は接近した。かくて宮廷人の藤原信頼と、武人の源義朝との連合が出来上がった。二人とも信西に恨みを持つ点で結ばれたのである。」
そうなりますともう一匹のまむしは、藤原信頼だったのでしょうか。( 読み進みながらブログを書いていますので、私は結末を知りません。)
「また信西が、平清盛の娘を息子の嫁にしたことに対して、嫉妬した貴族が二人いた。藤原惟方 ( これかた ) と藤原経宗 ( つねむね ) である。」
分かりやすく紹介すると、次のようになります。
藤原惟方 ・・ 彼の母は、二條帝の乳母 ( うば )
藤原経宗 ・・ 彼は二條帝の生母懿子 ( よしこ ) の兄、つまり二條帝の第一叔父
「二人とも宮廷において二條帝の信任が厚かったから、後白河法皇に近い信西に当然ながら競争心を持っていた。」
不満を持つ貴族の頼信と武家の義朝を中心として、嫉妬に駆られる二人の貴族・惟方と常宗が加わって、クーデーターが起こった。平清盛が熊野に出かけ、都を留守にした時を狙って実行したといいます。
「この日、〈 白虹 ( はっこう ) 日を貫く 〉という天象 ( てんしょう ) があった。これは白色の虹が、日輪の面を突き通すように見える現象であるが、古来白虹は兵を示し、日は君主を示すところから、君主に危害が加わる前兆とされていた。」
第二十二闋で氏は私の知らないことを沢山語りますが、平安時代のことでなく、大正時代の事件まで教えてくれます。
「大正7 ( 1918 ) 年の8月25日、寺内内閣弾劾のための新聞記者大会を報じた『大阪朝日新聞』の中に、〈 白虹 日を貫けり 〉という表現があったため、朝憲紊乱罪 ( ちょうけんびんらんざい ) にあたるとして騒ぎが起こり、新聞は発売禁止となり、さらに執筆者などは新聞紙法違反で起訴され、有罪判決が下り、社長村山龍平は黒龍会員に襲われ辞任するという事件があった。」
「当時の人は漢文や国史の知識があったから、〈 白虹日を貫く 〉という表現で平治の乱を連想し、皇室に危害が及ぶことを願う不吉な言葉として激昂したのである。今なら、こんな表現が出ても何の反応もないであろう。」
本書の出版が平成2年ですから、氏の言う今とは平成のことになります。〈 白虹日を貫く 〉という言葉ばかりか、皇室にさえ無関心な国民が増え、敬意すら払わない人間が今はいます。ブログを書いている私も、保元・平治の乱の中身さえ知らなかったのですから、新聞記事を読まされても何の反応もない気がします。
ここで私は、朝日新聞に対するこれまでの思い込みを訂正しなければなりません。同社は戦前は政府にベッタリの提灯記事を書き、国民を扇動していたのに、敗戦と同時に反政府、反権力になったとばかり思っていました。大正7年に発売禁止処分を受け、社長の村山龍平氏が黒龍会員に襲われたというのなら、同社は一貫して反政府・反権力の新聞だったということになります。
極悪人と言われる人間であるとしても、一本筋が通り、悪人なりの理屈があれば敬意を表したくなります。しかし敬意を表するのはここまでで、息子たちのため大事な説明をしなくてなりません。反政府・反権力と反日は別ものですから、この区別が大事なのです。
・記事の執筆者が〈 白虹日を貫く 〉という言葉を使ったのは、寺内内閣の政策が皇室に害を及ぼす点を警告したのであり、皇室を誹謗しているのではありません
・むしろ記事は皇室擁護の立場から書かれている。
氏の説明を読む限りでは、大正時代の『大阪朝日新聞』は反皇室記事を書いていません。
・反皇室とは、いわれなく皇室を誹謗・中傷・攻撃することです。日本の歴史と伝統と文化を否定することにつながり、感謝すべきご先祖さまを否定し、ひいては生まれ育った自分の国の否定することになりますから、これを「反日」と言います。
従って、敗戦後に「東京裁判史観」の宣伝機関となった朝日新聞と、大正時代の朝日新聞は区別して考えなくてなりません。マルクス主義を信じる政党がイコール「祖国否定」でないことは、隣国中国だけでなく、北朝鮮、かってのソ連、現在のベトナムなどを見れば誰にでも分かります。これらの国の指導者たちはマルクス主義者であると同時に、愛国者です。
何度も述べて来ましたので、息子たちも聞き飽きているのかもしれませんが、せっかく氏が大正時代の話まで持ち出してくれたのですから、日本の「反日・左翼勢力」がいかに世界で特殊な存在であるか、どれほど「奇形な勢力」であるかを今一度確認してもらいたいと思います。
室町時代の解説が突然大正時代に飛びましたが、もしかすると氏も私と同じく、歴史を現在との結びつきで考えている人なのかもしれません。気を強くしたところで、次回はまた室町時代の話に戻ります。