表現が適切かどうか、国の「主人公」は国民である。
主権在民をそのまま解釈すれば、こうなる。だから選挙で議員諸氏が、できもしない公約を国民である我々に訴え、ひどい候補者は土下座までして票を哀願する。
今回の衆議院選挙でも、結果は「国民の意思」、「民意」と呼ばれ、内閣の命運を決した。民主党への決別を宣言し、自民党を復権させた主人公は確かに「国民」だが、ここで浮かれてはいけない。わが日本国に、もう一つの「主人公」が、厳然として存在する事実を忘れてはならない。
明治以来、150余年にわたり構築されてきた世界に冠たる制度、つまり官僚組織だ。私も単細胞な人間だが、官僚組織ついては、民主党の議員たちほど簡単に考えていない。意気込んだ民主党の議員たちは官僚を敵視し、政権から排除しようと身構えたができない相談だった。
「官僚に任せず、政治主導で日本を変える」「官僚支配を、打破する」と、大見得を切って国民を喜ばせたのに、政権を取った途端主導権を奪われ、簡単な国会答弁すら、彼らの助け無しに対応できなかったという現実を見せてくれた。
官僚組織に対する私の思いは、信頼と不信感、尊敬と憎しみ、賞賛と侮蔑だ。とてもひと言では尽くせない。歴史的に見れば、彼らは「富国強兵」「殖産興業」を実現し、欧米列強の侵略から国を守り、第二次大戦後は国を再建し、日本を世界第二の経済大国にまで発展させた。
だが一方で所属する省庁のため、持ち前の才を駆使し、自分たちだけの利益共同体を育てる策も弄した。官僚は政治家を利用し、政治家は官僚を使い、国民を忘れ、互いに利益の配分をしてきたは許しがたい事実だ。
敗戦による米国統治で一般庶民が俄に「国の主人公」となり、役人は欧米式に「公僕」と言われるようになったが、建前だけで社会には根付いていない。明治以来日本は「官尊民卑」だったのだから、「お役人」の方が、庶民より数段偉かった。
マスコミが国民が主人公のように報道するが、ここにまやかしがあると最近考えるようになった。
オランダの新聞記者カレル・オルフレンが、日本は民主主義の国でなく官僚とマスコミが支配する国家だと書いていたが、彼が言うのはこのことだったかとうなづく。
事業の許認可権を持つ省庁に、企業が逆らえるはずがなく、マスコミも例外でない。監督官庁が総務省か文部科学省か知らないが、新聞もテレビも官僚組織の内情を赤裸に書ける訳がない。
石原慎太郎氏が「官僚支配を打ち破る」と、民主党みたいなことを言い息巻いているが、明治以来の大組織の中の官僚から見れば、たかが運輸大臣で、都知事をしただけの人間にすぎないと、歯牙にもかけていないのではなかろうか。
私からみれば、石原氏は雲の上の存在の人だが、150余年の伝統組織の官僚にすれば、やはり「たかだか」なのだろうと思う。官庁には第一級の人材が集まり、優れた頭脳が切磋琢磨している。その彼らに、凡庸な議員は太刀打ちできない。本気で官僚制度に立ち向かうのだとしたら、政治家は官僚以上に勉強をしなくては、バカにされるだけで終わる。
戦後総理大臣になった官僚の名前を挙げてみると、吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳、中曽根康弘、宮澤喜一という顔が並んでいる。多くの国民は、彼らを政治家とは理解していても、官僚という視点からは眺めていなかったと思う。だが一度こうした観点から政界を眺めてみると、また違った世界が見えてくる。
彼らは政策遂行に際し官僚組織を活用し、更に強化したに違いない。9人の総理の内4人が財務省出身者だから、財務官僚が省庁の中の省庁と言われる所以も分かる気がする。
残念ながら、こうした観点から問題提起した政治家を、私はまだ見かけたことがない。私の慎ましい願いは、国民が主人公になる社会づくりを政治家たちに、本気で取り組んで欲しいということだ。取り組む力がないのだとしたら、せめて官僚組織がするいい加減さを、国民に知らせる努力だけでもしてくれないものか。
定年後になり、にわかに本を読むようになった劣等生みたいな自分なので、偉そうなことは言えない。だからこうして結局は、「みみずの戯言」になる。
12月21日、こうして今年が暮れようとしている。無念と言えば無念。