ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『 最後のご奉公』 - 13 ( マッカーサー元帥の回想記 )

2021-08-20 15:15:02 | 徒然の記

 2. 幣原元首相との会見の回想 ( 164ページ )

  「幣原男爵は、昭和21年1月24日の正午に、私の事務所を訪れた。」「それは丁度、松本博士の憲法問題調査委員会が、」「憲法改正案の起草に、取り掛かろうとしている時だった。」

 幣原氏は、元帥にもらったペニシリンの礼を言った後、しばらく躊躇っていました。英語に堪能な氏には、通訳がいらないので、元帥と二人きりです。

 「私は男爵に、何を気にしているかと尋ね、」「苦情であれ、何かの提議であれ、」「首相として意見を述べるのに、遠慮する必要はないと言ってやった。」

 「首相は、私の軍人という職業のため、どうもそうしにくいと答えたが、」「私は軍人だって、時折言われるほど勘が鈍く頑固なのでなく、」「心底はやはり人間なのだと、述べた。」

 次が、問題となっている、幣原氏の「戦争放棄の提案」に関する叙述です。

 「首相はそこで、新憲法を上げる際に、いわゆる "戦争放棄" 条項を設け、」「その条項では、日本は一切の軍事機構を持たないことを決めたい、」「と提案した。」「そうすれば、旧軍部がいつの日か、再び権力を握るような手段を、」「未然に打ち消すこととなり、」「また日本は、再び戦争を起こす意思は絶対ないことを、」「世界に納得させるという、二重の目的が達せられる、」「というのが、幣原氏の説明だった。」

 「私は腰が抜けるほど驚いた。」「長い年月の経験で、私は人を驚かせたり、異常に興奮させたりする事柄に、」「ほとんど不感症になっていたが、この時ばかりは、息も止まらんばかりだった。」

 私は既に、二度も本を読んでいましたが、この部分の重要性を知らなかったため、読み流していました。塩田氏の著作を読まなくても、幣原氏の「戦争放棄」提案は記憶しているべきでした。

  「原子爆弾の完成で、戦争を嫌悪する私の気持ちは、最高度に高まっていた。」「戦争を国際紛争の手段とするのは、時代遅れのものとなり、」「全廃することは、私が長年情熱を傾けてきた夢だった。」

 「私がそう言った趣旨のことを語ると、今度は幣原氏がびっくりした。」「氏はよほど驚いたらしく、私の事務所を出るとき、」「感極まった表情で、顔を涙でくしゃくしゃにしながら、」「私の方を向いて言った。」

 「世界は私たちを、非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。」「しかし百年後に、私たちは預言者と呼ばれますよ。」

 文章はもう少し続きますが、肝心の部分は以上です。果たしてこの叙述を読んで、「戦争放棄」を幣原氏が元帥に提案したと、断定できるものなのか。回想記の出版は、幣原氏の死後ですが、元帥は二人の会話について、折に触れ側近たちに話していました。いわば、幣原氏が戦争放棄説を提起したと語っていたのは、元帥自身でした。

 幣原氏への疑問が語られた時、何回目かのブログで、「『マッカーサー回想記』を思い出す」と言ったのは、このことを指します。大胆な意見ですが、「陛下のお言葉」と「幣原氏の戦争放棄提案説」の二つは、元帥の「作りごと」ではなかったかという推測です。

 全くの嘘や捏造でなく、事実としてあったことに、元帥が脚色し周辺に語った・・根拠のない推測で無く、元帥にはそれをする正当な理由がありました。これまでの読書で得た教えの中から、思いつくままに列挙します。

 ・GHQの統治で日本を改革し、成功させることが元帥にとって最大の使命だった。

 ・改革の成功は、同時に米国の成功であり、歴史的偉業でもあった。

 ・改革を成功させる鍵は、天皇陛下のご協力だった。陛下を尊敬し、賞賛していることを世間に知らせるのは、元帥の政策でもあった。

 ・戦勝国が、占領国の現行法を変更することは、ハーグ条約に違反していることを元帥は知っていた。

  ・日本の憲法を改正したのは、あくまでも日本側の自主性だったと、元帥にはその虚構が必要だった。

 ・幣原氏との「戦争放棄談話」は、元帥には渡りに船の材料だった。

 日本において当時の元帥は、陛下の上に君臨する絶対の権力者でした。彼の言葉や行為について、異論を挟む者は、誰もいません。陛下との面談には通訳がいましたが、実質的には二人の会談であり、幣原氏との対話は文字通り二人だけでした。元帥が多少違ったことを語っても、事実を確認できるのは、当事者しかいません。

 「マッカーサーとの約束だから」と、記者の質問に答えられなかった陛下と、金森大臣の質問に対し、「それについてお話しするのは、時期尚早です。」と応じた幣原氏の様子に、私は共通するものを感じ取ります。

 つまり二つの話は、事実無根の嘘でありませんが、「いずれも元帥の、作りごとだった。」・・という推測です。   

 その根拠として、塩田氏が引用している吉田元総理の言葉を紹介します。

 「戦争放棄の条項を、誰が言い出したかということについて、」「幣原総理だという説がある。」「マッカーサー元帥が米国へ帰ったのち、米国の議会で、」「そういう証言をしたということも、伝えられておって、」「私もそのことを質ねられるが、私の感じでは、」「あれはやはり、マッカーサー元帥が先に言い出したことのように思う。」

 「もちろん、総理と元帥の会談の際、そういう話が出て、」「二人が大いに意気投合したということは、あったろうと思う。」

 また塩田氏は、571ページで、マッカーサー元帥が解任された後、幣原氏が総司令部を訪ねた折、ハッシー大佐からこの話を持ち出された時、口にした言葉も紹介しています。

 「元帥が、憲法第九条の発案者が私であると述べたことについては、」「正直に言って、迷惑している。」

 同じ資料を扱っていても、執筆者の姿勢によって異なる事実が語られると、ここでも私は言いたくなります。

 「戦争放棄の発案者は、マッカーサーか幣原か、という疑問は最後まで解けなかった。」「それは日本国憲法をめぐる、最大の謎として残されたのである。」

 これだけの資料を集め、検討しながら、氏はこんな結論しか述べません。私に言わせれば、氏の思考回路こそが、「最大の謎」です。

 次回は、「東京裁判」に関する米国人の意見と、「再軍備」に関する昭和天皇のお言葉を紹介し、このシリーズのまとめといたします。

 おつき合い頂き、「ねこ庭」をご訪問された方々に、感謝します。

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『 最後のご奉公』 - 12 ( マッカーサー元帥の回想記 )

2021-08-20 07:16:28 | 徒然の記

 津島一夫氏著『マッカーサー回想記』( 昭和39年刊 朝日新聞社 ) (  上下2巻  )

 学生時代に買った本で、過去2回読んでいます。今は断捨離のため、読後の本をほとんど学校の有価物回収の日に、「資源ごみ」として出しています。捨てられない何冊かの本を、本棚に残していますが、『マッカーサー回想記』もその内に含まれています。

 塩田氏が参考文献として、『マッカーサー回想記』を上げていました。元帥の生い立ちから、トルーマン大統領に解任され、日本を去るまでの人生が、回想という形で綴られています。控えめな語り口ですが、格調のある文章なので、時を忘れて読まされます。高名な軍人であると同時に、中々の文筆家でもあるようです。

 上下二巻を机に置き、私は二つのことを思い浮かべています。

 1. 昭和天皇のこと

  テレビだったと思いますが、何時のことであったか、思い出せません。記者会見の席で、マッカーサーとの会談の内容を尋ねられた陛下が、「マッカーサーとの約束だから。」と、お答えにならなかった姿が、おぼろな記憶として残っています。

 2. 幣原元首相のこと  ・・塩田氏の著書より

 昭和25年9月、金森憲法問題担当大臣の質問に対する答える幣原氏の様子です。 

  幣原・・「それについてお話しするのは、時期尚早です。」

  幣原氏は何も語らず、半年後に他界しています。

 陛下のことも幣原氏のことも、『マッカーサー回想記』の中に書かれていますが、、塩田氏は陛下との会見部分を省略しています。『 最後のご奉公』に無関係なものとして、省略したのだろうと思いますが、私はこの部分を重要視します。本論に入る前に、手元の『マッカーサー回想記』から、2つの該当箇所を転記します。

 1. 昭和天皇との会見の回想  ( 142ページ )
  「私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、」「自分の立場を訴えるのではないか、という不安を感じていた。」
  
 「連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪人に含めろとという声が、」「かなり高く上がっていた、」「ワシントンが、英国の見解に傾きそうになった時、」「もしそんなことをすれば、百万の将兵が必要になると、私は警告した。」
 
 「絞首刑に処せられることにでもなれば、軍政を敷かなければならなくなり、」「ゲリラ戦が始まることは、まず間違いないと見ていた。」「結局天皇の名は、リストから外されたのだが、」「こういう経緯を、天皇は少しも知っていなかったのである。」
 
 天皇が国民統合の中心であることを、元帥が理解している証明になる叙述です。日本統治を成功させるためには、天皇の力を借りずにはできないという認識でもあります。
 
 「しかし私の不安は、根拠のないものだった。」「天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。」
 
 次の叙述が有名な元帥の話で、多くの人に知られている陛下のお言葉でもあります。
 
 「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治・軍事両面で行った、」「全ての決定と行動に関する、全責任を負うものとして、」「私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした。」
 
 次の叙述もまた、多くの人に知られる感動の一節だろうと思います。
 
 「私は、大きな感動に揺すぶられた。」「死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、」「天皇に帰すべきでない責任を受けようとする、この勇気に満ちた態度は、」「私の骨の髄までも、揺り動かした。」
 
 「私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、」「日本の最上の紳士であることを、感じ取ったのである。」
 
 学生時代にこの文を読んだ時、初めて昭和天皇を意識しました。自分と無縁な「金持ちの老人」としか思っていなかった自分が、陛下ご存在の意味を教えられた本でした。
 
スペースが無くなりましたので、幣原氏との会見部分は、次回といたします。
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『 最後のご奉公』 - 11 ( 幣原元首相の実像 )

2021-08-19 13:13:22 | 徒然の記

 「日本は戦争に勝って、外交に負けたのだ。」「こんなことではいけない。」「国運を打開するため、俺は外交官になるぞ。」

 日清戦争の時大学生だった氏は、ロシア、フランス、ドイツによる三国干渉を目の当たりにして、固く決心しました。その氏が、どうして国運を傾ける「日本国憲法の生みの親」と言われるのか。塩田氏の著作に惹かされた理由の一つは、その疑問を解くことでした。幣原氏は何を考え、何を志向した政治家だったのか・・

 読み終えてみると、答えがありませんでした。幣原氏に関する資料を時系列に並べ、その折々の意見を紹介していますが、塩田氏自身が捉えた人物像は、語られていません。

 ・昭和20年10月 組閣の大命を受けた時、木戸内府への意見

  「憲法改正ですか。それは全く必要ないと思います。」「今の憲法も、元々は相当、自由主義的、民主主義的な要素を持っています。」「にもかかわらず、誤って運用されたため、このような結果となった。」「改正よりも、本来の姿に戻すことが大切です。」

 ・昭和25年9月 読売新聞に掲載した『回想記』

  「戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならないと言うのは、」「他の人は知らないが、私に関する限り、信念からであった。」

  「よくアメリカの人がやってきて、今度の新憲法は、日本人の意思に反して、」「総司令部から迫られたんじゃありませんか、と聞かれるが、」「私に関する限り、そうではない。」「決して、誰からも強いられたのではないのである。」

 ・昭和25年9月 金森徳次郎憲法問題担当大臣の質問に対する答え

  金森・・「最近アメリカで、総司令部の報告書が発表され、」「随分と機微にわたることが書かれていると、聞きます。」「日本側でも正確な記録を作らなければと、考えていますが、」「そうなると、あなたご自身しか知らないことも多い。」「この際、是非ともお話を伺っておきたいのですが。」

  幣原・・「それについてお話しするのは、時期尚早です。」

     (  幣原氏は何も語らず、半年後に他界した。)

 ・幣原氏の死後、氏の長男で、獨協大学名誉教授道太郎氏の意見

   「戦争放棄条項は、マッカーサーが発案して、」「日本に押し付けてきたものだ。」「父の真意は、友人である紫垣隆氏の論考『大凡荘夜話』の中で語られている。」

 ・紫垣隆氏の論考『大凡荘夜話』( 幣原喜重郎は売国奴にあらず ) から抜粋

  「幣原の遺書は、韓信が股を潜った以上の屈辱を偲んで、」「心にもないことを書いたもので、日本人としての幣原の精神を表したものでなく、」「占領軍の猜疑と弾圧の矛先を鈍らせるため、あえて筆を取ったのだと、」「昭和26年の初期、自分に告白した。」

 「今度の憲法改正も、陛下の詔勅にあるごとく、」「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、他日の再起を期して屈辱に甘んずるわけだ。」「これこそ敗者の悲しみというものだと、しみじみ語り、」「この憲法は、永久不変のものでは決してない。」

 「ポツダム宣言を忠実に履行し、日本が独立回復後、」「アメリカ側も、占領政治の過ちや行き過ぎを、」「後悔する日が来るだろうと、述べている。」

 私は原則を貫く氏の人柄と、三国干渉から始まる一連の流れからして、友人の紫垣氏に語った言葉が、幣原氏の本意だと考えます。けれども塩田氏は、やはり曖昧な結論にしてしまいます。

 「戦争放棄の発案者は、マッカーサーか幣原か、という疑問は最後まで解けなかった。」「それは日本国憲法をめぐる、最大の謎として残されたのである。」

 塩田氏の執筆姿勢に疑問を持ち、愛国心の薄さに疑問を持つ私を、息子たちと、「ねこ庭」を訪問される方々は、どのように受け止められるでしょうか。

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『 最後のご奉公』 -10 ( 国を裏切った変節学者 )

2021-08-18 16:50:16 | 徒然の記

 令和3年8月9日月曜日は、オリンピック閉幕の日でした。この日の千葉日報に共同通信社が、国民の怒りを誘うニュースを二つ配信しました。中国と韓国に関する報道です。

 1. 中国関連の記事の見出し・・「尖閣侵入の再発防止要求」「日本、中国船の漁期前に」

 2. 韓国関連の記事の見出し・・「IOC 旭日旗を禁止」「韓国五輪委員会と協議」

 尖閣諸島は日本の領土であるにもかかわらず、中国は日本の実効支配を妨害し、最近は自国の領土だと主張し始めました。日本の抗議を無視し、連日武装した大型公船が、領海侵犯を繰り返しています。漁期には豊富な漁場を狙い、三百隻以上の中国漁船が大挙して押しかけ、海上保安庁は為されるがままです。

 中国が決めた禁漁期が間も無く開けるため、政府が、再発防止を中国に求めたという記事です。これに対し中国は、

 「日本は、尖閣周辺に、日本漁船を入らせないようにすべきだ。」

 ・・と回答しています。日本の領土であるにもかかわらず、武力行使のできない自衛隊はなすすべもなく待機し、政治家は「遺憾」「遺憾」と、語るのみで時間だけが経過しています。

 これが 1.  番目の記事で、2. 番目の記事は、IOCが、韓国オリンピック委員会の要求を聞き入れ、オリンピックに関し「旭日旗」の使用を禁止したというものです。宮沢教授は個人として変節し、恥も捨て意見を変えましたが、韓国は政府として、国全体として恥を捨て変節します。

 旭日旗だけでなく、慰安婦問題、徴用工問題、軍艦島の強制労働などと、捏造の話で難癖をつけます。先の大戦では、日本軍の一員として連合国と戦いながら、韓国は戦勝国の仲間だと主張しています。強国に挟まれた弱い国の生き方なのでしょうが、昔から清国に従い、ロシアに膝を曲げ、アメリカの機嫌を取り生きてきました。

 列強の仲間入りをしていた頃の日本にも、従っていましたが、敗戦と同時に態度を変え、無力だと分かると、居丈高になりました。中国に似た言いがかりをつけるようになり、今回の記事もその流れにあります。

 彼らは、日の丸と同様旭日旗を、侵略と軍国主義の象徴だと非難し、ことあるごとに難癖をつけます。旭日旗は海上自衛隊では、国旗と共に掲げられる「自衛艦旗」で、陸上自衛隊も戦車や他の車両に「車旗」として公式に使っています。

 何を血迷っているのか、オリンピックの最中に横車を押し、IOCの決定をもぎとりました。これについて政府や政治家が何と言っているのか、記事には何も書かれていません。

 政治家たちは、国を守る気概を失い、「愛国」と言う言葉さえ忌避し、ならず者のような中国、韓国・北朝鮮に反論をしません。自民党の不甲斐なさに加え、野党は全て反日で、敵対する中国、韓国・北朝鮮に同調しています。

 「日本だけが間違った戦争をした。」「日本だけが、他国を侵略した悪い国だった。」と、東京裁判の結果を受け入れているため、こうなっています。マッカーサーは、この思考を「日本国憲法」の中に具体化し、日本人の愛国心を崩壊させました。

 その悪法である「日本国憲法」を、GHQに協力し、成文化したのが宮沢氏です。世間では著名な学者として語られていますが、氏は間違いなく「獅子身中の虫」であり「駆除すべき害虫」です。息子たちだけでなく、「ねこ庭」を訪れる方々にも、怒りを込めてお伝えします。

 塩田氏がどんな大作を著しても、膨大な資料を調べたとしても、こうした事実に触れないのでは、何の役にも立ちません。こんな塩田氏を講師として招き、憲法講座を開くのですから、自民党の議員も、国民のため何の役にも立ちません。

 暑さのせいもあるのか、怒りは止まるところを知りませんが、ちょうどスペースがなくなりました。一休みして、頭を冷やします。

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『 最後のご奉公』 -9 ( 意外な発見 )

2021-08-18 11:43:08 | 徒然の記

 『 (宰相 幣原喜重郎)   最後のご奉公 』を、読み終えました。塩田氏の書評に傾注していますと、何のために本を読み出したのか、読書予定を忘れてしまいそうです。

 1.  塩田潮氏著『宰相 幣原喜重郎   最後のご奉公』( 平成4年刊  文芸春秋社 )

    2.  芦部信喜氏著『憲法・新版』( 平成11年刊  岩波書店 ) 

 元々のきっかけは、8月2日の千葉日報に、共同通信社が配信した記事でした。

 「戦後日本を代表する憲法学の権威で、多くの大学で教科書として使われる、」「『憲法』(岩波書店) の著者、故芦部信喜東大名誉教授が、日本国憲法発布直後の1946年11月15日、」「23才で書いた論考の存在が、今年6月明らかになった。」

 芦部教授は、「現行憲法」を信奉する学者です。憲法改正が語られている今、共同通信社はなぜこのような記事を全国に配信するのか。疑問を抱いた私は、読書予定を変更し、たまたま本棚にあった上記二冊を手に取ったという経緯でした。

 塩田氏の著書の452ページにある次の叙述に、注目しました。

 「商法の大家として知られる松本烝治は、昭和20年10月、幣原の組閣本部に呼ばれた時、憲法問題を担当ということになった。」

 「松本は入閣すると、閣内に憲法問題調査委員会を設置させ、自ら委員長を引き受けた。」「別名松本委員会と呼ばれたこの会は、憲法学の最高権威と言われる、」「美濃部達吉ら三人を顧問に据え、東大の宮沢俊義ら12人の委員を擁して発足した。」

 組織は極秘とされ、メンバーの名前も同様の扱いでした。この時私は、「変節した学者たち」というタイトルで書いた、自分のブログを思い出しました。

 政府が憲法改定の検討を開始し、GHQも改定の意向があるとされる中で、昭和21年に東大総長の南原繁氏が、学内に「憲法研究委員会」を創設しました。左翼系の教授を集め、連合国軍の動きに合わせ、憲法改定案を作るという目的でした。南原氏は研究会の委員長に、当時一流の憲法学者と言われていた宮沢俊義氏を当てました。

 メンバーの一人だった、我妻氏の回顧談があります。

 「多数のすぐれた学者を持つ、東京帝国大学としても、」「これについて、貢献する責務があると考えられたからであろう。」「発案者は南原総長であったが、学内にそうした気運がみなぎっていたことも、確かであった。」

 これまで何度か紹介していますが、再度「憲法研究委員会」のメンバーを転記します。

 委 員 長 宮沢俊義(法学部)

 特別委員 高木八尺(法学部)  杉村章三郎      岡 義武  末弘厳太郎

      和辻哲郎(文学部)  舞出長五郎(経済学部)

 委  員 我妻 栄(法学部)  横田喜三郎      神川彦松  尾高朝雄

      田中二郎      刑部 荘       戸田貞三(文学部) 

      板沢武雄      大内兵衛(経済学部)  矢内原忠男

      大河内一男    丸山真男(法学部助教授) 金子武蔵(文学部助教授)  

 つまり宮沢氏は、政府の極秘組織である「憲法問題調査委員会」の委員と、兼務していたことになります。氏は当初、松本国務大臣と同じ考えをしていました。

  ・ 大日本帝国憲法の部分的改正で、ポツダム宣言に十分対応可能だ。憲法改正の必要なし。

  ・ 日本国憲法は、日本国民が自発的自主的に行ったものではなく、押しつけ憲法だ。

 氏の変節の理由について、駒澤大学名誉教授の西修氏が次のように述べていました。

  ・「東京帝大教授で憲法の権威であった宮沢には、GHQから相当の圧力があったであろう。」 

 西教授は、変節の経緯を語っていました。

  ・「当初は、大日本帝国憲法の講義の際、憲法第一条から第三条まで、これは伝説です。」「講義の対象になりません。省きます、として、進歩的立場を示していた。」

  ・「美濃部達吉の天皇機関説が批判されると、岩波書店から出した「憲法略説」で、主張を一変した。」

  ・「皇孫降臨の神勅以来、天照大御神の新孫この国に君臨し給ひ、」「長へに、わが国土および人民を統治し給ふべきことの原理が、確立した。」「現人神として、これを統治し給ふとする、民族的信念の、法律的表現である。」

  ・「神皇正統記の著者が、『大日本は神国なり』と書いた所以も、ここに存すると、」「その主張は、神権主義に変化した。」

  ・「敗戦後、松本烝治憲法大臣と美濃部教授とともに、助手として帝国憲法改正作業に従事していた時、」「外務省に対して、憲法草案について、新憲法は必要なしとアドバイスしていた。」

  ・「占領軍が、松本大臣を嫌っていることを知ると、氏は彼らを裏切った。」「ここで占領軍に取り入れば自分は神のごとき権威になれると判断した。」「GHQは権力を振りかざすことはできても、細かな国際法や憲法学の議論ができなかったからだ。」

  ・「占領国による、被占領国の憲法改正が、国際法違反であるということを、GHQも認識していた。」「本来は無効である、日本国憲法の正当化理論を、宮沢氏はひねり出した。」

  ・「その詭弁が、" 8月革命説 "だ。」「つまり、昭和20年8月15日に、日本では革命が起きていた。  」「日本は天皇主権の君主国から、まったく別の国民主権の共和国になった。」「すなわち、昭和天皇が、共和国の初代天皇になる。」

 昭和革命説について、私は一度も聞いたことがありませんでした。宮沢氏がこんな説を主張したとすれば、ペテン師の話に聞こえますが、同様の情報がネット上にありますので、あながち西氏の作り話とも思えません。

 氏は、昭和42年の著書『憲法講話』(岩波新書)で、「天皇はただの公務員だ」と述べています。死去する年の昭和51年の著書『全訂日本国憲法』(日本評論社)では、「天皇は、なんらの実質的な権力をもたず、ただ内閣の指示にしたがって、機械的に『めくら判』をおすだけのロボット的存在。」と解説しています。

 書評を外れますが、宮沢俊義氏については、この際きちんと説明しておかねばなりませんので、次回も続けます。
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『 最後のご奉公』 - 8 ( 理解の限界 )

2021-08-17 11:36:43 | 徒然の記

 「ねこ庭」を訪問される方から、自民党が発信している、「まなびと夜間塾」の動画を紹介されました。塩田氏が講師として、出演しているということで、ネットで検索しますと、次のように説明がありました。

 「【まなびとプロジェクト】とは、自民党の中央政治大学院が、」「従来から開催してきた、会員制勉強会【まなびとスコラ】を、」「【憲法に学ぶ『この国のかたち』」】と題して行う、新講座の勉強会です。」「併せて、インターネット配信をすることで、憲法改正への理解をさらに深めます。」

 学院長は元防衛大臣の中谷元氏で、議員や評論家や作家が講師として招かれています。実は、第1 回目の中谷学院長の講義を、私は聞いていました。氏の「憲法講話」の粗雑さとレベルの低さに、こんな動画の配信で、果たして国民の理解が得られるのかと失望し、以後は聞いていませんでした。

 残念ながら塩田氏の講義も、似た印象を受けました。歴史の資料を丹念に調べ、検討しても、扱う人間の器量次第で、さまざまな受け止め方になるのだと、氏が教えてくれました。器量の差がどこから生じるのか、よく分かりませんが、狭い了見の人間は狭い理解しかできないようです。

 捻ねた人間は捻くれた解釈をし、心根の卑しい者はそれなりの理解をし、理解の限界があるような気がします。自分のことは分りませんので、息子や「ねこ庭」を訪ねられる方々にお任せすることにし、その上で述べますと、氏の著作は、資料をもとにした大作ですが、器量を反映したそれなりの内容しかないようです。

 具体的に述べるとスペースが足りませんので、結論だけにしますと、氏は昭和天皇と近衛文麿公を、次のように描いています。

 〈 昭和天皇 〉

   ・ 陛下は、憲法改正に踏み込み、新憲法の中に天皇制を明記することにより、事態を乗り切ることが賢明な方策と考えておられた。

   ・ 陛下は、憲法改正を近衛公に任せるしかないと考えておられた。

   ・ 一方で陛下は、政府の憲法改正の成り行きについて、並々ならぬ関心を寄せられていた。

   ・ 陛下は、海外で言われているような狂信的な独裁者ではないと、叫びたい気持ちを抑えておられた。

 〈 近衛文麿公 〉

   ・ マッカーサー元帥との会談で、憲法改正を任せられたと誤解し、有頂天になっていた。

   ・ 近衛公は木戸内大臣のもとで、政府と無関係に憲法改正作業を進めることに、得意満面であった。

   ・ 本来なら戦争責任を追求されるべき人物が、「マッカーサーからのお墨付きを得た」と誤解し、憲法改正作業の先頭に立った。

 膨大な資料の中から何を選ぶのかは、著者の自由です。「温故知新の読書」から、私が教わった昭和天皇と近衛公は、氏の描く姿とは異なっています。同じ歴史の事実を調べ、検討しても、取り扱う人間の器量次第で、さまざまな受け止め方がされる、と言ったのはこのことです。

 GHQによる処刑を恐れ、逮捕を心配されるという姿で、氏は陛下を描写し、身の程知らずな愚かな人間として、近衛公を語っています。これは全て私の知識と経験を裏切る、浅ましい塩田論でしかありません。私も他人から見ればそうなのでしょうが、氏もまた、自分の器量に合わせた理解しかできていないようです。タイトルにつけた「理解の限界」とは、このことを指しています。

 巣鴨刑務所へ出頭する前夜、近衛公は、自分の心境を記しておこうと決意し、次男の通隆氏に、書き終えたものを渡しました。その後、家人が寝静まった深夜、というより、早朝に青酸カリを服用し、自決します。いわば、このメモが氏の遺言であり、富田氏が全文を掲載していました。
 
 「僕は事変以来、多くの政治上の過誤を犯した。」「これに対して深く責任を感じているが、いわゆる戦争犯罪人として、」「米国の法廷において、裁判を受けることは、たえ難いことである。」
 
 「ことに僕は、支那事変に責任を感ずればこそ、この事変解決を最大の使命とした。」「そしてこの解決の唯一の途は、米国との了解にあるとの結論に達し、」「日米交渉に全力を尽くしたのである。」「その米国から、犯罪人として指名を受けることは、」「誠に残念に思う。」
 
 弁明をしていますが、醜い自己弁護ではありません。陸軍の力を背にした東條陸相、ソ連とドイツを信頼し米国を嫌悪した松岡外相など、公の行く手を阻んだ閣内の勢力に対する批判もしていません。私がもし公を評するとすれば、「決断する胆力の欠如」ではなかったかと思います。さまざまなことを理解する聡明な公は、時に評論家のように批判するけれど、実行案を即決する胆力がありませんでした。それにしましても、塩田氏の描く公は、醜いほどの浅ましい理解です。
 
 「しかし僕の志は、知る人ぞ知る。僕は米国においてさえ、そこに多少の知己が存することを確信する。」
 
 続く叙述は、全てを覚悟した氏の遺言で、私たち国民に遺された、ご先祖さまの言葉でもあります。同じ資料の山から私は別の資料を取り上げ、塩田氏と違った解釈をし、彼を無視します。
 
「戦争に伴う昂奮と、激情と、」「勝てる者の行き過ぎた増長と、」「敗れた者の過度の卑屈と、」「故意の中傷と、誤解に基づく流言飛語と、」「これら一切の世論なるものも、いつかは冷静さを取り戻し、」「正常に復する時も来よう。」「その時初めて、神の法廷において、正義の判決が下されよう。」
 
 東條元総理も松岡元外相も、共に日本のために尽くした政治家であり、欠点があったとしても、戦争犯罪人ではありません。「東京裁判」は、あくまでも連合国軍による復讐裁判であり、今日の私たちには、その証拠資料が沢山示されています。
 
 自分の狭い理解で憲法を語る氏を、なぜか自民党は講師に招いています。中谷学院長を含め、この動画シリーズを企画・実行している自民党の議員諸氏は、本気で「憲法改正」に取り組んでいるつもりなのでしょうか。塩田氏のことも含め、疑問が深まります。
 
 「自民党は、本当に国を大切にする保守政党なのだろうか ? 」
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『 最後のご奉公』 - 7 ( 著者の執筆姿勢の比較 )

2021-08-16 13:57:17 | 徒然の記

 ポツダム宣言が発せられても、政府の決定が定まらない昭和20年の8月6日、広島に原爆が投下されました。2日後に、ソ連が日本に宣戦を布告し、大軍が国境を超えて満州へ雪崩れ込みました。

 「これでソ連を仲介役とし、米・英と和平交渉を進めるという日本の構想も、水疱に帰した。」「8月9日、長崎に原爆第二号が投下された。」「二つの原爆とソ連の参戦で、日本の息の根は完全に止まった。」

 沢山の本で、同様の叙述を読みましたが、何度読んでも苦渋の文でした。今回も同じです。

 「宮中の御文庫の地下壕で、会議が何度も開かれたが、結論が出ない。」「8月14日に、これまでと異なる閣僚全員と、戦争指導者最高会議が合同で開かれる、御前会議となった。」「抜き打ちの招集によるもので、何もかも異例ずくめだった。」

 会議が始まって1時間が経過しても、結論が出なかった時、23人の出席者を前に、昭和天皇が発言されました。陛下のお言葉を、塩田氏が紹介しています。

 「ほかに別段意見の発言がなければ、私の考えを述べる。」「反対論の意見は、それぞれよく聞いたが、」「私の考えはこの前申したことと、変わりはない。」「私は世界の現状と、国内の事情とをよく検討した結果、」「これ以上戦争を続けることは、無理だと考える。」

 「国体問題について、色々疑義があるとのことであるが、」「私はこの回答の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。」「先方の態度に、一抹の不安があると言うのも、」「一応もっともだが、私はそう疑いたくない。」「要はわが国民全体の信念と、覚悟の問題であると思うから、」「この際、申し入れを受諾しても良いと考える。」「どうか皆も、そう考えてもらいたい。」

 私が以前に読んだ、富田健治氏の著『敗戦日本の内側』では、最後に陛下が口を開かれた情景を、高木惣吉氏の『終戦覚書』から引用し、次のように紹介していました。

「ポツダム宣言につき、天皇統治権に対し、」「疑問があるように解する向きもあるが、」「私はあれでよろしいと思う。」「私の決心は、私自らの、熟慮検討の結果であって、」「他から知恵をつけられたものでない。」
 
 長くなりますが、同じ資料を参照していても、作者の姿勢如何で、違った内容になる実例として、愛する息子たちと、訪問される方々のため、割愛せずに転記いたします。
 
「皇土と国民がある限り、将来の国家生成の根幹は十分であるが、」「この上望みのない戦争を続けるのは、」「全部を失う惧れが多い。」「股肱と頼んだ軍人から、武器を取り上げ、」「私の信頼したものを、戦争犯罪人として差し出すことは、」「情においてまことに忍びない。」「幾多の戦死者、傷病者、遺家族、戦災国民の身の上を思えば、」「これからの苦労も偲ばれ、同情に耐えない。」
 
 「三国干渉の時の、明治大帝のご決断に習い、」「かく決心したのである。」「陸軍の武装解除の苦衷は、十分分かる。」「事ここに至っては、国家を救う道は、」「ただこれしかないと考えるから、」「堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、」「この決心をしたのである。」
 
 「今まで何も聞いていない、国民が、」「突然この決定を聞いたら、さぞかし動揺するであろうから、」「詔勅でも何でも、用意してもらいたい。」「あらゆる手を尽くす。」「ラジオ放送もやる。」
 
 陛下は純白の手袋をはめられた手で、メガネを拭われ、頬に伝う涙を拭われたと言います。陛下のお言葉を、どちらの著作が正しく伝えているのか、本当のところは分かりませんが、伝わってくる熱いものは、富田氏が紹介する陛下です。
 
 塩田氏はドキュメント作家としての自分の姿勢を、4つの原則で語っています。
 
 1. 疑う。  ・・世間に流布している常識をそのまま受け入れず、まずは疑う。
 2.    調べる。 ・・事実となる資料を、徹底的に調べる。
 3. 掘り出す。・・調べた資料の中から、新しい事実を発見する。
 4. 描く。  ・・自分なりの考えを、結論として描き出す。
 
 文章を売って生活の糧とする作家なら、この原則で十分でしょうが、日本国民としてであるのなら、これでは足りません。「自分の国を自分で守ると言う、自立心」と、「ご先祖さまへの感謝と敬愛の心」がなければ、「画竜点睛を欠く」です。富田氏の執筆姿勢には、この二つがありました。日本人として、「自分の国を愛する心」です。
 
 順不同の書評になりますが、372ページを読みながら、塩田氏の姿勢に疑問を抱きましたので、意見を述べました。
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『 最後のご奉公』 - 6 ( 「冷徹な幣原外交」 )

2021-08-15 18:47:33 | 徒然の記

 昭和2年、内戦の続く中国で、武装蜂起した大衆デモが、イギリスの租界に侵入するという事件が発生しました。幣原外相の許に、駐日イギリス大使が訪れ、共同出兵を促しました。

 「このままでいくと、漢江だけでなく上海も危ない。」「われわれは、居留民と権益保護のため、」「中国へ兵を送る方針です。」「日本にも、共同行動をお願いしたい。」

 しかし、中国に対し不干渉主義をとる外相は、言下に拒絶しました。塩田氏の説明によりますと、幣原外相は次のように考えていたそうです。

 ・  中国の排外主義の矛先は、いつも日本に向けられていた。

 ・  しかし不干渉主義政策の効果が現れ、今度は日本でなく、イギリスに集中し始めた。

 ・  中国で、再び排日主義が火を噴いては大変だ。居留民保護のためにも、不干渉主義が最も効果的なのだ。

 イギリスは諦めて独自に出兵しましたが、中国政府と中国人は、こんな昔から激しい排日を続けていたのかと、改めて教えられました。江沢民氏や習近平氏が、ことさら反日を主張しているのでなく、もっと根深いのだと知りました。日本を千年恨むという韓国も同じで、彼らの反日感情は、手のつけようが無いような気がしてきました。

 同じ年の3月に、さらに大きな事件が発生します。蒋介石軍が南京に入城し、その一部が外国人の住居や領事館を襲い、略奪や暴行を繰り返したのです。

 「南京の揚子江岸に停泊中の、イギリスとアメリカの砲艦は、」「蒋介石軍に砲撃を始め、間も無く兵員の上陸も敢行した。」「暴徒は、日本の領事館も襲撃した。」「しかし日本は、最初から最後まで無抵抗を貫いた。」「日本の駆逐艦  " 檜  "  が停泊中であったが、一発も砲撃しなかった。」

 当時の状況を、塩田氏が述べていますが、これがいわゆる「幣原外交」でした。4月には、漢江でまたも騒動が起こりました。中国人の群衆が、日本の水兵を襲撃し、その勢いで、日本租界に侵入し略奪を行います。この時もイギリスの駐日大使が、外相を訪ね、共同出兵を促しますが、今度も色良い返事をしませんでした。その時の答えを、氏の著作から紹介いたします。

  1.  よその国と違って、シナは心臓が一つでなく、無数にある。

  2.  心臓が一つだとそこを叩き潰せば、その国は麻痺容態に陥る。

  3.  しかし支那は、一つの心臓を潰しても、他の心臓が動いていて、鼓動が停止しない。

  4.  全ての心臓を叩き潰せれば話は別だが、それは到底不可能だ。

  5.  武力制圧の手段を取ると、いつになれば目的を達することができるのか、予測がつかない。

  6.  以上の理由で、わが国は共同出兵をしない。

 群雄割拠する中国について、幣原氏の認識は的確であったと思います。この認識があれば、泥沼の中国戦争に引き摺り込まれることもなく、敗戦しなかったのではないかと、そんな気もします。日本のリーダーとして、氏は間違いなく卓越した人物の一人だったのではないでしょうか。

 しかしネットを検索しますと、次のような情報がありました。

 「領事館を含む事件の惨状に立ち会った、佐々木到一中佐は、その時の酷い被害状況を以下のように記している。」

 「領事が神経痛のため、病臥中をかばう夫人を良夫の前で裸にし、」「薪炭車に連行して27人が輪姦したとか、」「30数名の婦女は、少女にいたるまで陵辱され、現に我が駆逐艦に収容され、」「治療を受けた者が、10数名いる。」「警察署長は射撃され、瀕死の重傷を負った。」「抵抗を禁ぜられた水兵が切歯扼腕し、この惨状に目を覆うていなければならなかった。」

 砲撃を許されなかった駆逐艦の艦長は、のちに割腹し命を絶っています。

 「多数国民を救うためなら、少数の犠牲には目を瞑る。」

 国のリーダーに求められる、苦渋の決断ですが、これが 私の言う「冷徹な幣原外交」です。

 現在、334ページを進行中ですが、私には今もなお、幣原元総理の人物像が理解できないままです。「日本国憲法の生みの親」と言われる氏について、著者の塩田氏は自分なりの理解で説明していますが、私には違った幣原氏が感じられてなりません。

 息子たちと、「ねこ庭」を訪問される方々にお願いします。もう少し、時間を貸してください。

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『 最後のご奉公』 - 5 ( 「現実主義的外交」と「理想主義的外交」 )

2021-08-14 18:31:46 | 徒然の記

 「明治維新後、近代国家として出発した日本は、」「明治、大正と約半世紀にわたって、」「苦難の道を歩んできた。」「その道程を振り返ると、外交の面では大きな二つの潮流があった。」

 174ページで、著者の塩田氏が述べ、その二つを説明しています。

  1.  「現実主義的外交」

   ・  現実の政治世界の中で、日本がどのような状況に置かれているのかを見る。

   ・  国防、経済など、あらゆる角度から慎重に検討する。

   ・  現実から離れた、無謀な背伸びや野心を極力排する。

   ・  実現可能な目標を、着実に達成していく。

  2.  「理想主義的外交」

   ・  日本の特殊性を強調し、日本独自の外交理念を高らかに打ち出す。

   ・   世界政治の現実と関わりなく、日本の理念を実現しようとする使命感を持つ。

  第1. の流れは、欧米列強が割拠する国際政治下では、列強との協調・共存の道を選ぶこととなり、慎重で合理的ですが、地味で打算的だと説明します。一方、第2. の流れは、明治の終わりから大正にかけて、国力の充実に伴い、「現実主義的外交」に飽き足りない者が唱え出したと言います。

 第一次世界大戦が始まる頃、従来の西欧的政治秩序が瓦解し始め、世界は混迷と模索の時代に入りました。日本でも、伝統的な西欧追従外交に対する批判が、高まり始めます。

 「理想主義的外交が幅をきかせ始めると、それはまず、対中国政策に変化が現れた。」「 " 対華21ヶ条の要求 "  に代表されるような、積極的な大陸政策が、展開されるようになった。」

 「このような潮流の中で、幣原は日本の外交路線を、」「もう一度、伝統的な現実主義に戻そうとしたのである。」

 ドキュメント作家だからと言って、事実に基づき、正く書いているのでないことが、ここで分かりました。作り事というのでなく、事実の取り上げ方次第で、中身が変化するという発見です。幣原元総理に好感を抱いていますから、氏は「現実的外交」が正しいとする文章を書きます。

 林房雄氏は、昭和59年に書いた『大東亜戦争肯定論』の中で、別の意見を述べていました。氏は、欧米列強がアジアを侵略した幕末以来、日清戦争、日露戦争、第二次世界大戦を含め、敗戦に至るまでを、「大東亜百年戦争」という捉え方をしています。

 東京裁判以降に世間を支配した、「恥ずべき日本軍の独走」「日本の侵略主義」という日本国悪人説を否定する意見です。詳しく述べませんが、息子たちに知って欲しいのは、作者の姿勢次第で、歴史の解釈が変わるという事実です。良い悪いの判断を別に置き、この点を確認した上で、塩田氏の著作に戻ります。

 大正12年に、ワシントン軍縮会議を終えた時の、幣原氏の言葉を紹介しています。アメリカのウィルソン大統領が提唱した、国際連盟が誕生した時でもありました。

 「これからの世界政治は、米英が指導するデモクラシーが基調となるに違いない。」「わが日本も、デモクラシーを代表する米英と手を携えて、」「人類の平和と福祉に貢献しなければならない。」

 「対外政策は武力という直接手段でなく、外交に負うところが多くなる。」「われわれの出番が、ますます増えてくる。」

 こうして氏は、ロシアの脅威に対抗する目的で締結された、「日英同盟」を廃棄しました。日英同盟は、日本が中国への膨張政策を展開する上で、大きな役割を果たしていましたが、幣原氏はそれを承知の上で、廃棄を決めました。同時にベルサイユ条約により、ドイツから継承していた山東半島の領土も、中国へ返還しました。

 幣原氏の働きぶりを見て、欧米の政治家や外交官は、最大級の賛辞を送ったと言います。以後氏の「平和外交」・「欧米協調外交」が、「幣原外交」として知られるようになります。

 私から見ますと、幣原氏の意見は本当に「現実主義的外交」なのか、むしろ「理想主義的外交」でないのかと、そんな気がしてなりません。「対華21ヶ条の要求」を出したのは、義兄である加藤高明外相でしたのに、氏は本気で反対していますから、信念のある外交官とも言えます。

 外交問題はこれからも出てきますので、今回は、「冷徹な幣原外交」にまで言及せず、息子たちへの、第一回目の報告にとどめておこうと思います。

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『 最後のご奉公』 - 4 ( 学閥と閨閥 )

2021-08-13 20:21:13 | 徒然の記

 明治5年生まれの幣原元総理(男爵)は、『最後の殿様』を書いた徳川義親侯より、14才年長です。日清戦争が始まった時、幣原元総理は大学の3年で、義親侯は8才でした。

 殿様育ちの義親侯は我が道を行く劣等生で、幣原元総理は優秀な学生でしたが、どちらも東大生です。明治維新を成し遂げたのが、薩長土肥の下級武士というせいもあったからでしょうか、当時は「立身出世」が男の道でした。

 塩田氏は、そんなつもりで伝記を書いていないのでしょうが、親子、友人、知人、親戚など、詳しい説明を読んでいますと、政治家と役人には、学閥と閨閥が切っても切れないものだということが分かります。

 当時大学といえば、明治天皇が作られた東大があるばかりでしたから、ここに全国から、とびきり優秀な人材が集まりました。北大のクラーク先生が言ったように、「青年よ、大志を抱け。」の時代で、政治家なら総理、軍人なら大将が青年の夢でした。

 伝記の中から、学閥・閨閥の部分だけを抜き書きします。幣原元総理と関係の深い、二人の人物 ( 加藤高明、木内重四郎 )と共に、ネットの情報を含めて紹介します。

 〈 1.   加藤高明 ( 義兄 ) 〉

  ・ 明治14年、東京大学法学部を首席で卒業し、三菱に入社。

  ・ イギリスに勤務し、帰国後は、三菱本社副支配人となる。

  ・ 明治19年、岩崎弥太郎の長女・春路と結婚。後に政敵から「三菱の大番頭」と皮肉られる

  ・ 大正13年、憲政会が比較第一党となり内閣総理大臣就任。

 〈 2.   木内重四郎 ( 義兄 ) 〉

  ・ 明治21年、東京大学法学部を特待生として卒業し、官界に入る。

  ・ 農商務省商工局長、韓国総監府農商工務総長、朝鮮総督府農相工務部長官等を歴任。

  ・ 明治44年、勅選の貴族院議員、大正5年、官選の京都府知事に就任。

  ・ 岩崎弥太郎の次女・磯路(いそじ)と結婚。

  ・ 弥太郎の長女と結婚した加藤高明が、憲政会総裁をであったため、木内も憲政会に所属。

 〈 3.  幣原喜重郎   〉
 
  ・ 明治28年、東大法学部を卒業した幣原は、後の首相・濱口雄幸と成績は常に1、2位を争った。
 
  ・ 明治36年、岩崎弥太郎の五女・雅子と結婚。
 
  ・ 大正13年 加藤高明内閣の時、外務大臣となる。
 
  ・ 以降、若槻内閣、濱口内閣で4回外相を歴任した。
 
 幣原元総理だけでなく、政界も官界も経済界も、学閥と閨閥が有力者たちを結びつけています。宮沢喜一氏は、「東大の法学部を出ていない人間は、二流だ。」と言うのが、酔った時の口癖だったらしく、周囲のひんしゅくを買っていました。私が知らないだけで、現在の日本も、形を変えながら、こうして動いているのかもしれません。

 著者の説明によりますと、幣原元総理は積極的に岩崎家の五女と結婚したのでなく、先輩である加藤氏に口説かれ、渋々同意しています。なぜなら当時の氏には、韓国勤務時代からのイギリス人の恋人がいたからです。相思相愛の仲でしたが、自分の将来のため、考え抜いた末恋人を断念します。

 薄情な人間と氏を責める者もいますが、文豪森鴎外も、同じ経験をしています。鴎外はドイツ留学時代に、現地の女性と恋に陥りますが、親ばかりでなく、親類縁者に反対・説得され、諦めています。名作「舞姫」は、鴎外の悲しみを描いた作品だそうです。

 幣原元総理と鴎外については、時代の流れでそうなったのだと、非難でなく、むしろ同情が先に立ちます。本人も、相手の女性もです。

 だが、物好きで恋の話を紹介したのではありません。情に流されず、理で外交を考える冷徹な氏を語るための、ヒントになると考えました。次回は、「幣原外交」の冷徹さを紹介いたします。

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