氏は、ドキュメント作家と呼ばれますが、一体その意味は何なのでしょう。ネットで調べても、当たり前すぎるせいか、説明がありません。「ドキュメント」だけを検索すると、これはあります。
1 資料的な文書。記録。 2 記録映画。記録文学。
「ドキュメント」の対立語は、「フィクション」ですが、反日左翼の学者たちや、テレビや新聞が常に手本を見せていますから、これは検索しなくても知っています。空想、作りごと、絵空ごと、捏造、嘘・・と、いくらでも言葉があります。
20才の心で、読書をしていますが、私の心には学徒の躍動感がありません。塩田氏の著書の一行ごとが、苦い薬を飲んでいるような味です。作家が伝記を書くというのは、その人物に好感を持っているからです。嫌悪する人物の伝記を書いた作家の話は、聞いたことがありませんから、氏が幣原氏について述べるとき、好意的な語り口になるのは、当然です。
現在192ページを読んでいますが、幣原氏の「国際協調外交」、「平和外交」を好意的に語れば、勢い軍や政府の政策には、批判的になります。
氏は反日左翼作家ではありませんが、微妙に私と異なる位置に立っています。幣原氏を肯定し、憲法を肯定し、GHQを肯定する、その氏を肯定すると、
・「自主憲法制定」 ・「皇室護持」・・
という、日本の一番大切なものに到達できません。知らないことを教えてくれる氏は私の師ですから、黙って読みますが、息子たちには言います。この書がドキュメントであるのなら、学徒は教えを受けるしかありませんが、こんな読書ばかりをせずにおれない戦後の日本を、父は無念に思います。
1. 資料的な文書。記録。 2 . 記録映画。記録文学。
ネットの説明はそうですが、資料でも、記録でも、作者の取り上げ方次第で、違ったトーンが生まれます。羅針盤の針をそこに合わせ、ためらいつつ、戸惑いつつ、私は先へ進みます。
幣原氏が、外交官を目指そうと思った、直接のきっかけは、大学二年の末に起こった、日清戦争だそうです。明治27年8月、日本は清国に宣戦布告しました。
「世界中の人々は、新興国の日本がアジアの老大国の清と戦っても、」「勝ち目はないと思った。」「日本とすれば、国運を賭した戦争であった。」
しかし日本は、黄海海戦に勝利し、旅順口を攻略し、山東作戦を実施し、ついに清の北洋艦隊を降伏させました。李鴻章との間で講和の談判が始まり、下関条約が調印されます。
「幣原が大学三年だった1年間、日本国中が、」「日清戦争一色に、塗りつぶされた。」「同じ年頃の若い連中は、口を開くと悲憤慷慨し、国の行く末を論じ合った。」
日本は下関条約で、清から台湾と遼東半島を獲得しました。しかし、ロシア、フランス、ドイツの三国が異を唱えました。この話は「臥薪嘗胆」の言葉とともに、誰もが知っていますが、日本は遼東半島を還付させられました。
「日本は戦争に勝って、外交に負けたのだ。」「こんなことではいけない。」「国運を打開するため、俺は外交官になるぞ。」
氏は固く決心したそうです。その氏が、どうして国運を傾ける「日本国憲法の生みの親」と言われるのか。先を読まずにおれません。本日はここで終わりますが、明日も続けますので、「ねこ庭」へお越しください。( 楽しいことや愉快なことは、当分ありません。)