田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

むかしをいまに

2008-03-29 13:44:28 | Weblog
3月29日 土曜日
むかしをいまに (随筆)
 赤い羽根をひろった。
 地下鉄丸ノ内線虎の門駅の階段を下りていた。あまりふいに腰をまげたので、危うく転倒するところだった。浅ましいことをするからだ。赤い羽根の募金をする小銭が惜しくて、無意識のうちに腰を曲げて落ちている羽根をひろったからだ。
 貧乏はするものではない。悲しかった。景気が良かった時には、町内の民生委員がまわってきて、ウン万円の寄付をして、お役所から感謝状を毎年もらっていたのに。
 尾羽うちからす。とはこういうことなのだろう。カナシイったらありゃしない。
 わたしはいい。こうして、じぶんを戯画して楽しむ余裕がある。妻はこのところすっかりおちこんでマジで悲嘆にくれている。いちばんの悩みは化粧品を購入するお金をどう工面するかということらしい。
 そこで、虎ノ門で下車することになったのだ。麻布十番の『フジヤ』化粧店がやめてしまった。虎ノ門の『佳』を紹介してもらった。何パーセントか割引してもらえるのが魅力らしい。妻のことだから化粧品はぎりぎりまで倹約して使う。いざとなってから「さあいきましょう」とうことになるのだ。
 地理不案内のためその店をさがして歩くのはたいへんだ。そう思って駅員にきいたのが、トラブルのはじまりだった。
 1番出口から。送ってもらった手書きの地図にはそう指示してあつた。駅員が不親切だった。いいかげんな教えかたしかしてくれなかった。おとなしい妻はわたしのところにきて腹をたてていた。わたしに当たられても困る。ケンモホロホロの応対をしたのは、駅員でわたしではない。
 けっきょく、20ぷんもかけて街中歩きまわったが、めざす『森ビル』はみつけだすことができなかった。わたしはじぶんがすっかり田舎者になっているようで寂かった。2時間かけて鹿沼から上京してきたのだ。今夜は娘の家で、かわいいさかりの孫娘たちに会える。早く会いたい。わたしは焦っていた。そそくさと、元にもどった。駅の1番出口を探す。そこから出直そう。ということになった。
 こんど尋ねた駅員さんは嘘みたいに親切だった。駅周辺の地図までくれた。ありがたくて目頭があつくなった。
「人によってちがうのよね。いい人にであわないと損なのよ」
 妻が感慨をこめていう。
 その駅へ戻った階段で羽をひろったのだった。
 『佳』はフジヤさんとおなじような、街の化粧品屋さんといった店だった。気さくに世間話をしながら品選びのできる妻の好みの店だった。楽しそうに妻がおしゃべりをはじめたのを機にわたしは店をでて歩きだした。なんとなくむかし歩いたことがあるような町並みだった。むろん、建物は高層化している。だが記憶ある街をあれこれ思い出していたら、こういう時がいちばん楽しいのだが、愛宕神社のまえにでた。そうか、愛宕神社界隈だったのだ。むかしN君に彼女ができて、ぜひ紹介したいというので会ったのがこの男坂の下の石碑のまえだった。いまも、石碑の文字はかわりがない。夕暮れ時なので八十何段かある急な石段は闇の洞窟への入り口のようだ。異界につうじているような薄闇の石段を妻とのぼることにした。曲垣平九郎手折りの梅も健在だった。
「あまり急な傾斜なので、あなたがつまずいたらたいへんだと、気がきでなかったわ」
 あまり心配したのでトイレにいきたくなったと妻がいう。たしかに一気にのぼるのは高齢者となったわたしにはかなりきつかった。血圧がたかいのでノルバックをのんでいる。息切れがとまらない。この先にNHK放送博物館がある。そこでトイレをかりたら。といえなかった。荒い息をはきながら指差すだけだった。わたしたちは勤めた経験がない。24時間完全密着型のカップルとして暮らしてきたので、それだけの身振りで意思は伝わる。妻がなかなかトイレからもどってこない。化粧をなおしているのだということはわかる。それにしてもながすぎる。売店の女の子にトイレの所在をきこうとしたところで妻は二階からもどってきた。帰りは女坂を下った。
「はじめからこちらの坂を上がればよかったのよ」
 いまは脳溢血で一度倒れ、それでも酒をやめられないNとの思い出については、妻には話さなかた。Nにあの時の彼女を探しあてて、もう一度会わせてやりたい。絵描きとして大成できず、屋根のペンキ塗りをしている彼が一番輝いていた時期の彼女だ。二人の悲恋についてはあまり細かいことは聞いていない。二人を会わせるのは酷かもしれない。もし彼女がいい生活をしていたらNはどう思うだろうか。坂を下り舗装された大通りにでてトンネルをくぐると、なんとそこに神社の境内までのエレベーターがあった。妻と顔を見合せわたしは、なにもいえず立ち尽くした。
                                 未発表。

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