「今夜一杯どうかね」
鈴木部長がグラスで何かを飲む仕草をしている。
「いいですね行きましょう」
上司の誘いを断る。
そんな自分に正直なサラリーマンははたしてどれだけ存在するのだろうか。
アキラはどこか人ごとのように薄ら笑いを浮かべて返事を返した。口元だけでは無く、眼も笑うように注意しながら部長を見る。
心の中で、アキラは決心していた。
そうだ、準備しているものを試してみよう。
アキラは世の中で流行っているアプリをスマホ上にそっと立ち上げた。
「ホーン・ネー・トーク」
会話の流れと言葉の抑揚などを利用して、本音の言葉に変換してくれるアプリだ。部長がどういう気持ちで自分を誘うのか、その本音を
確認しないとやってられない。
「おつかれ。週末なのにつきあってもらって悪いね」(部下なんだから当然だよな)
ホーン・ネー・トークからの音声がワイヤレスイヤホンから同時に聞こえる。
部長には仕事の電話がかかってくる可能性があるので片耳にイヤホンをさしてある旨を伝えてある。
「アキラは仕事熱心だな。感心するよ」
(何だよ、俺と飲むんだから、俺の話に集中しろって)
「あざーっす」
アキラはどうしてこんなアプリが流行っているのかまったく分からなくなりそうになる。
「部長、今年、お子さんの洋子ちゃん高校受験ではないですか」
部長は眼鏡をはずして顔面をおしばりで拭いている。
「そう、家の中が受験地獄だよ。気を使って本当に大変だよ。俺がテレビを見るのも厳禁。私語厳禁。洋子と妻は勉強の事や学校の事とかを話すらしいけど、俺とは一言も話さない。さみしいもんだよ」
(………)
どうやら本音の場合には変換しない。
「思春期の女の子は特に難しいらしいですね」
アキラは生ビールを一気に飲む。
(うまい、この一杯のために生きてるな。結局、部長も本当に寂しいのだな。どうせ今夜も部長が支払うタダ酒だ。しょうがない、さみしい部長につきあってやるか)
ホーン・ネー・トークがアキラの喉ごしの音を本音に変換してアキラに聞かせる。アキラはホーン・ネー・トークを終了させた。
「部長、もう一杯注文しましょう」
「おう、そうだな」
部長はうれしそうに笑った。