ミチコはベランダへと続く窓の前で立ち尽くしていた。
洗濯物が満載のかごを手に持ったままだ。
重い。
(よし)
ミチコは窓を開けた。
「おはよう」
隣のベランダから声が聞こえてミチコは飛び上る。
隣に住むジュリが挨拶の声をかけてきた。悪気が無いのは分かるが、ミチコがベランダに出るのを待ち構えていたタイミングだ。
双子の妹のジュリが分譲マンションに越してきたのは半年前。事前の相談は無かった。
妹は突然やってきた。
「今日の予定は」
「特に無い」
「一緒に買い物にいかない」
「分かった」
ミチコは手早く洗濯物を干し終えた。
「またあとで」
自室に入ったミチコは後ろ手に窓を閉めて、その場に座り込む。
隣人がストーカーの生活。
始まりはジュリからの相談だった。
「私、おねえちゃんになりたい」
ミチコは耳を疑った。
「おねえちゃん、私のお金自由に使っていいから」
悪魔のささやきに近い提案を妹からうけて、ミチコは提案を了承していた。
ジュリはIT会社を立ち上げ、有名にし、会社ごと売り払っていた。
ジュリの資産がいくらあるのか、ミチコは知らない。
ジュリはミチコと同じ生活サイクルをまねしている。同じ時間に起きて、同じ時間に出勤する。
二人のうち、どちらか一人が仕事をする。
会社は人間が入れ替わっている事実を知らない。
同僚も知らない。
待ち合わせをして、同じ時間にそれぞれの部屋に帰宅し、同じ時間に眠る。
ジュリはミチコの生活音と気配を忠実に追いかけている。
何のためなのかミチコには分からない。
天才のやることは分からない。
ジュリにつきあっているミチコも天才の一人。
「今夜一杯どうかね」
鈴木部長がグラスで何かを飲む仕草をしている。
「いいですね行きましょう」
上司の誘いを断る。
そんな自分に正直なサラリーマンははたしてどれだけ存在するのだろうか。
アキラはどこか人ごとのように薄ら笑いを浮かべて返事を返した。口元だけでは無く、眼も笑うように注意しながら部長を見る。
心の中で、アキラは決心していた。
そうだ、準備しているものを試してみよう。
アキラは世の中で流行っているアプリをスマホ上にそっと立ち上げた。
「ホーン・ネー・トーク」
会話の流れと言葉の抑揚などを利用して、本音の言葉に変換してくれるアプリだ。部長がどういう気持ちで自分を誘うのか、その本音を
確認しないとやってられない。
「おつかれ。週末なのにつきあってもらって悪いね」(部下なんだから当然だよな)
ホーン・ネー・トークからの音声がワイヤレスイヤホンから同時に聞こえる。
部長には仕事の電話がかかってくる可能性があるので片耳にイヤホンをさしてある旨を伝えてある。
「アキラは仕事熱心だな。感心するよ」
(何だよ、俺と飲むんだから、俺の話に集中しろって)
「あざーっす」
アキラはどうしてこんなアプリが流行っているのかまったく分からなくなりそうになる。
「部長、今年、お子さんの洋子ちゃん高校受験ではないですか」
部長は眼鏡をはずして顔面をおしばりで拭いている。
「そう、家の中が受験地獄だよ。気を使って本当に大変だよ。俺がテレビを見るのも厳禁。私語厳禁。洋子と妻は勉強の事や学校の事とかを話すらしいけど、俺とは一言も話さない。さみしいもんだよ」
(………)
どうやら本音の場合には変換しない。
「思春期の女の子は特に難しいらしいですね」
アキラは生ビールを一気に飲む。
(うまい、この一杯のために生きてるな。結局、部長も本当に寂しいのだな。どうせ今夜も部長が支払うタダ酒だ。しょうがない、さみしい部長につきあってやるか)
ホーン・ネー・トークがアキラの喉ごしの音を本音に変換してアキラに聞かせる。アキラはホーン・ネー・トークを終了させた。
「部長、もう一杯注文しましょう」
「おう、そうだな」
部長はうれしそうに笑った。
占い人
日曜日の午前中、和子は電車に乗っていた。お目当ては、とんでもなく当たるとSNSで話題になっている、「占い人」という占い師に占ってもらうことだ。占い人の面白いところは、失せ物、失踪人、進路の相談などいろいろなケースでことごとく的中したという報告は多数寄せられているが、本人の画像が一切無いところだった。そして、占いの料金は占いの結果、もたらされた結果による成功報酬というところだ。
和子は車中でも悩んでいた。
はたして自分は占い人の占いに従うのか、どうなのか。
占う内容は、つきあい始めて五年になる恋人のアキラとの結婚についてだ。アキラの金銭面でのルーズさと、ちょっとしたわがままがどうしても引っかかっている。
現在、二人は結婚の話題に触れていない。
このまま結婚という事もあり得るのだろうか……。和子は自分の年齢を思い浮かべる。
二十九。
今日はアキラとのデートをキャンセルして占い人に会いに来た。
和子は知らぬ間にため息をついていた。
改札から外に出た和子はスマホを取り出して占い人の場所を確認した。場所はすぐそばのはずなのだが、和子の視界には占い人らしき人物はいない。
「人をお捜しでしょう」
突然、後ろから肩を叩かれて和子は声を上げた。「はい」とつぶやいて和子はゆっくりと振り返る。そこには筋骨隆々のマッチョが笑って立っていた。ただしマッチョはパンツ一丁。
(変質者だ)和子の顔面はひきつる。
「けっして怪しいものではございません。私は占い人です。占いの方でしょう」
「はい」
「分かってました」
「分かっていた?」
「今朝、目が覚めたぐらいから、何となくあなたがここに現れるのが分かってました。占いの内容も何となく分かってます」
「誰もいなかったのに、どこから現れたの……」
「寒いので、出来るだけ物陰に寄り添って立っています。北風がとにかく寒いのでね」
占い人は太い筋肉を小さく縮めておどけている。
たしかに十二月の寒空が、裸にこたえる事は容易に想像できる。
「それでは張り切って占わさせていただきます」
占い人が何かの踊りを始めようとしたので和子は慌てて止めた。
「あの、占いに入る前にどうしても聞きたいことがあるのですが」
「何でしょう」
占い人の肉体は湯気を上げんばかりにうっすらと上気し、ピンク色を帯びている。
「どうして裸なんですか?」
「的中率のためです」
「占いの?」
「はい、裸であればあるほど、占いのパフォーマンスが上がります。しかも屋外での占いが最強なのです。本当は全裸・屋外で占いたいのですが、パンツ一丁・屋外が法律のギリです」
「そうなんですね。この場で占うのですか?」
「そうです。心の準備は整いましたか」
占い人が両肩を器用に回して、足の屈伸を繰り返している。
「では、始めます。ちなみに占いの内容を確認しますが、現在お付き合いのある男性との結婚、ありか無しかでよろしいですね」
占う内容の的中と、結果が和子の頭によぎり、心拍が早まる。
「はい、お願いします」
「ちなみに、料金は後日、今から私が発する占いの結果、訪れる未来の満足度の対価としてお支払いください。ここでお待ちいたしております。では、まいります……」
マッチョが美しいフォームで走り出し、そのまま角を曲がって和子の前から姿は見えなくなった。
待つこと五分。
走り去った方向の逆から占い人は現れた。
「今日のタイムは自己新でした。そして、まるっと分かりました。アキラさんとの結婚はありです」
「ありですか」
「そう、ありです。私、走りながら、あなたの人生を見ました。アキラさんと結婚する未来、アキラさんとは結婚しない未来。どちらも幸せな人生でした。ただし、アキラさんとの結婚を逃すと、次の婚期は数年から十数年後になります。この観点からも「あり」です。多少の欠点には目をつむりましょう」
「はい」
和子は占い人の声をぼんやりと考えながら岐路についた。
和子とアキラは結婚した。
五歳になる娘の左手を和子が右手をアキラが引いて三人は歩いていた。
和子は何度も占い人がいた場所を訪れたが、そこに占い人の姿は無かった。
笑いながら歩く三人が向こうからやってきたスーツの男とすれ違った。アキラはすれ違いざま、和子には分からないように会釈した。
スーツの男もかすかにうなずく。
スーツの男はそのまま歩み去った。
スーツを着てはいるが、その人物は占い人だった。
裸の印象が強すぎて、服を着た占い人に和子はまったく気づかない。
占い人、それはアキラが作り出した幻だった。五年前、和子との間にちょっとした別れの予感を感じたアキラが計画した同級生との競作による壮大な狂言が占い人なのだった。
和子とアキラと娘はそれぞれ幸せだった。占い人を演じた同級生も幸せを感じていた。
もどかしい世界
三郎は目覚まし時計のベルを意識の遠くで感じた。
昨夜は早く眠ったはずだが、まだ寝たり無いと感じるのは一種の現実逃避なのかもしれない。
仕事に向かう為に、三郎はベットから半身を起こし、枕元のメガネに手を伸ばした。
三郎はメガネがあるべきはずの場所に何の感触もない事にドキリとして動きが止まる。
昨夜、寝る前に外したメガネが無い。
三郎は何が起こったのかを理解し、頭をかかえた。
あるはずの物が無くなる。
これは国策として任命された「もどかし部隊」の仕業なのだ。
人々が必要とする物を強制的に徴収し、消費に向かわせるのが部隊の使命なのだ。
任務のための住居侵入の権限をもどかし部隊には与えられていた。
三郎はかつて自分に行われたもどかし部隊のもどかしい行為を思い出した。
アイスコーヒーを飲もうと思ったら、コーヒーとガムシロップはあったが、ミルクとストローが無い。
歯を磨こうと思ったら歯ブラシがない。
自転車のサドルが消えていた。
トイレットペーパーがホルダーから消えていて、ストックも無くなっていた。
三郎はメガネを作らなくていけないなと思いながら朝食の準備を始める。
パンをトースターに入れてスイッチをひねる。
タイマーが進む、かすかなゼンマイの音を聞きながら、三郎は鼻歌を歌っている自分に気づく。
仕事が休める。
もどかし部隊によってもたらされた不具合による休暇は無条件に認められる。
この一文も法律として明文化されている。
焼き上がったパンのいい匂いがしてきた。
三郎は冷蔵庫にあるバターを取りだそうと冷蔵庫の扉を開けた。
バターがたしかにあった空間にはぽっかりと穴があいてた。