カリスマの店
「いらっしゃいませ」
高級な着衣を身につけた妙齢のマダムがお店に入ってきた。
マサトはマダムの手荷物、コートを丁寧に預かり、手を引いてエスコートする。
「こちらは夢のような体験を提供するお店とお友達から紹介されました。でも詳細は不明。興味がわきましたが、ここはいったいどういったお店なの?」
「マダム。これから体験していただくものがすべてです」
「私の質問に答えてはいないけれど、まあいいわ」
「恐縮です。それではまずお食事にしますか、お風呂にしますか。それともカットにしますか」
「髪のカットもするの」
「はい。最終的にはカットもいたします」
「では、食事にしようかしら」
「かしこまりました」
マサトはろうそくの灯るテーブル席に女性をいざなう。
「マダムお飲物は何をご用意いたしましょうか」
「1955年コートジヴォワール、赤ワインと、同じく55年産、伝説の甘納豆をいただこうかしら」
マダムはふところから細長いメンソールシガレットを一本取り出す。
マサトは片膝を床についてライターで火をつける。
炎はメンソールに吸い込まれる。
先端の火種が明暗し、けむりが店内に漂う。
膝をついたままの姿勢で、マサトが右手のひらをマダムに差し出す。
マサトが左手の指を鳴らすと、マサトの手のひらで炎があがる。
マダムの声もあがった。
炎が治まった暗闇の中で、マサトの両手には、ワインと甘納豆があった。
「すばらしいわ」
マダムは満足げに注がれたワインを口にふくむ。
「酒と甘みも入りました。そろそろ当店自慢の塩風呂はいかがでしょうか」
「塩風呂。あまり聞かないわね」
「塩分が結晶化する寸前の状態を維持したバスでございます。江戸時代が発祥で、化け猫が人を悔い殺すときの味付けとして用いたのが始まりと聞いております。現代では美容効果が注目されております。塩味がしみこんでとてもおいしいのでございます」
「おいしい?」
「いえ、何でもございません。どうぞこちらへ。マダム、髪をまとめさせていただきます。まとめておきませんと、歯にはさまってどうも、こうもありませんので」
「歯にはさまる?」
「いえいえ、お気になさらずに、どうぞごゆっくり」
マダムが五右衛門風呂の湯船に身をしずめる。
たしかに保温効果の高そうな、ねっとりとしたお湯だった。
マダムは自身に襲う異常に気づく。
風呂の温度が徐々に上がっている。
「マサト。少し熱いわ」
マダムがたまらず声をあげる。
「少し熱いぐらいが、塩味がよく染み渡っておいしいのです」
脱衣所の外からマサトの声が聞こえる。
「さっきから何を言っているの」
「いえ、お気になさらずにニャー」
「ニャー?あなた化け猫?」
「イニャイニャ。それでは最後の仕上げ、落としふたで煮込めば完成ですのニャー」
マダムの頭上には、いつの間にか、巨大なふたが吊されていた。
「キャー」
マダムの悲鳴が浴室にこだまする。
「最高でしたわマサト」
塩風呂でお肌がつるつるになったマダムが上気した表情でマサトを見ている。
カットに集中しているマサトが鏡越しにマダムを見る。
「ありがとうございます」
「あなたは、本当にカリスマ美容師だわ。残念なのは、この驚きは初回が一番すばらしいということだわ」
マサトはうなずきながら返答する。
「奥様の協力があれば、いつも新鮮な気持ちでスリルに巻き込まれるかと思います」
「お店以外の場所でも可能なの」
「可能ですよ。よろこんで」
マサトのハサミの音が響いている。
「いらっしゃいませ」
高級な着衣を身につけた妙齢のマダムがお店に入ってきた。
マサトはマダムの手荷物、コートを丁寧に預かり、手を引いてエスコートする。
「こちらは夢のような体験を提供するお店とお友達から紹介されました。でも詳細は不明。興味がわきましたが、ここはいったいどういったお店なの?」
「マダム。これから体験していただくものがすべてです」
「私の質問に答えてはいないけれど、まあいいわ」
「恐縮です。それではまずお食事にしますか、お風呂にしますか。それともカットにしますか」
「髪のカットもするの」
「はい。最終的にはカットもいたします」
「では、食事にしようかしら」
「かしこまりました」
マサトはろうそくの灯るテーブル席に女性をいざなう。
「マダムお飲物は何をご用意いたしましょうか」
「1955年コートジヴォワール、赤ワインと、同じく55年産、伝説の甘納豆をいただこうかしら」
マダムはふところから細長いメンソールシガレットを一本取り出す。
マサトは片膝を床についてライターで火をつける。
炎はメンソールに吸い込まれる。
先端の火種が明暗し、けむりが店内に漂う。
膝をついたままの姿勢で、マサトが右手のひらをマダムに差し出す。
マサトが左手の指を鳴らすと、マサトの手のひらで炎があがる。
マダムの声もあがった。
炎が治まった暗闇の中で、マサトの両手には、ワインと甘納豆があった。
「すばらしいわ」
マダムは満足げに注がれたワインを口にふくむ。
「酒と甘みも入りました。そろそろ当店自慢の塩風呂はいかがでしょうか」
「塩風呂。あまり聞かないわね」
「塩分が結晶化する寸前の状態を維持したバスでございます。江戸時代が発祥で、化け猫が人を悔い殺すときの味付けとして用いたのが始まりと聞いております。現代では美容効果が注目されております。塩味がしみこんでとてもおいしいのでございます」
「おいしい?」
「いえ、何でもございません。どうぞこちらへ。マダム、髪をまとめさせていただきます。まとめておきませんと、歯にはさまってどうも、こうもありませんので」
「歯にはさまる?」
「いえいえ、お気になさらずに、どうぞごゆっくり」
マダムが五右衛門風呂の湯船に身をしずめる。
たしかに保温効果の高そうな、ねっとりとしたお湯だった。
マダムは自身に襲う異常に気づく。
風呂の温度が徐々に上がっている。
「マサト。少し熱いわ」
マダムがたまらず声をあげる。
「少し熱いぐらいが、塩味がよく染み渡っておいしいのです」
脱衣所の外からマサトの声が聞こえる。
「さっきから何を言っているの」
「いえ、お気になさらずにニャー」
「ニャー?あなた化け猫?」
「イニャイニャ。それでは最後の仕上げ、落としふたで煮込めば完成ですのニャー」
マダムの頭上には、いつの間にか、巨大なふたが吊されていた。
「キャー」
マダムの悲鳴が浴室にこだまする。
「最高でしたわマサト」
塩風呂でお肌がつるつるになったマダムが上気した表情でマサトを見ている。
カットに集中しているマサトが鏡越しにマダムを見る。
「ありがとうございます」
「あなたは、本当にカリスマ美容師だわ。残念なのは、この驚きは初回が一番すばらしいということだわ」
マサトはうなずきながら返答する。
「奥様の協力があれば、いつも新鮮な気持ちでスリルに巻き込まれるかと思います」
「お店以外の場所でも可能なの」
「可能ですよ。よろこんで」
マサトのハサミの音が響いている。
人気靴職人
時代の先端にある男がいた。
彼の名前はエイジロウ。
彼が作った靴を、ロック・スター、有名俳優、スポーツ選手がこぞってはいた。彼は今年で八十歳になる。
創作バイタリティーはどこからわいてくるのか。今年の男に輝いたエイジロウの独占インタビューにカノコは今からのぞむ。
カノコはタクシーに揺られながら、資料の確認に余念がない。
エイジロウは外出を嫌う。極度の出不精でもあった。
インタビューの会場として自身の工房を指定した。
「行く先はエイジロウ先生のアトリエですね。お仕事ですか」
運転手が口をひらく。突然話しかけられたので、カノコは少しびっくりした。
「そうですね」
「有名人の住まいなんで、このあたりで知らない人はいないのです。私の住まいもこの近辺でして…」
「住んでおられるのでしたら、お見かけになったことはございますか?」
「それが、長い間ここに住んでるけど一度も見たことはありません」
「そうですか」
普段の生活が伺えるかと思った問いかけだったが、カノコはあからさまにがっかりした。その表情を見て、運転手が話し出した。
「いいこと教えましょうか」
「はい何でしょう」
カノコは身を乗り出した。
「エイジロウ先生の前職を知ってますか?」
エイジロウは靴製造一筋の人生だったはずだ。
「知りません」
「人形作家だったのですよ。ご存じないですか」
タクシーは落ち葉を踏みながらゆっくりと停車する。
ツタが一面を覆う洋館
運転手と話し込む暇もなく、カノコはタクシーから降りた。
カノコは記者としては中堅の世代になるが、編集長は今回のインタビューにカノコを抜擢した。
編集長がなぜ自分を指名したのか……その理由は教えてくれなかった。
エイジロウが自分のことを話すのは、長い活動期間で初めてのことだった。どういう心境の変化なのだろうか。確かめなければならないとカノコは思った。
カノコの到着と同時に玄関が開き、エイジロウがゆったりとした動きで現れた。
イギリス紳士を思わせる、きちんとした背広を着ているが、顔半分を覆うひげの印象が強い。魔法使いのようだ。
「芸術アカデミーの記者カノコです。本日はよろしくおねがいします」
カノコが丁寧に頭を下げる。エイジロウがカノコの顔を見て一瞬、目を見開いたようにカノコには思えた。
「よろしく。遠くまで大変だったでしょう。ここは私の工房と住居を兼ねた建物でね。誰もいないから遠慮なく入って」
エイジロウは時折振り返ってカノコに話しかけた。
「こちらで数々の名品が生まれてきたかと思うと、胸がつまる思いです」
カノコは先導するエイジロウの後に続く。
何種類あるのかすぐには分からない量の皮が整理され、靴を作る道具がたくさん並んでいる工房を横切った。
カノコは室内を観察しながら違和感を感じる。
どの道具も大柄なエイジロウが扱うには少し小さいような気がした。
「こちらにどうぞ」
エイジロウは二人がゆったり座れるサイズのソファーを手で指し示す。
「私は赤が好きでしてね」
ソファーはイチゴを思わせる、みずみずしい赤色のレザーだった。
「先生が赤色をお好きになったきっかけはございますか」
カノコはエイジロウの思考を出来るだけすいあげようと、ノートを取りだして、インタビューを開始する。
エイジロウは遠くを探るように視線を泳がす。カノコの問いの答えに到達したエイジロウは、晴れやかな表情でカノコを見た。
「妻が生前、好きな色だったのです。亡くなって三十年になります。あなたの後ろに写真があります」
エイジロウは壁にかかる小さな写真を指さす。カノコは振り返る。そこには人形を胸に抱いたやさしい瞳の女性が写っている。カノコはどことなく自分に似ているように思えた。
「奥様が胸に抱いている人形は先生がお作りになったものですか」
カノコはタクシー運転手の話を思い出した。
「そうなのです。彼女は私のつくる人形が大好きでね。いつも自分の作った赤い靴を人形にはかせていたのです」
「奥様は器用な方でしたのですね」
「彼女は当時、靴作家の卵でね……」
エイジロウが苦しげにせきこむ。
「先生。大丈夫ですか」
「ああ、大丈夫だ。実は目的があって、君を呼んだのだ」
「目的ですか?」
「そうだ。私に与えられた時間は、もういくらも残っていないのだ」
エイジロウの真剣な表情にカノコは事実を感じた。
「私の死後、新作が発表され続ける理由を話しておこうと思ってな」
「先生のご意向に出来るだけ沿うように努力します」
「ありがとう。では、私が靴を作り出したきっかけを話しておこう。君は昔話にある、小人が靴を作る話を知っているかい」
「はい、存じております」
「私の靴がそれなのだよ」
「はい?と、申されますと」
「朝、目を覚ますと、毎日、毎日新しい靴ができあがっているのだよ」
カノコは我が耳をうたがった。エイジロウが冗談を言っている雰囲気ではない。
「ある時、私は眠ったふりをして、深夜そっと工房を覗いたのだ。するとどうだろう。私の作った、赤い靴をはいたあの人形が、動いて靴を作っているのだ」
カノコはどんな気持ちでエイジロウの話を聞けばいいのか分からなくなっていた。
「あの人形は妻の生まれ変わりだと思うのだ。すばらしい靴を作っているのだよ。だから、私は間違いなくもう間もなく死んでしまうが、新作を発表し続ける。君が管理してくれ。頼む」
カノコは途方にくれた。
カノコはその日、どうやって帰社したのかよく覚えていない。
エイジロウの予言は言葉どおり実行された。
しかし、二度とエイジロウの新作ができあがることは無かった。
カノコはエイジロウの言っていたことは事実だったのか、狂言だったのか今でも悩んでいる。
時代の先端にある男がいた。
彼の名前はエイジロウ。
彼が作った靴を、ロック・スター、有名俳優、スポーツ選手がこぞってはいた。彼は今年で八十歳になる。
創作バイタリティーはどこからわいてくるのか。今年の男に輝いたエイジロウの独占インタビューにカノコは今からのぞむ。
カノコはタクシーに揺られながら、資料の確認に余念がない。
エイジロウは外出を嫌う。極度の出不精でもあった。
インタビューの会場として自身の工房を指定した。
「行く先はエイジロウ先生のアトリエですね。お仕事ですか」
運転手が口をひらく。突然話しかけられたので、カノコは少しびっくりした。
「そうですね」
「有名人の住まいなんで、このあたりで知らない人はいないのです。私の住まいもこの近辺でして…」
「住んでおられるのでしたら、お見かけになったことはございますか?」
「それが、長い間ここに住んでるけど一度も見たことはありません」
「そうですか」
普段の生活が伺えるかと思った問いかけだったが、カノコはあからさまにがっかりした。その表情を見て、運転手が話し出した。
「いいこと教えましょうか」
「はい何でしょう」
カノコは身を乗り出した。
「エイジロウ先生の前職を知ってますか?」
エイジロウは靴製造一筋の人生だったはずだ。
「知りません」
「人形作家だったのですよ。ご存じないですか」
タクシーは落ち葉を踏みながらゆっくりと停車する。
ツタが一面を覆う洋館
運転手と話し込む暇もなく、カノコはタクシーから降りた。
カノコは記者としては中堅の世代になるが、編集長は今回のインタビューにカノコを抜擢した。
編集長がなぜ自分を指名したのか……その理由は教えてくれなかった。
エイジロウが自分のことを話すのは、長い活動期間で初めてのことだった。どういう心境の変化なのだろうか。確かめなければならないとカノコは思った。
カノコの到着と同時に玄関が開き、エイジロウがゆったりとした動きで現れた。
イギリス紳士を思わせる、きちんとした背広を着ているが、顔半分を覆うひげの印象が強い。魔法使いのようだ。
「芸術アカデミーの記者カノコです。本日はよろしくおねがいします」
カノコが丁寧に頭を下げる。エイジロウがカノコの顔を見て一瞬、目を見開いたようにカノコには思えた。
「よろしく。遠くまで大変だったでしょう。ここは私の工房と住居を兼ねた建物でね。誰もいないから遠慮なく入って」
エイジロウは時折振り返ってカノコに話しかけた。
「こちらで数々の名品が生まれてきたかと思うと、胸がつまる思いです」
カノコは先導するエイジロウの後に続く。
何種類あるのかすぐには分からない量の皮が整理され、靴を作る道具がたくさん並んでいる工房を横切った。
カノコは室内を観察しながら違和感を感じる。
どの道具も大柄なエイジロウが扱うには少し小さいような気がした。
「こちらにどうぞ」
エイジロウは二人がゆったり座れるサイズのソファーを手で指し示す。
「私は赤が好きでしてね」
ソファーはイチゴを思わせる、みずみずしい赤色のレザーだった。
「先生が赤色をお好きになったきっかけはございますか」
カノコはエイジロウの思考を出来るだけすいあげようと、ノートを取りだして、インタビューを開始する。
エイジロウは遠くを探るように視線を泳がす。カノコの問いの答えに到達したエイジロウは、晴れやかな表情でカノコを見た。
「妻が生前、好きな色だったのです。亡くなって三十年になります。あなたの後ろに写真があります」
エイジロウは壁にかかる小さな写真を指さす。カノコは振り返る。そこには人形を胸に抱いたやさしい瞳の女性が写っている。カノコはどことなく自分に似ているように思えた。
「奥様が胸に抱いている人形は先生がお作りになったものですか」
カノコはタクシー運転手の話を思い出した。
「そうなのです。彼女は私のつくる人形が大好きでね。いつも自分の作った赤い靴を人形にはかせていたのです」
「奥様は器用な方でしたのですね」
「彼女は当時、靴作家の卵でね……」
エイジロウが苦しげにせきこむ。
「先生。大丈夫ですか」
「ああ、大丈夫だ。実は目的があって、君を呼んだのだ」
「目的ですか?」
「そうだ。私に与えられた時間は、もういくらも残っていないのだ」
エイジロウの真剣な表情にカノコは事実を感じた。
「私の死後、新作が発表され続ける理由を話しておこうと思ってな」
「先生のご意向に出来るだけ沿うように努力します」
「ありがとう。では、私が靴を作り出したきっかけを話しておこう。君は昔話にある、小人が靴を作る話を知っているかい」
「はい、存じております」
「私の靴がそれなのだよ」
「はい?と、申されますと」
「朝、目を覚ますと、毎日、毎日新しい靴ができあがっているのだよ」
カノコは我が耳をうたがった。エイジロウが冗談を言っている雰囲気ではない。
「ある時、私は眠ったふりをして、深夜そっと工房を覗いたのだ。するとどうだろう。私の作った、赤い靴をはいたあの人形が、動いて靴を作っているのだ」
カノコはどんな気持ちでエイジロウの話を聞けばいいのか分からなくなっていた。
「あの人形は妻の生まれ変わりだと思うのだ。すばらしい靴を作っているのだよ。だから、私は間違いなくもう間もなく死んでしまうが、新作を発表し続ける。君が管理してくれ。頼む」
カノコは途方にくれた。
カノコはその日、どうやって帰社したのかよく覚えていない。
エイジロウの予言は言葉どおり実行された。
しかし、二度とエイジロウの新作ができあがることは無かった。
カノコはエイジロウの言っていたことは事実だったのか、狂言だったのか今でも悩んでいる。