歪曲される情報を見る。

日本を馬鹿(馬鹿文系)が叩く、だが、それはどの程度正しいのか?非常に疑問である。

『日本国記』について補追【火曜特集】 「日本はいかに守られてきたか?日本国紀に見る国防」『百田尚樹×有本香×北村晴男×居島一平』【虎ノ門ニュース・2021/11/16(火)】

2021年11月16日 11時06分46秒 | 歴史の謎

アドレスは以下の通り
https://tora8.tv/
日本国記では、百田尚樹氏の大いなる視点「国防」が主軸なので、あの書き方ではあるが、主に文書記録ベースである。
長崎市では、地名に「皿焼き」「瓶(かめ)焼き」とあり、皿は食器だが、瓶は、当時「瓶棺(かめかん)」が使われていた。長崎への入寇は、福田、稲佐、飽の浦、浦上川沿岸とされており、稲佐防衛には、近くの権現山に拠点が在り、それが「皿焼き」「瓶(かめ)焼き」の地名の場所である。
稲佐山道路が出来て行けなくなったが新石器時代の主食:栗・百合根が密集して繁殖しており、ここが防人(さきもり)の拠点であると考えられる。
あまり紹介されないが護国神社は、鎮守の森が円墳で、駐車場が方墳の前方後円墳と言われているが、対面する緑丘中学校も、古墳か、防人の防衛拠点とも言われている。
さて、防衛熱が覚めると9世紀に攻め込まれても京は、無視したと言うが、それどころの騒ぎではなく平安時代中期から幕末に至るまで、京では「唐物(からもの)」と呼ぶ中国からの輸入品が上流階級で重宝された。景徳鎮の白磁や、蘭奢待(巨大な香木:国宝)など、凡そ千年、日本は黄金・銀を大陸に貢いでいた。
その運用で、最初に権力を築いたのが「平清盛」である。黄金の国:ジパングの通り名は、最初は東北の「砂金」から、金無垢へと変わったが、世界の黄金の多くが日本起源で、それ故、日本:ジパングは、世界中に知られていた。
戦国時代も貿易は活発となり、益々金銀は出て行ったが、貿易熱は冷めやらなかった。それを最初に危惧したのが「徳川家光」であり、鎖国は海外からの宗教侵略と金銀の流出防止が目的だった。
当時も「唐物」の輸入が多かったが、それよりも大量に輸入されたのが「砂糖」だった。
コレは、元々漢方薬として扱われ、江戸時代は「薬種問屋」が扱うモノだった。だが、将軍が独占する砂糖を織田信長が、自由に使い、それが文化として広まり、江戸時代初期には庶民まで広がった。幕府は毎年毎年膨大な額を「鎖国後」も砂糖に費やした。
今、東北などで見られる「気が狂った様な量の砂糖を入れる料理」は、この時出来たのであろう。ただ、幕府は砂糖購入圧力を止められなかった。
そこで、五代将軍綱吉は、土佐での砂糖黍(さとうきび)生産⇒製糖を企図し、懇意だった、後の八代将軍吉宗に色々話していたのだろう。実際、土佐での砂糖黍(さとうきび)生産を指揮統率したのは八代将軍吉宗である。
この砂糖黍生産は、幕末近くになると、薩摩:島津藩が仕切り琉球国で生産し、同時に中国交易で、財を蓄えた。それも庶民から家老まで出世した調所 広郷(廣郷)(ずしょ ひろさと)の力に依る所が大きかった。
かくて、日本が開国した所以は、砂糖も一部、関わっていた…、日本国記には、無い話だが…


小説ネタなんですが…。柳沢慎吾主演で「一人相撲(ひとりすもう)」って時代小説をドラマ化したいです。

2021年04月23日 15時45分00秒 | 歴史の謎

江戸時代は、実に変わった商売があり、とびきり変な商売に「孝行息子」と言うのがありました。これは今で言う着ぐるみを着て歳をとった親の人形を背負って町中を歩いて「へーい!孝行息子で御座います!へーい!孝行息子で御座います!」と言っていると、幾らか貰えるのだそうです。
こんな中、「一人相撲(ひとりすもう)」は、当時ラジオもTVもカセット、ビデオが無い時代、形態模写は、唯一盛り上がれる動画だったのです。
時代劇では一回だけ話には出たのですが、江戸っ子の最大の楽しみは「勧進能」と「勧進相撲」で、両国の日除け地に舞台や土俵を設えて行いました。
勧進と冠が付くから、商人なら沢山寄進をしたり、士分では、位の高お武家が「砂かぶり」の場所を陣取れました。しかし多くの人は近くの家の天井や橋の上からの見物でした。
だから腕が良い「一人相撲(ひとりすもう)」は、夜昼無くお呼ばれが多く、また相撲の巡業興行にも付いて行ったり、東北など巡業が無さそうな所へ行ったりしていたそうです。
柳沢慎吾氏は、高校野球や警視庁24時なんかの一人芝居が持ちネタですが、実にあのテイストこそが「一人相撲(ひとりすもう)」の其れなのです。
江戸時代の相撲は熊本が本家で、そこで「初場所」が行われ、その後長崎で「長崎場所」が行われ、江戸へと向かいます。長崎では、7つの種類の鍋が出されて、其れを食べるのが力士の楽しみでもあったそうです。中でも一番人気だったのが鶏の出汁が基本の「しゃんこ鍋」で「ちゃんこ鍋」の語源の一つと言われています。
大名行列ではないですが、力士たちは、江戸への長い旅を歩いたのですが、大抵は大名の城や屋敷で歓迎を受けて相撲を力士同志でやったり力自慢の強度の人と取ったりしていたそうです。
柳沢慎吾は、あのまんまの役です。最初、恵まれない環境で生まれた彼は、それでも持ち前の形態模写の才能で、人を喜ばせることに生き甲斐を見出し、その後、独自の工夫で、「一人相撲(ひとりすもう)」の名人と呼ばれるようになりましたが、最期は巡業に付いていく途中で流行病で死ぬのですが、兎に角、当時の芸道の花形で、楽しい思い出を連れての死でした。
話の中では、柳沢慎吾氏が「はい!何年の、どの取り組みと参りましょうか?」と縁石のどまんなかで訪ねます。「宝永2年の雷電為右衛門と‎市野上浅右エ門の一番はどうだ!」「ヘイ!頂きました」と土俵入りから形態模写が始まり、「年号が変わっても負け無しの雷電為右衛門は、六尺三寸の巨体をのっしのっしと歩いてまいります。こんな風で御座います。」と言って、真似をすると「そうじゃそうじゃ!砂かぶりで見ていたから分かる、雷電為右衛門は、たしかにそうやった」と宴席の首座を座る大商人が手を叩いて笑うのです。
こんな感じで、昔の人が今も有る相撲をどう楽しみ、どの様な感慨で居たのか?を描けたらと思いますが、ちょっと書く量が多いので、二の足を踏んでいます。
取り敢えず、余計な話でした。


3000年前のグローバル経済から軍事国家への移行①

2021年03月31日 08時14分19秒 | 歴史の謎

地中海での文明の急速な発達
実はシュメール王国が誕生してから、地中海周辺には、ヒッタイト、アッシリア、ユダヤ王国の様な国が次々出てきました。この頃、金銀銅や、布、食料が貨幣として流通し、また、吉村作治早稲田大学教授が発掘した5000年前の「太陽の船」の発掘により、当時、大型輸送船に依る、地中海を仲立ちにした地中海貿易が活況であり、長い間営まれていました。
金銀銅は、貨幣の様に小さくせずにインゴッドで、金幣、銀幣、銅幣として目方と相場で扱われました。つまり、これら金属は「質草」として、保証金としての役割をしていたようです。
今年、東京に2つの大きな植物工場が穀物メジャーの資本で出来ますが、その基礎は、オリエントの、日本とは比較にならない野菜食文化があり、それらの流通も然ることながら、商業が活発化していました。
当時は、レバノン杉がアチコチに存在し、その流通は、大きな富が動く原動力でした。
シュメール王朝初期の頃は「サハラ砂漠が草原」だったとも言われ、その活況は、凄まじいものでした。
この頃には、楔形文字:アッカド語は、相当広まっており、これら記録メディアの発達も重要でした。
これらは、先物取引などのヘッジファンドが無いので、物重視の安定的経済でした。
今、漫画で「海賊ごっこ」が受けていますが、重大な問題がありました。この頃の地中海には、海賊がほぼ居なかったのです。
この頃の船は、今の飛行機みたいな先端技術で操船も儘なりません、加えて、天測・海図・船の建築と、当時の技術の最高峰で、船の操船出来るものはエリートで、泥棒=海賊をする必要はなかったのです。
だから、気候に依る座礁などはあっても、無保険で船舶貿易が可能でした…、紀元前1000年のカタストロフの前までは。
海の民
ここに急に、大西洋北部から異様な集団が、ジブラルタル海峡を越えて地中海を越えてきました。それは今だに歴史の「?」を多く抱えている民族で、様々な国の歴史的記録には、彼らをこう呼んでいます。
「海の民」
彼らの乗る船は、おおよそ地中海を往来する船とは違い、細く、船足が早く、波間に隠れて地中海に多く居る「輸送船」という「獲物」を捕り放題で、残虐無比でしたが、武力は圧倒的に上でした。
この時点で数年のうちに海岸の国家はほぼ全滅したといいます。恐るべきは、海の民は、陸上のシュメール国家群へも戦いを挑み、勝利を続けていました。
この頃「古代ピラミッド文明期」で、エジプトのファラオも大群を上げて大決戦に及んだのですが、それでもファラオが矢を受ける重症で、負けはしませんが痛み分けでした。
その後海の民は弱くなったわけではないのに、地中海を離れて何処かへ向かい誰も後を追いもしなければ、知りもしなかったのです。
ただ、その海の民が何語で残したか不明の文章をしめします。
「我々は一体何者で、そして、今後、何処に行くのか?」
この後、地中海での航海は危険が伴うようになり沈滞しました。自由を謳歌した商人文化は廃れ、護衛の傭兵・用心棒が幅を利かせました。
それを広い領域でやろうとする勢力が出ました。カルタゴとローマです。
その前に、大きな動きが現れました。
「アレキサンダー東征」です。