時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

羽生善治は孔子である 『決断力』 読書録

2012年01月25日 | 読書録
羽生二冠(2012年1月現在)の本を読んでみました。どうしても以前記事にした渡辺明竜王の本と比較して読んでしまうのですが、両者はかなり対照的。こちらの方は、本に構成・構造がない。いちおう5章に分けられていますが、それぞれがまとまった内容を論じている訳でもなく、章を追うにつれ、話が展開していくわけでもない。なんとなく始まって、どこに着地するでもなく終わります。

『決断力』というタイトルになってはいますが、それが全体を貫くテーマ、というわけでもなく、著者が考え、実行してきたこと、それに対するコメントなどが雑多に、つぎつぎに述べられる。もちろん、鋭い指摘、洞察や、彼の経験や実績に照らしたときに味わい深い教訓がちりばめられてはいますが、誰に向けて、何のために書かれたのか、最後まで不明のまま。

羽生さんはここ20年ほど、ずっと棋界の第一人者で、CMにも出るような有名人。将棋界の外の世界から講演に呼ばれることも多いようで、人前で話すこと等には慣れも経験もあるのでしょうが、少なくともこの本に関しては、論理的に、まとまった内容を構築しようという考えはないように見えます。「将棋の楽しさを伝える」という明確な目的を達成すべく、きっちり構成された、渡辺さんの本とは全く異質。今の羽生さんに求められるものがそもそも違うのかもしれませんが、それだけではなく、一貫した内容とか、構成とか、そういう「細かいこと」にあまり興味がない人なのではないか、渡辺、羽生両氏は人間のタイプそのものからして、けっこう違うんじゃないか、という気がします。

というわけで、端的に言えばこれは『論語』みたいな本。羽生さんの容貌とは異なりますが、豪放磊落なエライおっさんが、思いついたことをあれこれ適当にしゃべる、追っていくと同じ内容の繰り返しもあるし(ある)、ある部分とべつの部分では矛盾しているかに見える発言さえある(ホントにある)。でも、それぞれの発言には(たぶん)深い洞察・教訓が見出せる、と。「それなら論語みたいに、何度も読んでみるといいのか」と、もう一度読んでみましたが、やっぱりよく分からない。初見の印象を確認しただけ。ということで、記事のタイトルになりました。

もちろん印象的な箇所はいろいろあって、とくにおもしろかったのが、彼が獲得賞金にはほとんど興味がない、と言っていることです。ずっと他の棋士を遠く引き離す賞金獲得額を続けている彼がそんなこと言っても、「十分もらってるからでしょ」と言われてしまうかもしれませんが、この本全体から受ける羽生さんの印象から推察すると、本当にそうなのではないかと思えます。言いたいことはなんだかよく分からないけれど、この人がなぜずっとこんなに勝ち続けているのか、だけはなんとなく分かる、そんな本でした。

溝口優司『アフリカで誕生した人類が日本人になるまで』

2011年12月28日 | 読書録
去年から今年にかけて、人類史にとってかなり重要な新発見がありました。その一つが、ネアンデルタール人の遺伝子が現在の人類に少し貢献しているということで、これで、ここ20年ばかりかなり有力な学説だった「人類のアフリカ単一起源説」に若干修正の必要が認められそう。また今年、「光より速い物質を発見!?」という報告があり、「アインシュタインの相対性理論が覆されるか?」が物理学者の大きな関心事になりそう。

科学的研究の真価は、このように、有力な学説であっても、新たな発見によってくつがえされる可能性を必ず残しているところにあるのではないでしょうか。その意味で、「科学的研究によって○○を<証明した>」というのは、数学の定理のようなものでないかぎり、正しい伝え方・理解ではないはず。

また、「△△は科学では証明できない」というのもよく聞きます。これも、無理にでも主張したい考えがあり、それに否定的な判断を下しかねない科学の価値をおとしめるための詭弁に過ぎないことがほとんどと見えます。実際たとえば、Bloomingtonの街角で、ある世界的宗教を奉ずる人が私に対して、この論法で自らが信ずる宗教を弁護しました。しかし、科学によって得られるのは常に、現時点で知るに至った確実性の高い証拠から導き出せる、他と比べて最も信頼性の高い考え方に過ぎません。これは最も誤解されている点の一つであり、かつ、「科学的な言説」と、「(過去は科学だったことがあるにせよ)科学的ではない言説」とを明確に分ける点だと思います。だから、「科学には証明できない!」と言ったところで、(少なくとも真の)科学者ならそもそも「証明しました」など主張するはずもなく、批判になっていません。

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前置きが長くなりましたが、表題の本について。著者は、日本人の変遷にかかわる科研費プロジェクトの代表者だった方。その報告Webpageで「本プロジェクトが発足して2年半後の2007年秋、それまでの知識では班員全員の同意が得られるようなシナリオは作れませんでした」と書かれているのを読む前に知っていたので、この本もそれを反映し、かなり保留つきの、結論を濁した内容になっていると予測しました。

読んでみたところ、筆者はそれよりはかなり踏み込んで、個人的に現時点で最善と考えるシナリオを披瀝してくれている、という印象です。その中には、筆者が、「かなり確実」とお思いの箇所と「ここはまだまだ」という箇所があるのでしょう。個人的に注目なのは、(1)縄文人がオーストラリア先住民等と同系、(2)プロセスはどうであれ、結果としては本土の現存日本人は、3000年前以降というかなり新しい時期に到来したいわゆる「弥生人」にほとんど置き換えられたに近い、(3)そのニューカマーたちは、「中国東北部から江南地域にかけて住んでいた」可能性が高い、というところです。

以前紹介した、系統分岐の統計手法を利用した日本語族の系統の研究について、「朝鮮日報」が「東大教授が日本語のルーツは韓国語にあり」と伝えました。しかし、(3)を参照して考えれば、日本祖語が弥生系ニューカマーが持ち込んだ言語だったとしても、それは中国東北部に3000年前ごろ以前に話されていた言語由来である可能性をまず考える必要があるでしょう。たとえ彼らが朝鮮半島を経由して来たにしても、日本語族に属する言語が日本列島と沖縄諸島にしか見られず、半島に残っていないことを考えると、日本祖語を現在の朝鮮語(やその祖語)に結びつけるのは相当に無理があります。(結びつくんだとしても)たとえば、日本語も朝鮮語も当時中国東北部にいた民族の言語由来で(そこで結びつくが)、たとえば朝鮮祖語も日本祖語も、別系統の言語の影響を強く受けて、各々別の方向に大きく変容してしまったとか... むしろ、「どっちかがもう一方を起源に派生した」というような直線的な結びつきには限りなく否定的な証拠がそろっている、というのが現状でしょう。

(追記:「朝鮮日報」の伝え方につき、記憶違いで勇み足をした部分があり、訂正しました)

ともあれ、人類史や極東アジアにいた(&いる)人々についての歴史について、さらに新たな知見が見出され、以前は定説と見られていた考え方に修正が加えられていくのは科学として健全であり、エキサイティングなこと。現時点での個人としてのベストを伝える努力を払ってくれた著者には(僭越ながら)感謝と敬意を表したいです。

渡辺明 『頭脳勝負』

2011年12月28日 | 読書録
日本に帰って2ヶ月ちょっと、目が回るほど忙しく、ばたばたしているうちに年末になってしまいました。その間、高知、香川、京都、石川(白峰)と研究している方言が話されている地域に行けたのは、幸いでした。

英語を教えることになったこともあり、英語を読み、聴く量はあまり減らしていませんが、日本に帰ってきたので、住むことになった小さな市の図書館にときどき通って、日本語の本も読むようになりました。いちばん最近読んだものがこれ。

渡辺明 『頭脳勝負 ―将棋の世界―』 筑摩新書

印象的だったのは、渡辺竜王本人が書いたに違いないということこと。たまに(ほんの二三箇所)分かりにくい表現があって、逆にゴーストライターによるのでないことを確信します。でも、ほとんどの箇所、文章は非常に明晰。将棋ファンならご存知のとおり、彼は、将棋の解説も明快・流麗。本当に頭脳明晰なのでしょう。

竜王は、ふだんの生活や、研究や、戦略等をかなりあけすけに話してくれる方のようで、奥さんのブログ(嫁さんはこっちのほうが好き)もふくめて、棋士としての勝負の「裏側」をかなり明らかにしてくれています。この本も同様に、渡辺竜王の人物がかなり端的に反映されているように見えます。

前半は、棋士としての生活はどんなものか、対局という勝負をどのようにとらえて日々や一年のシーズンを送っているか等が書かれており、後半は、具体的なタイトル戦などの解説になってます。著者ご本人は後半に苦労して、結果上手く書けたと思っているようですが、私はむしろ前半の方が楽しめました。とくに面白いのが、彼の棋士としての人生設計みたいなものを書いた箇所。システマティックな面も、適度に力が抜けた面もある。深淵で求道者的な羽生善治さんの発言に比べて、人間っぽくて、若々しい。後半も、終盤の秒読みぎりぎりで手が浮かんだ場面の心理(というか彼自身の認知過程みたいなもの)を披瀝してくれたところ等、読み応えあり。

この本が書かれたのは4年ほど前。その後、竜王戦3連敗4連勝もやり、現在8連覇。将棋界の中心となろうとしつつある彼が、このようにプロとしてのサービス精神を発揮して、かなりありのまま内情を見せてくれる(と見えるのですが)というのは、よいことだと思います。

ここ一年ほど、将棋を主にインターネットで観るようになりました(「+ニコニコ生放送」がいちばん好き)。将棋自体の技量はまるで低いわれわれ夫婦にとって、将棋観戦を楽しむ軸は竜王(夫婦)。彼がいなければ、われわれの興味も今ほどにはならなかったことはまちがいありません。竜王本人としても、「棋力が高くなくても将棋は楽しめるということを伝える」というのが執筆の一つの目的だったとのことで、そのことにはかなり成功しているのではないでしょうか。勝負の邪魔になってはいけないとは思うのですが、(将棋戦術の)研究書だけでなく、こういうのもまた書いてくれると、うれしい。