時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

あらいぐま

2013年04月15日 | かぞく
暖かかった昨日の午後、嫁さん娘と私の三人で近所の川に行ってみました。ザリガニ捕りが目的でしたが、まだちょっと早かったよう。でも、きれいな水の農業用水が川の脇を流れており、嫁さんに「これがタニシ」と教えてもらった娘は、ひざまで水に浸かって取りまくり。今も家に10体ほど。

遊び足りない娘は、ぐっしょりぬれた服を着替えたあと、土手に土筆を取りに。用水に向かったところで、畑仕事にいらしていた3人の年配の方に呼び止められました。「罠にかかったアライグマがいるから見てごらん」と。この手の小動物が出て作物を荒らすので罠を仕掛けているのだけれど、昨日はこれがかかったとのこと。写真の畑はたんぼと住宅地に囲まれたかなり開けたところにあって、里山や林まではけっこう距離があるのだけど、それでも食べ物を求めてこんなところまで降りてくるらしい。土筆はもうみんなスギナになっていて収穫できず、でもそれを持ってきて食べさせようとする娘。警戒して檻の隅まであとずさりするアライグマ。(動物園以外で)初めて見ましたが、ずいぶん大きいものだなあと。再び野に放つのは禁じられているようで、保健所に連絡するとのお話だったので、かわいそうながら、最終的には殺されてしまう可能性が高いのだと思います。

お三方は、三年前から(たぶん趣味で)畑を整えていろいろ作り出したとのお話。男の方の説明を聞きながら、こんなに東北っぽい音声の人が岐阜にいるのか? 年配者には自分が聞いたこともないこういう訛りがあるのだろうか... と不思議に思っていたのですが、あとでもうお一方が「あのご夫婦は秋田から来たの」と教えてくれて、なーんだ、と。いつのまにか娘は収穫に混ぜてもらっていて、けっきょく野菜をたっくさんいただくことに。ご近所に分けて、残りのワケギはゆでてゆず味噌で、菜の花はおひたし、抜いた雑草は、幼稚園のウサギのえさ。菜の花と紫ダイコンの花は、食卓に飾りました。ザリガニはいなかったけれど、娘大満足の春の休日でした。

見せてあげる

2013年04月02日 | 
娘はトイレに入り、うんちが出るとたいていのばあい便座に座ったまま、

で~~た~~~~!

と、大きな声をあげます。これは「見に来て」とわれわれを呼んでいるのでして、嫁さんか私のいずれかが見に行くことになります。トイレで用をたせるようになってからわりとすぐ、ちょっと便が出にくかったりすることがあって(その逆でゆるい場合も)、「出たら呼んでね、チェックするから」と言い聞かせて、見に行って「いいウンチだねー」とかなんとかコメントしてた時期があります。ちかごろは呼ばないこともあるし、幼稚園ではふつうに自分で済ませているようですが、今も原則的には、来て見てコメントしてほしいようです。

昨晩も呼ばれて私が見に行き「いいウンチが出たねー」と感想を述べると満足そう。見せてもらってうれしいようなものではないですが、こちらへの愛着がなければしないことでしょうし、いずれ、どんなに頼んでも見せてくれなくなるのは確実。服を着なおすのを手伝いつつ「いつまでこうやってウンチ見せてくれるかな」とつぶやくと、こちらの言うことを常に注意深く聞いている彼女、

死ぬまで見せてあげるよっ

こちらは苦笑。トイレから戻ってすぐ嫁さんに「ということは、俺はわりとすぐに死なないといけないらしい(じきに見せてくれなくなるだろうから、その頃に)」と報告。

傍から見れば妙な光景でしょうが、こういうような場合、英語で話します。「すぐに死ぬ」とか言うと娘が泣き出しかねないから。とはいえ、娘のほうから「死ぬ(まで)」ということばが出たのはここまで記憶になく、どういうことか不明ですが、彼女の中でさらに進行中の何らかの変化を反映しているのかもしれません。

先日、西原理恵子さんの『生きる悪知恵』(2012 文藝春秋)という本を読んだら「お父さんにとっては毎日がカウントダウン」とありました。この「ウンチ見ろ」のカウント・ゼロもそう遠くはないことでしょう。その日まで存分に見せてもらうことにします。