伊吹島では、とくに昔の暮らしぶりについて聞かせていただけました。その中で驚いたのが、この島も米軍に攻撃された、ということ。もう一つの調査地である詫間町沖の粟島なら、海兵学校があったので、米軍側としては攻撃の理由もあったでしょうが、いりこ漁で豊かだとはいえ、こんなところまで。今夏父母が回顧していたところでは、故郷の岐阜の多治見も空襲にあったとか。あんななんでもない田舎町まで攻撃されるまで引っ張るとは。知識がないので、迂闊なことを言ってしまうことを恐れますが、やっぱり「降伏遅すぎ」と思わざるを得ません。
(後日訂正 粟島にあったのは「海員学校」で、普通の船員を養成していたのだそうでした。軍事には関係なかったのかもしれません。)
最近、知り合いのドイツ人(日本在住)と広島の平和公園の記念館への滞在について話したら「あそこの展示内容はがっかりだ。被害者的観点があまりに強くて、この結果を招いた日本側の責任に目を向けていない」という意見でした。上記のことを考えると、分からなくはありません。
伊吹島民俗資料館によると、伊吹島の人口が最も多かったのが1931年。面積が1.05平方Kmしかないところに4448人もいたっていうんだから、大阪府並みの人口密度だったことになります。今は、島で本当に暮らす人は500人程度だそう。この静かで平和な島に、もう爆撃などないように(かつ活気が続くように)願いたい。
一昨年の招待講演に来てくれたBarrettという先生(たぶん)が「言語学者は、地域の人が望むことをしないので嫌われることが多い」と言っていました。現地の人が言語学者に期待するのは、言語復活のための再教育に使える教科書や辞書作りなのだそうです。
音声研究をする私などその典型例で、そんなことをする興味も力量もないのですが、幸い伊吹島方言は(とりわけアクセントで)有名だし、ご当地の人もそれなりのプライドを持ってくださっているようで、調査はさせてもらいやすいところだと思います。振り返ってみると、どの地域でも一方的に世話になりっぱなし。たとえば今回のように、他の分野の研究者とのつながりができることで、何か道が開けて、少しでも恩返しができる機会があるといいのですが。
(後日訂正 粟島にあったのは「海員学校」で、普通の船員を養成していたのだそうでした。軍事には関係なかったのかもしれません。)
最近、知り合いのドイツ人(日本在住)と広島の平和公園の記念館への滞在について話したら「あそこの展示内容はがっかりだ。被害者的観点があまりに強くて、この結果を招いた日本側の責任に目を向けていない」という意見でした。上記のことを考えると、分からなくはありません。
伊吹島民俗資料館によると、伊吹島の人口が最も多かったのが1931年。面積が1.05平方Kmしかないところに4448人もいたっていうんだから、大阪府並みの人口密度だったことになります。今は、島で本当に暮らす人は500人程度だそう。この静かで平和な島に、もう爆撃などないように(かつ活気が続くように)願いたい。
一昨年の招待講演に来てくれたBarrettという先生(たぶん)が「言語学者は、地域の人が望むことをしないので嫌われることが多い」と言っていました。現地の人が言語学者に期待するのは、言語復活のための再教育に使える教科書や辞書作りなのだそうです。
音声研究をする私などその典型例で、そんなことをする興味も力量もないのですが、幸い伊吹島方言は(とりわけアクセントで)有名だし、ご当地の人もそれなりのプライドを持ってくださっているようで、調査はさせてもらいやすいところだと思います。振り返ってみると、どの地域でも一方的に世話になりっぱなし。たとえば今回のように、他の分野の研究者とのつながりができることで、何か道が開けて、少しでも恩返しができる機会があるといいのですが。