時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

小学校4年生の英単語

2011年04月30日 | ことば
毎週火曜日、嫁さんが留守番に行っているお宅に、小学校4年生のお嬢さん、タイスがいます。甘えん坊で勉強もあまり好きじゃなかったようですが、最近はうちの娘をとても可愛がってくれて、だんだんしっかりしてきたようです。

毎週、学校で単語のテストがあるらしく、練習したあと、嫁さんにくれるらしいのです。ときどき見せてもらうのですが、これがなかなか、難しい。上の写真は今週のもの。以下の単語が載っています。

bisect
carnivore
Civil War
condensation
consumer
cubic
details
dissect
evaporation
herbivore
omnivore
paraphrase
participation
precipitation
producer
severe
solid
square
supporting
vapor
volume

今回はたまたま全部知ってましたが、知らない単語が混じっていることもあります。小学校4年でこの難しさか、と驚きました。さすがにネイティブ。理科や社会等の学習で出てくる単語で、テストは、(たぶん先生が発音して)綴りを間違えずに書けるか、というものらしい。だから、生徒たちは意味も知ってるはずです。

NY英語を聞け

2011年04月20日 | ことば
先週のこと、音声知覚研究で有名な、心理学科のDavid Pisoni教授が、インディアナ大学の認知科学のメーリングリストCognoscente上に「"If you don't like the way I talk........" Check this out!!!」というメッセージとともに、以下のリンクを送ってきました。

http://newyorkaccentfilm.com/

IF THESE KNISHES COULD TALKというタイトルのサイトで、NY英語を話す人のビデオを集めてアップロードしているようです。まだ始まって1年ほどで、それほど量も多くはなく、学術的なものではないですが、BBC、NY Daily Newsなどのメディアでも取り上げられたようです。

最近アメリカで研究が盛んなSociophoneticsをやっているウィルにこの話をしたところ、NY英語は、日本語東京方言と違って、Standard American English(放送局のキャスターなどが話す英語など)の基盤ではなく、それにいちばん近いのはむしろわれわれのいるMidwestといわれる地域だとか。

Pisoni先生や、言語学科を引退したBob Port先生なんかは、もう30年前後Bloomingtonにいるのに、いまだに頑としてNY英語を守っている、とよく聞くのですが、このサイトのビデオに登場するニューヨーカ-にも、NY英語に対する強い自負を表明する人が多い。われわれに訛りはない、他が訛ってるんだ、と。未だに、これがNY英語だ、という特徴はつかみきれていませんが、韓国&イタリア系ニューヨーカーのビデオとか、NY英語の話し方講座などもあって、楽しめました。

語順の「普遍性」は支持されるか

2011年04月19日 | ことば
先日、Science誌のことばに関する論文を紹介しましたが、科学誌Natureにもことばに関する新しい成果の発表がありました。これもBBCのWebsiteで紹介されていました。
http://www.bbc.co.uk/news/science-environment-13049700

Michael Dunn, Simon J. Greenhill, Stephen C. Levinson & Russell D. Gray
Evolved structure of language shows lineage-specific trends in word-order universals
NATURE, doi:10.1038/nature09923.

この論文のテーマは、Chomskyを中心とするいわゆる生成文法学派や、Greenbergの認知バイアスに基づく理論が予測するような、たとえば「前置詞型言語なら、VO(動詞-目的語)型」という共起関係がほんとうに世界の言語に普遍的に見られるのか、ということ。

まず、各言語の基本語彙をデータとして、言語の系統樹を再構しています(一部をコピーして画像にしました)。こういうのは、その昔の「言語年代学」の焼き直しかと思われる方もいるかと思いますが、分子進化学で洗練されて来た手法が導入され、コンピュータのパワーも桁違い。言語学者も真剣に相手にすべき成果が生まれてきているのではないか、と思います。Gray-Atkinsonが2003年にNatureに出した、印欧語族の起源にかんする研究(トルコ・アナトリア地域という仮説を支持)など、私はワクワクしました。

取り上げられた語族は、オーストロネシア、バントゥー、印欧、ユト・アステカの4つ。世界各地から、系統関係が比較的よく分かっている、わりと大きい語族をもってきた、という感じでしょうか。

さらに各言語について、上記2つの理論でよく引き合いに出される「形容詞、前置詞/後置詞、指示詞、所有格の句、数詞vs.名詞との語順」および「目的語、主語vs.動詞との語順」を決定。上記4つの語族それぞれで、この語順パターンに関して、上記の「前置詞だったら、VO型」というような共起関係があるかどうか検討しました。

「共起関係がある」とするかどうかの判断には、(難しい詳細は分かりませんが)「共起関係あり」「なし」の2つのモデルの確率分布をベイズ統計の方法で更新して、ベイズファクターを求めるという方法を使ったようです。ベイズを使う利点の一つが、構築した系統樹の(事後確率の)不確かさを計算に入れられること。だから、系統樹が適切に再構されたか否かに結果が比較的左右されない、ということなのでしょう。Atkinson論文と同様、ウェブ上の補助資料あり。詳細はそちら。

さて、結果は

1. Chomsky学派や、Greenbergらの理論が予測するような共起関係は、印欧語以外にはわずかにしか見出されない。印欧語についても、関係詞の語順は他と依存する強い証拠がない。

2. 逆に、上記2つの理論が予測しない共起関係が見られる。

3. 全ての語族に見出される共起関係は少なく。むしろある語族だけにあてはまる共起関係が多い。

4. オーストロネシアと印欧、2つの語族に見出される「前置/後置詞-VO/OV」という共起関係も、異なるルートで成立したことが裏付けられる。したがって、両者が「同じ傾向を示す」とは言えない。 

結果が意味するところは、

語順の特徴の共起関係は個別的・偶発的なもので、それが語族内で受け継がれるため近親の言語グループの語順のパターンが似通う、と考えたほうがよい。人に普遍的な言語or認知能力に支配されているという考えは支持されない。

といったあたりだと思います。

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BBCの記事には、ハーバード大のSteven Pinker氏のコメントもありました。「方法の精緻化が必要だし、生得説を認めない場合どのように語順の違いが生ずるかという説明も必要」とのこと。でも、かなり単純な方法、直接的な検討がなされた結果、普遍性の証拠が見出されなかったことは重いだろうと。UGが胡散臭いと思っているワタクシとしては、好ましい方向です。

著者たちにとっては重要でないかもしれませんが、上記「結果1」は、いわゆるUGのパラメータに(あるいは、Universalityを見出そうという研究指針自体に)、印欧語の知識の強い影響からくる偏りがあることを示唆しているように見えます。

この意味でも、世界各地の、話者の少ない言語にももっともっと光が当てられるべきでしょう。もちろん日本の方言にも。アメリカ言語学の知見の多くが、大学キャンパス内で、学部学生を被験者として生み出されているのは、少ない予算、限られた時間を考えると理解できる部分もありますが、長い目で見たとき、分野全体としては、重大な過ちも生みかねない、と思います。

ことばも Out of Africa

2011年04月16日 | ことば
人間(ホモ・サピエンス)のアフリカ起源説は、去年のいくつかの新データ提出で多少の修正が必要になる可能性が出てきたものの、大枠としてはほぼ間違いないんだと思われます。ところで、サイエンス誌最新号にことばに関して興味深い論文が載りました。(ちなみに、この報はBBCのPodcastで知りました)

Quentin D. Atkinson
Phonemic diversity supports a serial founder effect model of language: expansion from Africa
Science, 322, 346-349.

さっそく読んでみました。以下に簡単にまとめます。

まず、Phonemic diversityというのは、何のことはない、その言語のもつ音素の数の多寡。子音・母音に分けた分析もやって、ほぼ同じ結果を得たそうです。

つぎに、founder effectというのは(言語の場合)、ある集団の一部が他へ移住して、新たな少人数の集団を構成すると、そこで話されるようになる新言語は、音素の数が少なくなる、という仮説。同じ状況下で、遺伝子の多様性が失われるといういわゆるボトルネック効果のアナロジーのようです。


504の言語データをなんだか凝った分析、といっても基本は重回帰分析のようなもんだと思いますが、それで検討したところ、大雑把にいうと以下のような結果になった。

1. 話者人口の規模と、言語の起源地からの距離を説明変数にしたモデルで音素数の多寡の(分散の)かなりの部分が説明できる。具体的には、多いほうから

アフリカ > アジア > 欧州 > 北米 > 南米 > オセアニア

となる。複数の統計モデルの比較の結果、アフリカ中南部を起源とするモデルが最も支持された。

2. このモデルは各語族内での音素数のちがいも同様に上手く説明する。また、最終氷期以降の移住の影響を調整してもアフリカとの距離の効果が消えない。以上から、このモデルで地球全体、地域規模いずれのレベルの現象も説明できる。

3. 起源地を複数にしてもモデルが改善しない。したがって最初の分析どおりアフリカ単一起源モデルがベストである。

4. 人口密度、地域の言語多様度など、言語接触を促進しそうな要因を加えてもモデルの説明力は上がらない。音韻の多様化が、人類の世界への拡散と同様、大きく見て急速で、一本道の拡散だったことを裏付ける。

以上から浮かび上がる人類の言語発展モデル:
- アフリカから世界へ人類が拡散する。
- それにともなって、移住した小集団から新たな言語(と言語グループ)が発展するたびに音韻の多様性が下がる(あるいは、移住しなかった大集団で多様性がそのまま増し続けるため相対的に低くなる?)
- また新たにそこから多様化を始める。
- したがって、アフリカから遠い地域ほど、音素数が少ない。

概略をまとめてみましたが、サイエンスのウェブサイトからダウンロードできる補助資料が非常に詳しく、本論文内でもそれをかなり参照してるので、ちゃんと検討するにはそっちも熟読する必要がありそうです。

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正しく理解して紹介できているかどうか不安ですが、この結果は、人類と同じく言語もアフリカ単一起源であること支持するとともに、言語が人類がアフリカを出るかなり前の段階で、音素数が現在と同じくらいになる段階まで進化しており、音韻の多様化が進んでいたこと、だから人類がアフリカを出てから言語が進化して、あとからアフリカに戻ったというような筋書きは支持されないことを示す、と考えられるようです。

でも、話者数がかなり多い日本語の音素数は少ないですね。局所的な状況も説明できるということなら、日本の方言内での多様性も説明するんでしょうか。たとえば、区別の多い京阪アクセントと区別のない無アクセントとか? 中央日本語の歴史を考えても、急な移住はなかった(と思う)のに、アクセントは対立項の数を減らしてるし、音韻も上代は母音の数を減らした可能性があるわけだし、などなど、反例が浮かびます。R-squaredはせいぜい30%とかなので、もちろん傾向としては確実なものですが、それ以外の要因による変動もいろいろあるでしょうから、全てのケースにあてはまらないのは当然。

引用文献を見て驚いたのが、「言語人口の多寡と音素数に相関がある」という観察事実。University of CanterburyのJennifer HayさんがLanguageに論文を出してたんですね。気づかなかった。Atkinson論文に戻ると、遺伝子多様性の話とあまりに整合しすぎで、ほんとかい、と首をかしげたくなるんですが、方法的にわりと単純なこともあり、「実は他の要因によるんであって、この相関は見せかけです」という証拠を提出しない限り、認めるべき結果だと思いました。

風評被害(?)の責任

2011年04月11日 | 
先日、NPR(アメリカのラジオ局)のPodcastで、東北の大地震以降しばらく日本に滞在した記者の談話を聞いたのですが、その一人が「日本の文化の違いを感じた。彼らは当局が『危険のレベルはこれこれこの程度です、差し迫ったものではありません』と発表したら、基本的にはそれを額面どおり受け取って行動する。わが国との大きな違いだ」と驚き(とたぶん敬意)をこめて述べていました。アメリカなら、不信・陰謀論等が巻き起こり、収拾がつかなくなる可能性が高い、ということだと思います。日本人は恐怖や不満がアメリカ人に比べて明瞭になりにくい(あるいはアメリカ人には受け取りにくい発信の仕方をする)、という表出レベルの差もあるのでしょうが、基礎的な教養レベルの高さや、行動の秩序正しさも反映しているのではないかと思いました。

ところで、いつも読んでいる小田嶋隆さんの日経ビジネスオンラインのコラム、ここのところ地震関連の記事が続いています。先週の記事は「この「風評」の半減期はどのくらい?」というタイトル。頭と終わりはその通りだと思うんですが、コラム半ばで、「風評に踊らされる庶民を露骨に軽蔑する」専門家の態度は、「恐怖」に対する無頓着さを表す、として

  目の前で議論が紛糾しているタイプの学説や、解説する人間の立ち位置によって
  意味付けが180度変わってしまうデータをもとに、安心立命を得ることは、少なくと
  も理系の学部なりで専門的な訓練を受けたわけでもない一般の人間には不可能な
  仕事だ。とすれば、特に科学に明るくない者としては、とりあえず大きめの安全係
  数を確保した上で、過剰にこわがっておくのが精一杯の知恵ということになる。
  これは、決して「愚かさ」と決めつけてほしい態度ではない。

と述べるくだりには疑問を持ちました。

「風評に踊らされる愚民」が本当にいるのか知りませんが、そういう人の行動の影響で被害が出ているなら、被害を被るのもやっぱり(専門家も含めた)「一般の人間」でしょう。このコラムでは魚が例に上がっていますが、被害を受けている漁民の中にも、別の風評被害を生み出した人がいるのかもしれない。風評被害を作り出すのも、その被害を受けるのも一般の人間。原因も迷惑も同じところで回るだけであって、専門家が「風評被害」を生み出すわけではない。(もっともそう強弁する人はいるのでしょう、情報の与え方や態度が悪いとか)。「愚かというな」と怒ってみても、「お前たちの言うことなんか信じられるものか」と風評に踊らされ続けようと、専門家だけが困ったり損失を被るわけではない。みんながお互いに困るだけ、誰も得しません。専門家批判に八つ当たり以外、何の意味があるんでしょう。

恐らく小田嶋氏の主張の真意の一つは、

  放射性物質を海洋投棄した人々の責任は、放射線が検出されない範囲にまで及ぶ。
  当然だ。彼等は、「根拠のない恐怖」に対しても、全面的な責任を負わねばならない。

ってところにあるんでしょう。つまり、風評被害の責任は「一般の人間」にあるのではない、怖いものを撒き散らしたやつにあるんだ、と。

一理あるとは思います。でも、そうまでリクツをつけ、他人のせいにしてでも、自らの行為を正当化しなければいけないんでしょうか。「われわれはあなたの国に迷惑をかけてますが、それは北朝鮮があそこで怖いことをしてるからです。私たちを責めてはいけません」と言ったら、近隣の国が「おっしゃるとおり」と、北朝鮮に補償を要求してくれるでしょうか。科学的知識がどうのじゃなくて、自分たちの行為のために困る人がいる、という事実があるなら、それを自らの行いの結果として受け止め、省みるくらいのことはしていいのではないでしょうか。

おそらく総じて見れば、多くの日本人の行動はNPRの記者の報道にこそ近いのではないかと想像(期待)しています。だから小田嶋さんのコラムのこの部分には、(一部の専門家の「愚民」扱いが事実だとしても)そんなところに目を向けてどうする、という感想を持ちました。これに限らず、いくつかのコラムやブログに、大丈夫か?ストレスでやられてるんじゃないか?と感じることがあります。安全な海の向こうで、知りもしないで何を言うか、という批判を恐れながら、岡目八目ということもあるかもしれないと思って申し上げました。

Bodhisattva...

2011年04月10日 | Bloomingtonにて
友人の誘いを受け、今日、娘と嫁さんが禅のセレモニー(知識がなくて日本語で何て言っていいのか分からない)に参加しました。Bloomingtonに禅寺があるんですね。住職は日本の方ですが、その他はたいていアメリカの人のようです。たいへんきれいなウェブページもあります。

http://www.sanshinji.org/home/

今日は仏陀の誕生日を祝うセレモニーだったそう。心配でしたが娘はなんとおとなしく聞き、拝み、焼香し、仏陀の小像に甘茶をかけ、と大人と同じ行動をやり、参加者の心を鷲掴んでたそうです。読経の時は、ノリノリになって木魚に合わせて手をたたき出したそうですが(嫁に止められ、その代わりお尻を振ってなさいと言われてそうしてたそうです)。

さまざまなイベント・教室の収入もあるようですが、基本的には喜捨で成り立っているそうです。Bloomingtonは弟がいた(たしかもう亡くなった?)とかで、ダライ・ラマがしばしば来るし、チベット僧もたまに見かけるところなので多少特殊なのかもしれませんが、それでも、こういう活動が維持できるというのは驚きでした。さらに驚くことに(当たり前かもしれませんが)、お経は(梵語のほか)英語でも読むそうです。聞いてみたかった。

両極端な社会

2011年04月08日 | Bloomingtonにて
うちのすぐ近くに小学校があります。そこにはたぶん一周300Mくらいのトラックがあり、隣にはブランコ、鉄棒等の遊具やバスケットボールのコートなどがある。授業終了後は誰でも遊んでいいので、子供連れ(うちも)や、小中学生が遊ぶし、ウォーキングをする大人等もいます。

私はほとんど毎日そこへ行ってランニング。一人で淡々と走るせいか、しばしば小学校高学年、あるいは中学生と思しき男の子たちが、声をかけたり、からかってきたりします。たいていは遠くからだし、叫ぶので何を言ってるか分からないし、そもそもこっちに声をかけてきてるかどうかも定かでないので無視しているのですが、先日はこっちに向かってアメフトのボールを投げてきました。

まあ、たんにボールが逸れただけだとしか思ってなかったのですが、どうやら本当にこっちを狙っているもよう、といっても当てるというより、からかいたい、怖がらせたい、ということなのでしょう。そのうち、「おい、そのボール拾えよ!」という声もかかりました。果ては、水の入ったペットボトルも足元に投げつけられました。あっちにしてみれば、それでも反応を見せないこっちが気に入らないのかもしれません。

さて、予定した時間が終わったので引き上げようとする最終周、その男の子(といっても中学生くらいで体は私より大きい)の近くを通り過ぎるので、警戒してそちらのほうを見ていると、「何見てんだよ!」と叫んで、ペットボトルを投げてきました。さらに引き上げようと離れると、拾い上げてまた投げたらしく、後ろからもう一度足元に飛んできました。

彼らを特定はしていないのですが、近所の子であることは確か。私に限らず、近所の、とくにアジア人はターゲットにされているようで、怒鳴りつけてきたり、威嚇してきたりという経験のある人が少なくないようです。

去年引っ越してきたこの地域はBloomington市の西外れで、残念ながら、あまり住人の生活・教育レベルの高いところではありません。小学校の学業成績は市の最下位で、学童期の子供を持っていたら住みたいところではない、と聞いてました。それでも、上がり続ける家賃を考え、ここに越してくる非アメリカ人の院生・ポスドクも増えているようです。

以前、わが師匠にこの話をしたときには、「あの地域の様子は知ってる。私にだって怒鳴りつけてくるかもしれないですよ。」とのこと。一方、この話を一昨日、院生の友人にしてみると、「それは差別じゃないのか」と言います。「いや、たんに誰にでもケンカを売りたい粗暴な中学生ってだけじゃない? アジア人は小さいし、弱そうだし、ともかく『攻撃してもいい奴ら』って思ってるというだけじゃない?」というと、「そうかもしれないけど、ちがうかもしれないよ」と言って紹介してくれたのが、

RICER (Responding to Incidents of Casual and Everyday Racism)

という任意団体で、相談を持ちかけるとたんに話を聞くだけでなく、差別行動、ヘイトクライム的行動をした人間たちを見つけ出し、接触して、そういう行動をやめるよう働きかける、ということまでするのだそうです。今後は彼らを見つけたら遠ざかり接触を避ければいいことで、相談しようとは思いませんが、そういう団体があることには驚きました。恐らく、善良なアメリカ人らしく、生真面目に、真剣に行動するのでしょう。

あの中学生たちがたんに弱そうな人間をターゲットにしているだけなのか、誰かからアジア人への嫌悪を吹き込まれてやっているのか分かりませんが、本当の白人至上主義者もいるのは確からしい。でも、一方で、「差別はいけない」というイデオロギーに忠実に、他人の世話まで買って出る人々もいるということを知って、「これまたアメリカらしい」と。

聖書の創造神話をそのまま信じ、学校の進化論教育を嫌悪する行き過ぎたキリスト教信者がいる一方で、「神はなくても善く生きられる」とバスに広告を出そうとする無神論者もいる。世界をリードする研究者たちが人為による温暖化について最先端の研究を生産し、警鐘を鳴らす一方で、「彼らの研究はデタラメだ!」と攻撃する人々もいる。そして、そういう両者が、しばしば火花を散らし戦う。充実した運動施設で完璧なフィットネスを追求する人がいるかと思えば、アパート構内のゴミ収集所に行くのにも車を使うほど歩くのが嫌いでデブデブの人もいる。。。 などなど、アメリカ社会のこの両極への振れ幅の大きさは何なのだろう? と友人に問いかけてみました。

「まあ、世界中からの移民でできた国で、異なった背景を持った人たちが隣り合って暮らしているから、いろいろとぶつかり合うんでしょう」とのこと。なるほど、それは大きい理由かもしれませんが、何かそれだけではなく、そもそも、しばしば極端に走りがちな傾向をこの国の人には感じます。それはなぜなのか、探ってみたい気がします。

言語習得の負の影響?

2011年04月05日 | ことば
娘は2歳半、言語使用が巧みになってきました。もちろんまだまだ破綻がいっぱいですが。ここひと月くらい、人の会話まで仕切るようになったことは以前に書きましたが、先日も嫁さんといっしょに買い物に行った帰りのバスの中で、

娘 「おとうさん、一人でさびしいって泣いてるかな?」
母 「うん、さびしがってると思うよ」
娘 「おかあさんも、お父さんに会えなくてさびしい?」
母 「うん、さびしいよ」
娘 「さびしいって泣いて」
母 「....... えーん、えーん」
(ちなみに、実際には、「おとうさん」「おかあさん」とは呼んでいません)

と、人の言語行動に対するイメージを作り上げて、そのとおりの言動を要求する行動が、ますます頻繁、かつ複雑化してるように見えます。言語習得が順調なことがうかがえるのですが、その負の影響とも言えそうな事態が見られました。

これも私は不参加だったのですが、このあいだの日曜日、娘は2歳になる男の子のお誕生日会に行きました。一番乗りだったのですが、その後やってくるお客さんがみんなアメリカ人で(娘も国籍上はアメリカ人ですが)、母親も英語に切り替えてしまって英語のみの場面に。すると、娘はすーっとその場からいなくなり、部屋の隅に。気づいた嫁さんが行ってみると「かえで、わかんない。帰る」と言い始め、ついには大泣き。日本語を話せる大人がかわるがわる相手をしてくれて機嫌は直りましたが、英語の輪には最後まで入って来なかったそうです。

慣れない、かつ閉じた環境で英語だけ、ということで拒否の姿勢を見せたようなのですが、体操教室、毎週一回のチャイルドシッター、図書館の手遊びプログラムなど、英語のみの場面にも基本的には対応し、楽しんでます。日曜日の一件はおそらく、日本語の習得がうんと進んで、遊びの中に占めることばによるコミュニケーションの割合が大きくなり、それができない環境の居心地の悪さが以前より強く感じられるようになったせいではないかと推測しています。(英語を話す人に向かって"My English no"とか言うらしい、それ英語じゃん...)

もしそうだとすれば、これは言語習得がまた一歩進んだことの反映で、さらにコミュニケーション能力が上がれば、英語のみの環境にも対応する準備ができるかも、その過程でこういう段階が来ることも人によってあるんだろう、と。

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さて、写真。先日、チャイルドシッター先の家で初めていわゆる「頭足人」を描いたそうです。母親のリクエストに応じたのではなく、自発的に。手足もあったのですが、描いてすぐグシャグシャと上から描きつぶしたので見えません。

たまの遠出

2011年04月01日 | 


もう二週間ほど前、先月3月18日に、家族でインディアナポリスに出かけました。嫁さんのパスポートが切れるので更新手続きをして、日本でするのと同様、本人が受け取りに出向く必要があったためです。アメリカ中部の住人ならシカゴの領事館まで行くことになるわけですが、たまに出張サービスがあり、この日がその予定。シカゴなら車で5時間かかるのでまる一日になりますが、これなら半日で済む。ガス代も少なくて済む。長距離ドライブの危険もない(そもそもうちの古い車が耐えられないかも)、ということで、この機会の利用は必須。ついでにシカゴに行きたい、なんて人は別でしょうが。

ところで、今回gooブログが提供している新しい機能を使ってみました。スライドショーを見せられるというものです。慣れないもので、順番が逆になってしまいました。写真を送ってごらんください。

朝Bloomingtonを出発して11時ごろインディアナポリスの北東の外れのホテルへ。ここが会場。行ってみると写真のように小さな会議室を借りて、領事館職員らしきお二人が担当。昔バルセロナに行ったとき、ちょっと困ったことがあって領事館に行ったのですが、厳重なセキュリティチェックを受けた上にガラス越しに冷たく話をされて、「国民をなんだと思ってんだ、もうあんなものに世話にならん」と怒ったものですが... 親切でした。ついでに、在外投票の登録を勧められて手続きの世話もしてもらいました。住民票がないので、選挙区の投票はできないと思ってたのですが、最後に住民票を置いていた自治体の選挙権がある(最近そのように変わった)そうです。

このころは震災直後で、今も状況は厳しいままのようですが、当時は東京方面の家族もさらに窮地だったので、ついでに動物園かこども博物館にいくことを予定してたけれど中止。お昼だけは外で食べようか、ということで、写真のビュッフェ形式のレストランに行きました。知り合いから教わったThe Journeyはいちおう日本食が中心のはず。

さて実際は、写真のようなものが食べられました。お寿司もアメリカっぽいなんだかぐるぐる巻いたり、アボガド入れたりもあるけど、しめ鯖みたいなのもある。個人的にうれしかったのはゲソ揚げ。厚揚げ煮、煮ダコ。娘も大喜びでした。

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インディアナ大でも、日本人学生を中心としたさまざまな人々が震災に関わるチャリティーイベントなどを開いているようです。私はというと、論文書きで他に時間が取れず、大学にもほとんど行ってません。このインディ行きは博士論文提出以前、最後の遠出となりそうです。