時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

『人口と日本経済』(読書録)

2016年10月17日 | 読書録
吉川洋・著 2016年 中公新書

図書館で発見。現状の分析だけでなく、経済学の理念やその変遷の解説もあって、いろいろ勉強になったけれど(「ジニ係数」の概念・算出法とか)、なにより『「昔はよかった」病』につづき、「戦前の日本はずいぶんひどかった(経済、健康いずれについても不平等がおおきかった)」を再認識。問題もいっぱいあるものの、やっぱり昔にくらべれば日本はうんとマシ、ということのよう。

概略、「日本の長期的後退はまちがいないが、ゆるやかな経済成長はやっぱり必要で、それは人口減少によって妨げられるとはかぎらず、イノベーションによって達成できる」「経済成長は、なにより<健康で長生き>に結実する。長寿国になった日本は、成功なのだ」というような結論と理解したのだけれど、それで、「人口が減るのは問題ない」という結論なのか、やっぱり問題なのか、タイトルに「人口と」とあるわりには、その点についての著者の考えがしめされないままの気がして、「むー、ここで終わっちゃうのか」という読後感。「人口減少は気にするな」という結論なら(末尾にそんなようなことが述べられている)、どういう根拠からそうお考えなのか、論じてほしいな〜と。

Angus Deaton の The Great Escape が、本書にかなり影響をあたえているもよう。Freakonomics で名前をきいたおぼえはありましたが、本書を読んで「これはおもしろいのでは」と、さっそく購入(電子書籍)。すばらしい。これが本書を読んだいちばんの収穫。

『「昔はよかった」病』(読書録)

2016年10月11日 | 読書録
半年以上、前に書いて、そのままにしてあった記事をアップします。

久しぶりに本の感想を。パオロ・マッツァリーノ氏の本もひさしぶり。首肯することがおおかったし、おもしろかった。おわり。

で、いいんですが、ちょっと。1章の「火の用心」はうるさいだけで効果がない。夏【2015年・夏のこと】に読んだ『反<絆>論』(中島義道)の、「電車内の放送は余計なおせわでうるさい」を思い出した。どっちも賛成ですが、「火の用心」は娘の幼稚園でやってる、たのしんでたなあ、むーー。

あるあたりの世代は若い頃から(今でも)素行が悪い人がおおい、というのは本で読んだりして聞いただけじゃなくて、目にもする、という気がしますが、「愚連隊」ってのがどんなものなのかは、6章を読んですこし具体的にわかりました。

この本にもう一章つけくわえてくれるなら、子育てや学校のことがいい。娘の幼稚園(当時)に講演にきた医師が「子そだてのレベルがいまほどたかい時代はない」と言ったそうです。同感で、これまでしりあったおかあさんたち(おとうさんも)、ほんとによくやってらっしゃる、と敬服することがほとんど。今の親は…という批判も検証してほしい。

娘が小学校にあがって、みる機会がふえましたが、わたしが小学校だったときより、先生も、学校も、よくなったと感じます。理由もつげられないまま、クラスの前にひっぱりだされて殴られる、クラス全員のまえで(自分だけ)成績をいわれ「これはオマケだな」… ふりかえって、なぜ訴え出ることをかんがえなかったか、と思うような理不尽をうけたおぼえが、何度もあります。いまのこどもは…、いまの学校は…という批判に加担せず、わかい人、学校、学校をささえようとする人たちを支援し、はげましつづけていきたいものだ。それも読後感のひとつでした。

『5000人の白熱教室』 読書録

2013年02月05日 | 読書録
久しぶりに市立図書館に行って、たまたま目に付いた表題の本を借りてきました。Justiceという本や、講義で有名な、ハーバード大、マイケル・サンデル教授が日本で行ってNHKが放送した授業の様子だそうで、DVDに一時間ほどの講義二つのすべてが収録されていて、本はそのTranscriptだけなので、DVDだけを観ました。

前半の授業、立って発言した参加者たちの英語の上手さにまず驚嘆。一人の男性がサンデル教授に問われて、米国の大学に在学中と答えていましたが、同様に、英語について相当のバックグラウンドがある人が少なくなかったと思われます。米国の大学に典型的な、教員は受講者の議論のモデレータ、というタイプの授業を、いわば、珍しい見世物としてわざわざ日本に来てやってもらう。ところが、積極的に発言するのはそういうのに慣れた人、ってのはちょっと妙な光景と感じましたが、ここまで有名になっちゃうと、来る人も「腕に覚えあり」的な人になっちゃう、という傾向になりがちなのかも。でも実は、感心する内容を述べているのは、むしろ日本語で話してる人であることが多かったりして。英語はあくまでコミュニケーションの道具であって、本当に重要なことは、たとえば、米国的な訓練によるディベート技術の向上のようなコトとは別のところにある、ということを再認識。

後半の授業、まず感じたのは、FUKUSHIMA問題はやめてほしいなあ、ということ。少なくとも現時点で、実りある、冷静な議論をするのは非常に困難に思える、もっと率直に言えば、聞くに堪えないから(冷静で、意見にも賛同できる人がいましたが)。サンデル教授が聴衆に向けた問いは、センセーショナルで、白熱した議論を呼び起こしましたが、聞けば聞くほど、悪いのは誰だ、という話はやめたらどうだ、私たちは、これまで直視してこなかった何に目を向け、どんな反省材料を得て、今後どんな責任とリスクを背負うのか、とは考えられんもんか。。。 という思いが募りました。すると、まさにそんなような発言がフロアから(ここでも日本語で)。ひょっとして、この方向に話を誘導する意図があったかと勘ぐりたくなる展開。イベントの性質・制約からか、そこから話しが深まったとは思えませんが、後半の授業も成功に終わったと、サンデル教授は思っていそう。

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サンデル氏の話をはじめて聞いたのは、ここで何度か取り上げた、Freakonomics RadioのPodcastで。去年の5月「魂を売り買いできるか」という話題に、専門家としてゲスト出演。司会のDubnerさんの疑問に、彼の批判するMarket economyの問題点に結び付けて説明しています。その腕前は見事でしたが、納得いかない点も残っています。

このエピソードは、キリスト教徒で、神の存在も信ずる男性(米国人)が、「魂など存在しないという無神論者が、『じゃあ、キミの魂、俺に売ってよ』と持ちかけても、売るのをしぶるのは、矛盾だ。彼らは実は魂があると思ってて、売り渡したくないんだと証明したい」というブログへのコメントが発端。でも私には、彼のロジックは全くのナンセンス。私がもし「売ってくれ」と言われたら売りませんが、それは売りたくないからじゃなくて、たんにそんなもん存在しないと思ってるから。所有してないものを売りわたすのは、不可能、金をもらったら詐欺では(思考や人格を「魂」の反映だと考えるとしても、それは脳の作用の結果で、脳を売ったら死んじゃうから、売らない)。以上おしまい。

...と、そこで話が終わらず、この超有名教授まで引っ張り出して、30分近くの番組を一本作っちゃうとは。無神論者も含め、ことほどさように、Soul(魂)は米国人にとって大事なもの、ということなのでしょうか。「OK、売りましょう」と申し出てきた男性は、「もし他にまた買いたい人が現れたら、『私の魂はヒトデみたいに切ってもまた出てくるんですよ』とでも言ってまた売るかな」とシレっと言ってのける人なので、行動こそ異なれ、私と基本の考え方は変わらないのかもしれませんが。

たった1分で人生が変わる片づけの習慣 読書録

2012年07月16日 | 読書録
私は、どちらかというと片づけは得意。でも、子供のころ~学生時代までは片づけ劣等生。部屋はたいへん散らかっていました。片づけの習慣が身についたのは、大学に勤めていたとき。同僚が、「机の上が散らかっているやつは、仕事ができない」という先輩の先生のことばを教えてくれて、そりゃあまずい、と、机の上をきれいにする努力を始めました。その過程で気づいたことがあれこれあり、今は片づけが習慣化しています。

だから、この本に書いてあることはほぼ全て、既に自ら考え出してきたこと、実践していることでした。読んで得た新たなヒントは、「片づけは一回につき一箇所、15分以内でやれ」くらい。じゃあなぜこんな本を手にとって読んだかといえば、母と暮らしているから。母は、この本に書かれている、片づけをするためにやってはいけない行為のオンパレード、ほぼ完璧な逆の見本だといえます。じっさい、私の片づけに関する基本原則は、母の行為を批判的に検討しながら、具体的な原則として言語化した部分が大。たとえば、以下(一部、標記の本ではなくて私の言い方に変えてあります)。

 今使わないモノは、使わない。(手放せ)
 他の方法で入手可能なら、所有しない(所有するな、借りろ)
 捨てることより、死蔵して物の価値を引き出さないほうが「もったいない」
 モノが少ないほうが人生は充実する
 収納家具を増やしてはいけない
 物が入ってくるスペースを空けておけ(一杯につめこむと、管理不能になる)
 なんでも目に見えるところに置こうとしてはいけない
 一気に片づけると、また散らかる

なので私は、ページをめくるごとに大笑い。そうそう! と。では、母にこの本を読ませるか? いいえ。母は万一これを読んだとしても、考えを変えず、同じことを繰り返すでしょう。貧乏に育ったせいか、世代の背負った価値観のせいか、所有に対する執着が非常に高いので。この手のノウハウ本はたいてい、「やってる人は読まなくたって勝手にやっている(だから読む必要がない)、やらない人は、そもそも読まないか、読んでも変わらない」ということになる気がします。だから、いつまで経っても筆者のような「片付けコンサルタント」の需要はなくならない。ダイエットや語学学習と同じ。商売としては上手。

字も大きく、内容も繰り返しが多いので、一時間もかからず読めます。私にとっては実用書ではなく、気晴らしの「お笑い本」。この本を購入して本棚をあふれさせる原因を増やすのは避け、図書館で借りてあっという間に読んだ私は、著者の片づけ哲学を適切に実践した優等生、といえるのではないでしょうか。

『外国語として出会う日本語』(読書録)

2012年07月01日 | 読書録
図書館にあったので借りてみました。楽しく読めます。筆者ご自身の体験から説き起こしてあるためか、印象的で、かつ説得力も感じます。日本語教授にかかわる諸問題を網羅するという目的で書かれてはいないので、ハンドブック的には使えませんが、留意すべき基本的な指針を得ることはできました。読み取ったのは以下。

 1. 自分の母語でも研究しないと分からない(2章)
 2. 学習者が創るルールを意識せよ(3章)
 3. 学習者の母語の影響を意識せよ(4章)
 4. ことばの背景にある価値観の差異も考慮に入れよ(5章)
 5. 学習者の「わかりにくい日本語」から発見しよう(6章)

6章のメッセージを承け、「あとがきに」書かれた以下の部分は、おそらくこの本を貫くテーマであり、筆者が研究・教育上大切になさっていることなのだろうと思います。

言語の違いを乗り越えるには、「日本人が外国語を勉強して、上手に話せるようになる」あるいは「外国人が日本語を勉強して、日本語を話せるようになる」という二つの選択肢しかないのでしょうか。「日本人が日本語を勉強して、日本語を客観的にとらえるようになる。それによって、外国人のたとえつたない日本語であってもそれを理解したり、自分の日本語をわかりやすく言い換えたりすることができるようになる」という三つ目の選択肢も、あっていいのではないか。。。

ずいぶん前、杉戸清樹氏の「もう一つの日本語教育を」という論文を読んで以来、引用箇所のような考え方は常に頭にあり、学習者の日本語をできる限り理解する努力は払い続けてきたつもりで、学習者の多様な日本語に対する対応力だけは、多少自信があります。地域の日本語講座のような場で日本語教育ボランティアとして日本語を教えることの一つの意味は、ここにあるのでは。

具体的な記述内容で面白かったことについて、メモ代わりに2点。

日本語の関係詞節は非制限用法と制限用法を区別する仕組みがなく、かつ非制限用法として使われることが多いので、それを制限用法のように感じてしまう他言語の話者には、抵抗が大きい。たとえば次の例。日本語話者の頭にあるのは、通常、非制限用法であって、「集合時刻に遅れなかったその他の山田さん」がいるわけではないと。

 集合時刻に遅れた山田さんは、バスに乗ることができなかった。

個人的な経験の限りでは、米国では制限用法と非制限用法を、thatとwhichで役割分担する傾向が見られるような気がしてます。やっぱり、韻律情報だけではときに不十分、ということでしょうか。

 「この機種、写真が撮れますか?」「動画も撮れますよ」

のように、相手の質問に直接答える代わりに、別の情報を「も」を使って与えることで答えることができる前提には、ケータイの性能について

 「電話がかけられる > 写真が撮れる > 動画が撮れる」

というような下位~上位の序列に関する知識が共有されていることが前提となる。

たとえば、David Harrison氏の本で紹介されているような、西欧言語とは非常に離れた文化背景を持つ集団の言語などだと、この種の前提の共有が期待できないだけでなく、言語でコード化するための仕組みまでかなり本質的な点で異なる可能性もあるでしょう。そう考えていくと、言語類型論の研究でよくみられる、「××階層」のような通言語的なモデル化には慎重になったほうがいい、と思えてきます。

最後に一つだけ気になったこと。31ページで、ある文について「×かどうかは「文法性grammaticality」の問題」「?かどうかは「容認可能性acceptability」の問題」としています。これだと、grammaticalityとacceptabilityは文の違う側面に関する適切性であり、両者は原理的には独立だ、と読めるのですが、これはわたしの理解とは異なります。

わたしの理解では、acceptabilityというのは言語話者から直接得られる言語に対する内省の結果であり、その結果がなんらかの程度でunacceptableだった場合、その原因には、意味的な奇異さ、情報構造の不適切さ、等々さまざまな要因が考えられるが、それ以外に狭義の言語学的意味での文法に対する違反ungrammaticalityが考えられる、と。したがって、両者はオーバーラップしている(だから言語学者は、unacceptabilityからungrammaticalityによる要素を抽出するため、四苦八苦している)、というのが理解なのですが。。。

木村資生 『生物進化を考える』

2012年06月16日 | 読書録
ちょっと古い出版(1988年)。著者ももう鬼籍。でも、実は出版されてわりとすぐに買い、それから途中まで読んでは挫折。なぜかといえば、難しいから。3章くらいまではどこかで聞いたような話だけれど、4章あたりから重要な概念が、数式を交えて説明されており、そのあたりで「う゛...」となり、「ひと腰落とさねば」と思うものの他に読む必要があるものが出てきて後回し、というのを数回。しばらく放っておいたのですが、最近、教えている授業で集団遺伝学に関連する話が出てきて勉強したかったことと、数式が以前よりは読めるようになってきたこともあり、今回ついに読破。

実際、あるていどの数学的素養なり、背景知識がないと、さらっと読めるような代物ではないかも。私はところどころ、紙と鉛筆を取り出して、式の変形を確認したりして、理解に努めました。おかげで、淘汰と突然変異との関係とか、それらと、集団の大きさと進化のスピードとの関係とか、今までよりはきちんと理解する途がついた気がします。でも、まだ理解が及ばないところが処々。とくに著者が提唱した中立説の一部分は難くて、この本、もう一度読み直したほうがよさそう。一般向けに書いてはいるけれどそのために妥協した感じがそれほどなくて、内容的にもずっしり。今と違って、新書がもっと重厚な、本格派の読み物だったころの趣があります。

最終章でとても印象に残った一節がありました。人間の思考の精緻化は進化の結果であり、自己意識なども自然淘汰上有利なため出来上がったメカニズムに違いない、といった(至当な)考えに基づき、以下のように述べています。

「...「考える」ということは頭の中で行なう一種のシュミレーション(模擬実験)で、電子計算機を使って近年盛んに行われるようになった模擬実験に似たものである...自然科学の研究によって得られた「真理」とか「自然の法則」というものも、筆者には電子計算機を用いたシミュレーションの手法において、正しい結果を生むサブ・ルーティンに相当するもののように思われる」(p.265)

こんなふうに、ヒトの「思考」の結果は、どんなに精緻化しようとも、人間が進化の結果得た脳の働きにおいて作り出せるかぎりの計算過程で、外界で起こっていることをできるかぎり近似した結果に過ぎない、と考えるのは、学問を志す者にとって適切で、望ましい態度だと思われます。さらに、ここで筆者が引用しているのですが、これについて丘浅次郎博士という方がこんなふうに書いているそうです。

「哲学者などは自分の脳だけは絶対に完全であるものと認定して、思弁的に宇宙の真理を看破しようと頸を捻っているが、大脳進化の経路に照らし人類全部を総括して考えてみると、無知の迷信者も有名な哲学者も実は五十歩百歩の間柄で、もとよりその間に若干の相違はあるが、(中略)、絶対に完全なものでないという点においては、いずれも同じである」(p.266)

納得。もっとも、いまや哲学者だって、こんなふうに自分の仕事を捉えてはいないとは思いますが。

河合信和 『ヒトの進化七〇〇万年史』『人類進化99の謎』 + Mellars, P. Why 60000 years ago?

2012年05月02日 | 読書録
担当している言語類型論の授業で、人類の世界への拡散のようすが議論の前提になります。そこで、表題の2冊を借りて最近の古人類学の動向を勉強してみました。この2冊は出版が2010年と2009年で、Danisova人の発見や、ネアンデルタール人との交雑など、最新の発見の情報が盛り込まれています。

『ヒトの進化...』は、古人類学の研究史に沿って詳細に記述されており、消化しきれない部分もありましたが、Nature、Science等に載った重要論文へのガイドとしても有用。筆者は、古人類学の研究を「300ピースのジグソーバズル」に喩え、現在は、まだせいぜい30ピースほどしか見つかっていない状況でストーリーを組み立てている状況だと述べます。研究史は新たな発見による定説の大転換の連続、この数年も大発見ラッシュで、今後も人類史は大幅に書き換えられていくに違いないと。

でも、ほぼ確実な知見もやはりあるわけで、そのうち重要なものの一つが、人類単一種説は誤りであること、もう一つが、現生人類がアフリカ起源であることでしょう。ヒト族はその他の類人猿との共通祖先から分かれたあと、さまざまな種に分岐し、複数の種が同時期に同じ地域で暮らしていたことがほとんどだった。アフリカを出て行った集団もあったが、最後にはアフリカで生まれた一つの種を除いて全滅した、と。

興味深かったのが、これに関連するつぎの問題。形態的に(遺伝的にも)現代人と同じ種、ホモ・サピエンスが誕生するのが20万年ほど前だとしても、行動や認知が現代人と変わらないレベルに達するのは、5万年ほど前、それも急激に変化したという説(The great leap forward)があるけれど、調査の行き届いた欧州の遺跡における文化の高さを強調するあまり、アフリカでじょじょに進んでいた文化的発展の証拠に目が向いていないという批判があり、河合氏の考えでは、後者の勝ちでもう決着済み。古人類学の研究史上、新発見によって欧州の優位性が繰り返し否定されてきた、と見えるのですが、The great leap forwardは、なんとか欧州の人々にとって「気持ちのいい」結論を導き出そうと手口を変えてみた、と見えなくもありません。

この点に関して、専門の文献にも目を通そうと、下の論文を読みました。7、8万年前、アフリカで急激な気候変動があったころ、ヒトは道具を精緻化させた。おそらくこれに成功した、アフリカのある狭い地域にいた小集団が、6、7年前にアフリカ内部で拡大、さらに6万年ほど前、出アフリカに成功した集団が現れ、これが世界に拡がった、というモデルを提案。この「出アフリカ」に成功したのがおそらく数百人という小さい規模で、アフリカ外の現生人類は、すべてこの集団の持っていた遺伝要素を受け継いでいるようです。ここでかなり遺伝子的多様性が絞り込まれたことになります。

Paul Mellars. (2006). "Why did modern human populations disperse from Africa ca. 60,000 years ago? A new model"
               Proceedings of National Academy of Science, USA, 103, 9381-9386.

Mellarsさんは、装飾や儀礼など、象徴を操る行動や、道具の精緻化などの証拠から、この「出アフリカ」を可能にした認知的成熟は10万年前には達成されていた、と考えています。私にとって重要なのが、ここに言語も含まれること。つまり、アフリカから出る以前の段階で、言語は現在われわれが知るレベルに到達していたという主張です(逆に、世界に人類が拡散してから、それぞれの地域で現在と同じレベルの言語へと発展したのではない)。世界中の人類の言語能力が変わらないことからも、穏当な結論に思えますが、だとすれば、現在の世界の言語は、たとえ遠い関係であるにせよ、すべてアフリカの言語に起源を持つ、ということになりそうに思います。この点について、もっと勉強したい。

一方『人類進化...』は、前者と重複する内容も少なくなかったのですが、個人的に面白かったのが、「ネアンデルタール人の暮らしは厳しかったのか」という節。アフリカで誕生してそこに適応して暮らしてきた人類が、そこを出てもっと涼しい~寒い地域に定着するのがいかに厳しかったかうかがい知ることができました。われわれ現代人の祖先も、6万年前の成功以前は、定着できず引き返したか、そこで絶滅してしまったのでしょう。知恵と冒険心あふれるご先祖様に感謝。

もう一つが「人類は絶滅するか」という節。筆者の考えは「67億人もいればいかなる壊滅的打撃にも抵抗力を示す個体がいるはず。ほんの少しでも生き残るだろう」。先日、Science FridayでIan Tattersallという方が、「人類はとてつもない個体数がおり、世界中で接触している。集団が孤立し、そこで生じた遺伝子の変異が定着する余地がないので、現状からは進化しないだろう」と述べていました。何かがあり、個体数を大きく減らしたとき、再び現生人類は他の何かに進化を始める、ということになるのかもしれません。

『家族なのに』 読書録(?)

2012年04月01日 | 読書録
この本は、去年伊吹島に行ったときいただいたもの。今日、娘が引っ張り出してきて、昼寝の前に読みました。効き目ありすぎ... 娘は途中でしくしく泣き出してしまいました。

もともと、Web上で公開されたものらしく、フラッシュ版が見られます。

読むのを止めるか、とききましたが、読むというので継続、もう一度突っ伏して泣いてしまいましたが、最後まで読みました。最後も涙。うちの娘は悲しい話に敏感でよく泣くので予想はできたのですが、あまりに強い反応。すばらしい読書体験なのか、刺激が強すぎるのか...... でも、この本はずっととっておこうと思います。

とはいえこのあいだ、二階の部屋に入り込んできたハエを捕らえて小さな筒に入れ、そのまま二日閉じ込めて餓死させ、開けてみて、「死んじゃった...」と驚いてたのもコイツです。

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先日ランニングでいままで行ったことのないところへ足を伸ばしたら、家の前のガレージに段ボール箱やら、毛布やらがいっぱいに置かれた家がありました。その近辺には、猫が何匹もの猫がうろうろ。たぶん住人が、猫をどんどん呼び寄せて庭に住みつかせる、という人なのでしょう。あのダンボールからすると、相当の数、しかも、きっと増殖しまくり。すぐ隣にも同じサイズの家が並んでいて、住人が庭の手入れをしていましたが、たぶん、迷惑してることでしょう。

捨てる人がいれば、みんな手元において増やしまくる人もいる。私のようなものに何か言えた話じゃありませんが、なかなかバランスよくいかないものです。

『魔女の宅急便』 読書録

2012年03月20日 | 読書録
同タイトルのジブリ映画の原作、近くの公民館に娘を連れて行ったとき、そこの図書コーナーで見つけました。映画と同じエピソードは少しだけで展開も違うことが多い。その他の登場人物やエピソード多数。たとえば、キキが好きになる男の子、トンボは最初、飛んでみたくてキキのほうきを盗んでしまう役柄として登場します。でも、それぞれの登場人物のキャラクターは基本同じ。キキはちょっときかん気で、でも溌剌として機転も聞くやさしい子、ジジはちょっと皮肉屋。

実際には映画ほど派手ではないかもしれないけれど、とても素敵なエピソードがたくさんで、みんなやるわけには行かないから換骨奪胎して二三のエピソードに仕立てた。けれど、テーマや雰囲気は小説のものかなりそのままを受け取って映画が作られている、という感じを受けます。その意味で、あの映画は小説からは自由な翻案、ではない、この小説を「原作」と言うべきでしょう。できばえに軍配を上げるなら、小説の勝ち。映画の映像や音楽の魅力は強力だけど、この本の挿絵も素敵です。

それにしても、娘が13歳で独り立ちすることになっていて、13年しか一緒に生きられない、というのは、娘にメロメロの父親なら、さぞさびしいことでしょう。映画で、父親とのお別れに「高い高い」をするシーンがあります。Bloomingtonにいたとき、娘のいる父親3人で、たまたまこの話になりました。一人のお父さんは、これを見て滂沱の涙だったそうですが、そのときお嬢さんは確かまだ1歳! 私にいたっては、娘はまだ母親のおなかの中。気の早い父三人のアホ話ですが、それくらい早く出てってくれて、嫁さんとの生活が戻るなら、うれしくなくもないかも。。。 ええ、ええ、強がりです。

映画を見ても、この本を読んでももっとも強く感じるのは、新しい自分の住む街を見つけ、そこで受け入れてもらい、定着することに対する憧憬と羨望の入り混じった気持ちです。われわれも家族で暮らせる街を見つけたいものですが、私は英語通訳や日本語教室のボランティアを始めたし、4月からは「言語類型論」の授業を担当、嫁さんも仕事を得、娘は幼稚園に入学。とりあえず、たまたま住むことになった地域に溶け込み、受け入れられてもらえるよう、家族でがんばっていかないといけません。

『酔いがさめたら、うちへ帰ろう』

2012年03月13日 | 読書録
昨日、デザインを変えました。変えるきっかけはいつも嫁さんが「もっといいのないかな?」と言い出すこと。今回も選んでもらいました。それで内容がマシになるわけじゃないのですが。

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これも、日本に帰ったら観たい、と思っていた映画。原作である同タイトルの小説も図書館で借りて読みました。映画には主人公の奥さんの漫画家、西原理恵子さんの視点も入りますが、小説は完全に主人公=筆者、鴨志田穣さんの視点のみ。(末尾でフィクションだと断っていますが、照れ隠しのようなもの?)。全編これアル中克服の闘病記。医者や周囲に言われているとおり、よく死ななかったものです。実際、アル中病棟からの退院も、余命宣告を受け、あとは家族と過しなさい、という話。

10年ほど前、マスコミ論の先生のお話をきっかけに毎日新聞を購読するようになり、連載漫画「毎日かあさん」にハマり、日本を離れるまで読み続けました。米国にいる間も、「毎日jp」に隔週で公開されるものは必ずチェック。鴨志田氏のことも登場人物として知りました。

米国にいるとき、予告編をYou Tubeで観て、「こりゃ泣きそうだね」と言われてました。娘が出てくる話に弱いので、ツボに入るだろうと。で、見た結果、泣きませんでした。たぶん、そもそも観た人を泣かせようという意図を持って作った映画ではない。むしろ全体の雰囲気は淡々としたもの。酒を飲んで暴れる、大量吐血で運ばれる、卒倒して運ばれる、というようなシーンもそれぞれ一回だけ。観ていて辛くなる、というほどではありません。原作はさらに淡々としていて、最後もあっさり締めくくられる。もう死期が迫って書けなくなった、ということもあるのでしょうか。

実は映画のできばえはいま一歩、という気もします。原作にない印象的な台詞や美しいシーンもあるのですが、シーン間のつながりが唐突に思える箇所もある、たとえば、奥さん(永作博美さん)が料理の途中で泣き崩れるシーンとか、その前段がなくていきなり出てくる。構想開始から脚本ができるまで時間がかかった、と聞いたのですが、原作があまりに淡々としてるのでいくつかエピソードを付け加えたが、そのつながりが十分練れていなかったとか? もしそうだとすれば、編集の段階になって不備が判明しても、間を埋めるようなシーンを永作さんとか、浅野忠信さんクラスの役者さんのスケジュールをもう一度押さえて...なんて無理でしょう。というのは映画の製作について何も知らないので、誤解かもしれません。

西原さんは試写会で見て最初からだだ泣きだったとか。もちろん現実のご家族の体験はそれは大変なものだったでしょう。こんなになっても愛されて、家族に看取られて、幸せな人だった、とも思いますが、やっぱり、アル中はいかん、家族に迷惑をかけちゃいかんよなあという感想のほうが勝りました。振り返って、家族に支えられる一方の、今の自分の立場の情けなさが身にしみたのでした。

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最近、Science Podcastで「お酒をまったく飲まない人より、適度に飲む人のほうが平均すると健康」という話を聴き、まあ、それは単なるきっかけで、元々はお酒が好きな、でも子供ができて以降まったく飲まなくなった嫁さんと楽しめたら、と、週に一度くらい、二人でちょっと飲もうか、と言い出しました。同居の親もぜんぜん飲まないので、もらった酒がなくならない、ということもあります。でも。。。続きません。けっきょく一回飲んだだけ。二人ともぜんぜんお酒を欲しないし、夜は子供と寝てしまうし、お酒は好きな人にお任せします。