時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

懐かしい。。。はずが

2013年09月28日 | 旅行記
昨晩から仕事で金沢へ。仕事前に走って見ました。出張で宿泊するときにはいつもやることですが、今回は特別でした。金沢は子供のころ三年弱住んでいて、家があったのも駅のすぐ西。カメラを持って、走り出したのですが... ぜんぜん思い出せません。友達の家も、むかし遊んだ神社の境内も。30年以上経ってこっちの記憶も薄れ、区画整理も進み、あらゆる建物が建て変わった。しかも3年しか住んでいないので当然かもしれません。

でも、自分がいた家の場所さえ特定できないのは驚きました。ここら辺だということは分かるし、通りの形にもぼんやり覚えはあるのですが、「ここだ」という感覚はないまま戻りました。懐かしい場所の写真でも撮ってきて、家族に見せようかと思ったのですが、完全に空振りに終わりました。明日は、通った小学校付近にでも行ってみようと思います。

旅支度

2013年09月27日 | 
昨日から三泊四日の出張。旅支度のときまず私は、持ち物リストを作るのですが、作業のとき一目で分かるよう、写真(右)のように、絵にします。元々絵は苦手だし、自分が分かればいいという程度に適当に描いていたのだけど、家族にウケたので、ときどきディテールまで付け足すように。

今回も「お絵描き」をして旅支度をしていると、これを見ていた娘が「わたしも明日、幼稚園に行く用意の絵を描く」と写真(左)のものを。中央の線の右側が自分、左側がおかあさん、と、区切りを入れるところまで真似。

さて次の朝。一週間くらい、最高気温が30℃ほどと夏のようだったのが、ぐっと寒くなりました。予定表を取り出し、はりきって準備を開始した彼女、しばらくして「どうしよう、袖なしのシャツを描いちゃった」と悩み出しました。絵に描いたとおりにしなければならない、という考えだったもよう。

稲刈り 3連休その1

2013年09月24日 | ことば
3連休初日の土曜日は、ぎふ生協主催、JA実施の稲刈りイベントに参加。恵那市のこの田んぼは5月の田植え体験イベントでも訪れたところ。私と、もちろん娘は米作り初体験。田植えは、どろどろの土の中に素足で入る感触にハマル人と、それがダメな人に分かれるそうですが、私は前者。またやりたい。8月にはこの田んぼに住む虫の観察会でしたが、娘は(他の子同様)、カエル捕獲に夢中。この日はいよいよ、うちが植えた二列を中心に刈り取り。娘も、田植えのときも教えてくれたJAのお兄ちゃんに助けてもらって鎌を使いました。生産者やJAの人と話ができるのも面白くて、日本人以外にも参加してもらえないものかと。


その後の昼食会、いままではお米クイズ、虫クイズなどのマジメなイベントつきでしたが、今回は岐阜産米をPRするためのキャラクターとお姉さん二人が登場。このゆるキャラ(?)、写真のとおり名前は「ぎふマイの里」(四股名)。司会のお姉さんに指名されてステージに引っ張り出され、照れつつ踊る娘。

鏡文字と鏡に映った文字

2013年09月19日 | ことば
鏡文字最盛期だったころ、写真のTシャツを着ていた娘と歯磨きをしていたら、洗面所の鏡に映った文字を「ち・び・は・げ」と声に出して読みました。文字をある程度覚えて、目にした文字を読んでみたがる時期で、読むのはまだたどたどしかった(今でもスムーズとはいえない)にもかかわらず、左右逆の「ち」や「は」が読みにくくて混乱する私と違って、鏡文字をあまり苦にするようすなし。

鏡に映したとき目に入ってくるのは、実は左右ではなく奥行きが逆になった像で、それを人間(の脳)が経験して知っている世界に合致するよう解釈した結果、左右逆という結論に至る、というようなことらしいのですが、未だにそのリクツを把握できないでいます。

娘にはそういった知覚システムがまだ確立していなかったので、鏡に映った「ちびはげ」はわれわれと違って左右逆とは知覚されず、だからわりと容易に読めたのでしょうか。昨日の記事のように、われわれから見たら左右逆の文字を書いても、おかしいとは思わないようす。だとするとむしろ、大人が使う文字も、それを左右逆にしたものも「同じもの」と知覚できるような、(大人から見れば)なにやらとても融通の利く状況にあるのかも。

最近は、鏡文字も減り、手紙を書いても便せんの中を縦横無尽にくねくね、あるいはぐるぐると書き進んでいくこともなくなり、一定の方向に書くようになってきました。われわれが常に従っている慣習を意に介さない柔軟さ(?)がうらやましく思えるほどだったので、ちょっと残念。音声知覚の発達などで言われているのと同様、文字についても人は、発達の過程である能力を捨てることによって、大人と同じ、人間社会でうまく機能する認知を手に入れる、ということなのかもしれません。

鏡文字

2013年09月18日 | ことば
多治見市にある三の倉市民の森地球村という自然体験施設で娘が作ったキーホルダー。木に焼きごてで「おとうさん」と書いたのだけれど、少なくとも「と・さ」は左右が逆。これは三ヶ月ほど前に作ったもので、そのころはまだ鏡文字最盛期。間違いを指摘したり、直したりぜんぜんしなかったのに、それでも勝手に習得するようで、最近はほとんどみんな正しい。もうじきに、頼んでもこんなふうに書いてくれなくなる(というか、書けなくなる)でしょう。

ランナー生活からの引退

2013年09月13日 | 
日経ビジネスオンラインに40歳過ぎのランニングを否定するかと思われるインタビュー記事がありました(こちらから)。読んでみると実際には、「健康に生きるには、医者に依存し過ぎず自分で考えられる<患者リテラシー>が必要」というハナシで、ランニングはほんの一部。でも、ランニングに関する主張はタイトルから受け取れる通りで、一部引用すると

若い人は精神力をつけるために多少はいいかもしれないけど、40歳過ぎてやるものじゃないです。体が下り坂に向かっている時に自ら痛めつけるというのは愚の骨頂です。
(中略)
走る人は寿命が短いというデータも実際あります。走ったら元気になるんじゃなくて、元気な人が走ってるだけ。元気を浪費してるだけ。

うーむ。。。 18歳、大学受験を終えたその日から続けてきたけれど、家族とできるだけ長く過ごすことのほうが大事。思い切ってランナー生活と縁を切ろう。来年の一月、知人と出る約束の日本昭和村ハーフを最後にしよう。そう決心して、嫁さんにメールで伝えようかと考えて、はたと立ち止まりました。待てよ...

「<走る人は寿命が短い>って、ホントだろうか。この方は医者だから当然研究例に基づいて発言してるんだろうけど、そういう研究例が溜まってきてるんだろうか...」

そこで、「Running and longevity」という検索語でググったところ、やはりいくつかの研究があるようで、新しいものを見てみました。リンクの記事はCBSのもの(ココ)ですが、根拠となっている研究は、European Society of Cardiologyという学会の2012年の国際会議(こちら)における、デンマークの研究チームの"Mortality in male and female joggers"というタイトルの発表。

17,636人の健康な男女に1976年から2003年までの期間に4度調査をした結果、年齢、喫煙、飲酒、教育、収入などの影響を排除した上で、ジョギングをしている人のほうが寿命が男性で7.9歳、女性で7.4歳、長いという結果。炎症・組織破壊の指標であるCRPという数値もジョギングをする人のほうが低いそうです。

この他、二三の記事を見ましたが、同様にランナーのほうが長生きというものや、過度でないならば(あったり前)健康に寄与するというものしか見当たりませんでした。

一定の決着をつけたいならもっと探す必要があるんでしょうが、これでじゅうぶん。少なくとも、ジョギングは体に悪い、という決定的な結論は出ていないらしいということは分かりました。現時点の知見を総合すると「どちらとも言えない」というあたりだというなら、シャープに動けて、よく眠れて、好きなものが食べられて、持っている服が着られる、等々のメリットを考えると、私にはランナー生活を止める理由がありません。引退は撤回することにしました。

上記の記事で「情報収集よりも、大事なのは情報を取捨選択する力です。何が正しいか正しくないかという、見極めの力を持っているかどうか...」という「患者リテラシー」が提唱されています。この記事を見ただけでランナー生活引退を決心しかけたのはそれこそダメで、立ち止まって他の情報も参照して考え直したことこそ、そのリテラシーとやらに合致した行動と褒めていただけるのでは。インタビューには、

自然界で自ら好き好んで走る動物は人間以外いないんです。それは、走るということが有害だからです。

もちろん敵から逃げるとか、獲物を追う時は走りますが、あくまで短時間です。2時間も走っている動物はいない。

という箇所もあるんですが、前にマラソンの動向に関する記事(こちら)でも書いたように、ヒトは、二足歩行になって、遅いけれども長く走れるようになり、長い距離をカバーして屍肉漁りをするという戦略で適応した、という仮説もあることだし、ゆっくり長く走ったっていいじゃない、と思います。

お空を見ても

2013年09月11日 | かぞく
9月に入り幼稚園が再開。ところが娘は毎朝「おなか痛い」と主張。プール、水族館、花火と遊びたおした夏休みがあまりに楽しくて、まだ続いてほしいとでも思ってるんだろうと。幼稚園に行けば楽しそうなので、励ましつつ送り出していたら、三日目の夕方ついに発熱。仮病じゃなかった(反省)。

病院にいくと脱水気味との診断で点滴(当然泣く)、苦い薬を飲まされ、夜は39℃の熱が出て、と中々かわいそうな目に遭ったけれど、おかげで二日で完全復帰。かかり付けの医者によると、夏休み後半から胃腸カゼが流行り出したそうで、いま「きりん組」では4人くらいが交替で欠席中。

-------

今、私の母は、弟夫婦に生まれた孫、娘の従姉妹になるわけですが、この子の面倒を見る(&母親の援助)ため、ここ岐阜を離れて暮らしています。家が片付いて大変よいのですが(事情はここ)、整理をするたび、母が溜め込んだものが続々と出てくる。廃油洗剤が何本あるか分からないほどあるのを嫁さんが見つけた話を聞いた私が、「(母が)自分が死ぬまで使いきれないだろう」と言ったのに対して、嫁さんは「それどころか私たちが死ぬまであるかも」(たぶん誇張じゃない)。

ここで、熱でちょっとぐったり、嫁さんの腕に抱かれていた娘、両親が「死ぬ」を連発するのに反応したか、

「死んじゃったおじいちゃんやおばあちゃん、どこにいるのかな~。お空を見てもぜんぜん見えない」

と発言。嫁さんの祖父が亡くなったとき、火葬の際「おじいちゃんは煙になってお空に行ったから、ときどき思い出してあげてね」と言われたのをよく覚えているようで、しばしば口にしてはいましたが、実際に空にいる亡くなった人を見つけようとしているかのような発言には、返す言葉が見つかりませんでした。祖父にかわいがられて育った嫁さんはぐっと来たかも。ちょっとずつ、彼女なりに「死」に関して具体的なイメージが形成されつつあるのかも、と思わされた一幕でした。

「わんわん」ってどんな人?

2013年09月10日 | かぞく
先日、NHK・Eテレの「わんわんワンダーランド」を見ていた娘が、「わんわんの中には、誰か人が入ってるんだよね」と言いました。

以前、ファンタジーの世界に生きているかのような娘のことを記事にしました。そのころは人形や野菜はもちろん、お風呂でわたしの○○○○にまで話しかけていた彼女ですが、外界の認識が進んで、ついにわれわれと同じ世界に住みはじめたか。

そこでたずねてみました。

「中には、どんな人がいると思う? 怖い人? 面白い人?」

わんわんのキャラクターや、中に入って演じている俳優(&声優)のチョーさんが念頭にあった私は「面白い人」という答えを予想。果たして彼女の答えは

「やさしい人」

でした。もう一度、「かっこいいとかじゃなくて?」と他の言葉も与えてみましたが、受け入れず、やっぱりやさしい人。理由を尋ねると、

「きれいな声だから」

だそうです。

チョーさんまだまだがんばってください。