日本語を教えはじめて5週間。相変わらず小さなミスがちょこちょこあって、冷や汗が出る毎日ですが、楽しめてはいます。さて今週の初めのテスト、採点していてちょっと印象的なことがありました。学習した文法事項を使った会話の反応がよくて、順調だと思われる学生に、とんでもないミスがあることです。
返してしまったのですべては覚えていないのですが、いちばん衝撃的だったのは、「ゆっくり言ってください」という答えになるところを「きゅうりをください」と書いた答えです。それを書いたあるアメリカ人の学生は、文法事項の応用は早く正確なほうで、文字の形も習得できているようなのですが、発音が非常に悪いのです。「ゆっくり」などは「ゆきゅり(「り」は英語の「ri」)というふうにしか発音できません(そういうわけで「きゅうり」、でも試験の総得点はいい。)。彼以外でも同様に、「発音が悪い学生が単語を覚え切れていなくて、めちゃくちゃに書いている」という例がけっこう見られました。
そこで、今週からちょっとだけ方針転換。まず発音の修正について。「英語なまりを許さず、いちいち直しなさい」とTsujimura先生からは言われているのですが、簡単に治るものではないし、何度も言いなおさせると授業が楽しくなくなってしまわないかと心配で、一度言い直しをさせて難しそうだったらあまりしつこくはやらないようにしてきました。しかし、どうやらそれでは彼らの利益にならないようです。
語形を覚えるためには目標言語の音韻システムがそれなりに習得されている事がやはり前提になるようです。それではじめて聞いた語の音形が処理できて、記憶する段階に進める。思えばこれは第二言語習得だけでなく、第一言語習得でも同じことのようです。子どもについて、音韻情報を処理する認知機構(Phonological Loop)の能力が高いほうがその数ヵ月後の語彙習得の成績がよい、という論文を読んだことがあります(Working Memoryの研究で知られるBaddeleyとかそのグループだったと思う)。ということで、かわいそうだと遠慮せず、もうちょっとしっかり発音を直すことにしようと。
もう一つの方針変更は、「もうちょっと自分が話す」です。「ドリルセクションは教員が話してはいけない。学生に話してもらうのだ」という基本方針でいたのですが、学生がネイティブの音声を聞く回数を増やすのも重要かも、と思ったのです。現状では、他の学生が正しく使えた日本語を聞いて、すぐ自分も発言してみる、ということも多いのですが、他の学生の発音をモデルにしていたのでは音韻の習得が進まないだろうと考えました。家でテープはあまり聞いてくれてないようだし。
私は、外国語教育における音声学の役割を「発音もよくなったらまあかっこいいし、ネイティブに見くびられなくていい」って程度のことで、「外国語トレーニングの中では比較的どうでもいいもの」と思ってきました。でも、そうでもなく、語彙発達や言語情報処理の基盤を形成する重要な訓練かもしれない、と思うようになりました。音声学者の端くれとしては悪くないことだし、自分が役立てることがあるならうれしい。今後もこの点は意識して様子を見ていこうと思っています。
返してしまったのですべては覚えていないのですが、いちばん衝撃的だったのは、「ゆっくり言ってください」という答えになるところを「きゅうりをください」と書いた答えです。それを書いたあるアメリカ人の学生は、文法事項の応用は早く正確なほうで、文字の形も習得できているようなのですが、発音が非常に悪いのです。「ゆっくり」などは「ゆきゅり(「り」は英語の「ri」)というふうにしか発音できません(そういうわけで「きゅうり」、でも試験の総得点はいい。)。彼以外でも同様に、「発音が悪い学生が単語を覚え切れていなくて、めちゃくちゃに書いている」という例がけっこう見られました。
そこで、今週からちょっとだけ方針転換。まず発音の修正について。「英語なまりを許さず、いちいち直しなさい」とTsujimura先生からは言われているのですが、簡単に治るものではないし、何度も言いなおさせると授業が楽しくなくなってしまわないかと心配で、一度言い直しをさせて難しそうだったらあまりしつこくはやらないようにしてきました。しかし、どうやらそれでは彼らの利益にならないようです。
語形を覚えるためには目標言語の音韻システムがそれなりに習得されている事がやはり前提になるようです。それではじめて聞いた語の音形が処理できて、記憶する段階に進める。思えばこれは第二言語習得だけでなく、第一言語習得でも同じことのようです。子どもについて、音韻情報を処理する認知機構(Phonological Loop)の能力が高いほうがその数ヵ月後の語彙習得の成績がよい、という論文を読んだことがあります(Working Memoryの研究で知られるBaddeleyとかそのグループだったと思う)。ということで、かわいそうだと遠慮せず、もうちょっとしっかり発音を直すことにしようと。
もう一つの方針変更は、「もうちょっと自分が話す」です。「ドリルセクションは教員が話してはいけない。学生に話してもらうのだ」という基本方針でいたのですが、学生がネイティブの音声を聞く回数を増やすのも重要かも、と思ったのです。現状では、他の学生が正しく使えた日本語を聞いて、すぐ自分も発言してみる、ということも多いのですが、他の学生の発音をモデルにしていたのでは音韻の習得が進まないだろうと考えました。家でテープはあまり聞いてくれてないようだし。
私は、外国語教育における音声学の役割を「発音もよくなったらまあかっこいいし、ネイティブに見くびられなくていい」って程度のことで、「外国語トレーニングの中では比較的どうでもいいもの」と思ってきました。でも、そうでもなく、語彙発達や言語情報処理の基盤を形成する重要な訓練かもしれない、と思うようになりました。音声学者の端くれとしては悪くないことだし、自分が役立てることがあるならうれしい。今後もこの点は意識して様子を見ていこうと思っています。