時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

そうは聞こえない

2012年08月19日 | 
私は生き物が苦手。小さいころ、虫採りをして遊んだ経験はなし(周りで見てるだけ)。男の子の多くがやるように、生き物をなぶり殺したこともありません。一方娘は、虫大好き。この点で、嫁さんの血を引いたらしい(または、わたしと対照的に、虫が友達、おたまじゃくし等の虐殺も数知れない弟)。ダンゴ虫でも、バッタでも、見つけたら素通り不可能。このあいだは、隣のお兄ちゃんが採ったアブラゼミを「お母さんに見せる」と持ってきました。「ジジジジジ・・・」と苦悶する蝉、尻込みする私。でも、死骸も持ってくるので、お隣のことちゃんといっしょに図鑑で調べて、娘も私も、セミの種類が見分けられるようになってきました。

夏も終わりに近づき、暑い多治見も朝晩は過ごしやすくなってきましたが、この季節、いつも思うことがあります。ミンミンゼミの声は「ミーンミーン」と聞こえるし、ツクツクボーシは「ボーシ」とは聞こえないけど、まあOK。でも、ヒグラシの声は、「カナカナカナ・・・」とは全っ然、聞こえない。そこで、ヒグラシの鳴き声の入った動画をYou Tubeでさがして娘に見てもらい、「このセミの声を真似して」と頼むと、「シシシシシ・・・・」。(わたしは「だろー!」と大喜び)

いわゆる「聴きなし」は音声の忠実な模写を目指したものではないので、鳴き声そのものと多少の距離があってもおかしくはない。ホトトギスの「特許許可局」なんて、そう思って聴けば、そう聞こえなくもない、というぎりぎりの線だけど、意味ある音形を与えることで記憶を助けて、同定に利用しよう、ということでしょうか。でも、ヒグラシの声が [ka・・] ってこたあない。まして [na] に聞こえる部分がどこに? 私の感覚では、摩擦音で写すべき。たとえカ行音を使うにしたって、せいぜい母音が短くて摩擦音性のノイズ成分の多い [ki] だろうと。一番 Sonority の大きい、[a] と組み合わせた [ka] とは・・・ 

この無理のある聴きなしが生まれ、受容され、確立した過程に何があったのか。晩夏の夕方に、趣き深い音色を出すのは確かですが、それを重視したためなのか、現実から遠ざかりすぎてはいないか。なにしろ「カナカナ」では、ヒグラシの声を聴いたことがない人にとって、同定の手がかりになると思えません。鶯が「人来」と鳴くというところから、ハ行音に [p] が存在した時期が遠い過去ではない間接的な証拠を見出したように(亀井孝「春鶯囀」)、将来の言語学者が、ヒグラシの声と「カナカナ」を結びつけて、「カ行は摩擦音だった」なんて結論を出したりして。

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古い曲ですが、山下達郎の「甘く危険な香り」が、カーティス・メイフィールドのTripping Outという曲のパクリだ、というウワサ話があるようです。聴いてみたところ、確かにリズムセクションの各パートのパターンはそっくり。コード進行はぜんぜん違う(最初だけはどちらもFmaj7だけど)。でもそもそも、あの「ダッダッズダッッダッ」(音符にできないのでうまく表せませんが)というリズム、そんなに珍しい? レゲエとか、スカとか、ドドンパとか、ある特定のリズムパターンを使った曲には似たのがいくらでもあることにならないか? それから、Tripping Outが出た1980年以前に、こういうリズムパターンの曲はなかったんでしょうか。山下氏によれば、「甘く~」を作った時点で、Tripping Outは全く知らなかったのだとか。それが真実かどうかとか、まだ穿鑿はできるのかもしれませんが、そこから先は、似たのを探しては「鬼の首を取りたい」、ある種の音楽「通」の趣味の世界だけのハナシじゃないか、という気がします。

以上、似てるようには聞こえない、ちょっとてらい過ぎ、うがち過ぎなのではないの? という件二つでした。

五輪からみる女子マラソンの動向

2012年08月06日 | 
五輪はここまでほとんど見ておらず、状況もほとんど知りませんが、昨晩は遊び倒した娘が早く寝たあと、嫁さんと女子マラソンを見てみました。レースは、雨、テクニカルなコースなどの要因でちょっと紛れて、面白い展開になりました。でも、大きな波乱は起きず、力のある選手の中でのサバイバルレースとなりました。日本選手は、まあ、ほぼ力量どおりという内容・結果でしょうか。

このレースの結果をどう見るか、なんですが、スポーツナビのインタビューに答えて金哲彦さんがおっしゃってる内容にほとんど賛成、というか納得なのですが、驥尾に付して少々。

以前、日本の男子のマラソンの世界における競争力と関連して、箱根駅伝の功罪を考えるエントリーを書いたのですが(ここ)、そこで、こんな発言をしました。

陸上長距離の真の花形競技は5000m、10000m。ケニア、エチオピアの国内の競争のレベルがあまりに上がって、そこからあぶれた人の参入で、マラソンの高速化が始まっていましたが、ついに夏の五輪まで。これはもう二度と日本選手は勝てないんじゃないか。(中略)これは日本だけの問題じゃなくて、世界のどこも東アフリカの高地の国に勝てない、という状況が続くだろう......

これは、男子の話で、女子については、「まだそこまで競争が激化してないわけで、だからチャンスがあった」と書いてます。今回それを裏付けるかもしれないデータを拾ってみました。上のグラフは、1988年、女子マラソンが五輪の種目になってからの、スタートリストに載った選手の数。男子はもっと前から始まってますが、比較のために載せました。

見てのとおり、男子の参加選手は横ばいですが、女子はどんどん伸びて、今大会ではついに男子を超えてしまいました。もちろん、競技レベルは人数だけで決まるものではありませんが、これまでの女子マラソンは、競技の大会への導入~普及の時期であり、かつ参加人数も飽和状態でない時期ということで、男子に比べたら、若干ラクだったのは間違いないと思われます。

また、上記エントリーでは、

北京五輪では女子マラソンにも愕然としました。新たに強い選手が全然参入してきてない。力が落ちたヌデレバがまだ2位。故障するほど無理しないで、選考レースの力をそのままもってきたら、野口さん楽勝だったじゃん、なんてもったいない、と。だからまだ女子にはチャンスがあるかもしれない、男子ほどは競技レベルが上がってきてない

と、書いたのですが、割とアッサリ、その状況は終わりを告げたかもしれません。金哲彦さんは、今回のレース内容を、「女子マラソンの男子化」と評しています。具体的には、「スピード化していて、もともとトラックの選手が多くいます。なので、淡々としたレースではなく、何回も揺さぶりをかけてくる」と。私の解釈では(金さんのおっしゃるとおりなんですけど)、男子について述べたのと同じ、「ケニア、エチオピアの国内の競争のレベルがあまりに上がって、そこからあぶれた人の参入」ということが始まっているのだろうと思います。

上記エントリーでも書いたのですが、陸上長距離の王者は本来5000m、10000mなわけで、力のある選手はこの競技で代表になり、勝ち、英雄になろうとする。とくに、現在競技レベルの卓越したケニア(とかエチオピア)は、レースになると自国の選手で集団を作って、みんなでぶっ飛ばして他を振り落としておいて、それからその中だけで競争して、1~3位独占、とかやっちゃう。国内の競争が熾烈なこれらの国で、層が厚すぎるため代表まで届かない選手を中心に、マラソンへの本格的参入者が増え、5000m、10000mでやってることを、マラソンでもやる。これはたまらん。

たしかに高橋、野口の最盛期からみると日本の競争力も落ちているだろうけど、彼らの力を今、持ってきても、きついだろう、というレベルに、ついに女子も達しようとしていることが明らかになったのが昨日のレースだった、と思われます。この趨勢は今後も続いて、「東アフリカ以外が勝つのは非常に困難」が男子も女子も、という時代になりそうです。

それにしても、なんで東アフリカの人が強いのか。貧しさから来るハングリー精神とか、高地適応による心肺機能【追記:むしろ「循環系の機能」でしょうか】の優秀さとか、聞いたことがあるのですが、いつも思い出すのが、Richard Leakeyの本(The Origin of Humankindだったと思う)に書いてあった「アフリカで生まれた人類は、屍肉漁りのため走り回っていたので、マラソンランナーのようだっただろう」という一節(うろ覚え)。今の東アフリカの人たちが20万年近くも前のまま、ってことはないでしょうが、その適性がいまだに残っていて...と、つい考えたくなってしまいます。