TDY、Temporary Duty。アメリカの軍隊用語で出張を意味する。世界の僻地の出張記録!TDYの次は日常の雑感

現役時代の出張記録。人との出会いと感動。TDY編を終え、写真を交えた日常の雑感を綴る。

TDY, Temporary Duty ビルマ編 1

2013年09月06日 | 旅行
 Temporary Duty(TDY) とはアメリカの軍隊用語で「出張」を意味する。世界の僻地とも云えるビルマ、パプアニューギニアの離島、マダガスカル、ラオスなどの出張記録を綴りたい。

 ビルマがミャンマーに国名を変える前の年(1988年)にラングーン大学の学生を主体とする暴動があり、ビルマへの出張が余儀なく一年間延期された。

 当時は商用のビザであっても7日間しか発行されず、観光ビザはよほどのことがない限り許可されなかった。ジャーナリストの入国は例外なく拒否されていた。
 ビルマの取引先が外務省から事前に許可を得てから私に招待状を送ってくる。それを持って品川の御殿山にあるビルマ大使館にビザの申請をし、一週間ほど待たされてやっとビザが手に入る。

 初めてビルマに行ったのは1989年の6月だった。その時は国名がビルマからミャンマーに、首都のラングーンがヤンゴンに変ったばかりだった。何もかも古臭い建物の中で、空港の「Yangon」の表示だけが新しかったことを今でも記憶している。その年だけで4回もミャンマーに通ったが、目当ての銘木のカリンはただの一本も手に入らなかった。悔しかったが、元を取らなければと考え、次の年も数回通ったがやはり駄目だった。
 「カリンが手に入りました。どうぞお出で下さい」とのテレックス―当時のミャンマーではファックスは一般的ではなく、全て公共のテレックスを使っていた。従って秘密は保たれない―を受け取り、今度こそはと行ってみると、ほんの数本しかない。そしてだらだらと云い訳を聞かされる。

 以下の写真はその当時のミャンマー(私にとっては今でもビルマ)の姿の一部である。当時、一眼レフを持って入国すれば、ジャーナリストとみなされ、入国を拒否される恐れがあった。従って、フィルムのバカチョンカメラでの撮影しか出来なかった。その写真の複写なので鮮明さに欠けるのはご容赦願いたい。



 ラングーン(現ヤンゴン)から、国道を北へ車で3、40分も行き、少し幹線道路からそれると、このような農村地帯に出会う。この先に新首都のポンピドー、更に北の古都マンダレーへと続く。



 ラングーンの旧官庁街から少し離れているので、昼間は割と人出がある。1989年当時は軍政の締め付けが強く、つい最近までは戒厳令が敷かれており、夜の10時から翌朝の4時までは一切外出禁止であった。我々外国人であっても、ホテルから一歩でも出たら兵士に撃たれてしまうと取引先の社長から厳重に注意を受けた。
 また、市民の集会は全て禁じられており、人が5人以上集まると理由の如何に拘らず集会とみなされる。従って人の多く集まる映画館は閉鎖されたままである。而し、レストランは閉鎖されていなかった。軍人も利用するので閉鎖するわけにはいかないのだそうだ。



 旧官庁街。この場所に来るのは軍人か、輸入のための外貨割り当てを貰おうと日参する人たち。輸出をすると、その売り上げの60%は無条件で外貨の割り当てを受けられる。従って、貿易商は輸出と輸入の両方をやろうとしている。而し、何をするにも軍の許可が必要なので希望通りにはいかない。



 ラングーン最大の市場であるボジョー・マーケット。生活に必要な海産物、野菜、衣類、雑貨等々。生きている馬や牛、それに自動車以外はどんなものでもある。閉鎖されたままの映画館の道路を隔てた向かい側にある。この道路の先に「アウン・サン通り」がある。スー・チー女史の父君であるアウン・サン将軍にちなんでつけた名前である。アウンサン・スーチーと新聞や雑誌で書かれているが、これは間違いではなかろうか。アウン・サン将軍の娘のスー・チーが正しいように思う。
 ビルマには苗字がない。私の取引先の社長はミント・ウーと云うが、彼の娘はサンダー・ルーと云う。飛行機に初めて乗った時にアライヴァル・ノーティス(到着時の申告書)に「ファミリーネーム(苗字)」を書くように云われて困ったと云っていた。仕方なく、上と下の名前を分けて書いたそうだ。



 ラングーン市内にある一般的な庶民のアパート。道路に面している部屋は明るいが、それ以外は暗くじめじめしていた。日中は40度近くになり、湿度が非常に高い。而し、エア・コンなどは望むべくもない。

 貧富の差は非常に大きく、私の取引先の材木商、政府の高官(軍人ではない)などは500坪を超える敷地に素晴らしい邸宅を構えている。而し、ここにもエアコンはない。樹木が多いためか、窓を開けると涼しい風が入ってくる。





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2 コメント

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TDY (和田堀のF)
2013-09-08 15:15:47
歴史ある貴重な記録ですね。 緻密化してさらに肥大化し、且つ暗号も解読されてしまう様な情報技術の進化は全世界を瞬時に駆け巡る。
携帯電話がなくても平穏に暮らしている人々の中に土足で入り込み押し付けがましく方向を間違えた経済支援は人類に不幸をもたらすと思うこの頃です。
これからも記録を残して下さい。
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iPadで何時でも何処でも (赤木紀み子)
2013-09-29 16:18:16
良くここまでしっかり記録していらっしゃいましたね。当時は、大変にお忙しかったとお察しします。ミャンマーの事情もさることながら、戦後日本の復興を目指した企業戦士の姿を彷彿とさせます。

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