子どもを育てるようになって、ずっと気になっていることがありました。それが最近、やっと説明が出来そうになってきたので、ここで書いてみます。
うちの子どもたちは、ピアノを習っています。毎回往復45分くらいかけて車で行きます。
習い事をするとなると、必ず送迎が必要です。
ピアノ教室で、ものすごく弾けるお子さんが何人もいます。その子たちは才能は勿論の事ですが、個人的に追加のレッスンを付けていたりします。うちの子ども達はピアノに情熱はないので追加のレッスンは受けなくて構わないのですが、やりたいかやりたくないかという問題ではないのです。
私の家から送迎をしてレッスンを受けさせてやれるのは、今の回数が限界です。
岐阜の田舎のピアノ教室ですら、こうして地域や経済力で差がつきます。
たぶん、もっと奥の僻地にだって、音楽的素養に恵まれたお子さんはいるはずですが、何しろ子どもが少ない町には教室がない。
勿論ピアノだけの話ではありません。
限界集落と言われるような町には、学習塾だって、自転車で行ける範囲には一軒もない。スイミングスクールも。
保護者が時間的経済的に余裕があれば、頑張って通わせるのかもしれないけれど、おのずと遊ぶ時間はなくなります。(何しろ遠いから)
こういう事を書くと、田舎はでも、美味しい野菜や自然があるから良いじゃない、なんて、田舎の方が子育てにいい、みたいな話をする人がいます。が、学力に地域格差が出ると結局どんなことになるのでしょうか。
例えば岐阜県の進学に強い高校を目指すとして、今や学習塾に通わないで合格する子どもなんてほんの一握りだと思います。だから、子どもの少ない僻地にいる子どもは、学習塾に通いにくいというハンディと、高校がべらぼうに遠いというハンディを背負うことになります。
ということは、僻地からはいわゆる有名大学の卒業生が生まれにくいということになりませんか?
今の日本の構造が変わるには、政治の世界の力関係、経済界での力関係を変えなければならないです。なのに、このままでは絶対に変わらないだろうと思っています。
だって、有名大学へ行く子どもたちの多くは、今の社会構造で不都合を感じない子どもに違いないと思うから。
この事は勿論、地域の格差だけではなく、経済的な格差にも言えることです。
今の日本は決して下剋上の起こらない階級社会のような構図に見えます。
でも、本当はこのままでは実は日本全体にも良くないのですよ。
だって、素晴らしい科学者に成りうる子や、ものすごく冴えた経営者に成りうる子が、全て都会の富裕層のお宅に集まっているわけがない。
深い学びを子どもたちに与えないことは大きな損失です。
だから、子どもたちに「私なんて、貧乏だから無理だ」と思わせない社会、学びたい子に学びのチャンスの与えられる社会が来て欲しいと思います。
長々とすみませんでした。
今週は、火曜日、木曜日、金曜日での営業です。
木曜日、金曜日は、ほうじ茶のシフォンサンドがあります。