髪が短くなってはじめてシャワーを浴びると、絞る髪がなくて驚く。
シャンプーも半量くらいでつけ過ぎた感じがしてしまうし、トリートメントなど、私はいつもロングの末の毛先にしかつけないのでつけるところがない。
Tシャツを着て、いつもは髪をひっぱり出していたのに、いつもの癖でその手が空回りしてしまった。
当たり前だけれど、ドライヤーの風を当ててそのまま髪をぐしゃっとできるのが何とも心地よい。
鏡の中の確かな違和感は、人の目に触れられることで鍛えていける。
あとは背中や首回りの日焼けが気になることと、昔からワックス嫌いだけれどもやはりオイルではどうにもならないので、ワックスにも慣れたい。
あと、最近はずっと前髪も上げていたし常に束ねていたので、顔周りに髪がある鬱陶しさというのは多分慣れられないかもしれない。
家に帰ったらマーシーターバンが役立ちそうだ。
次展覧会の題材を決めるのにもう時間がない。
詞と、配置、章法など、どうしようかととりあえず書いてみる。
マーシーの詞も書きたいと思って「TRAIN TRAIN」を書いてみる。
次に「リンダリンダ」も試しに書いてみる。
もうどうしようもない。
ドブネズミみたいに美しくなりたい 写真には写らない美しさがあるから
と書いているその最中に私は涙があふれてしまってその場にへたり込んでしまった。
まだこんなふうになるのかと、私は私に驚いた。
そんなの嘘なんじゃないかと思うくらいに身体が反応する。
何が嘘で何が本当か、そんなの分からないけれど、本当に本当らしいということは私の身体が教えてくれる。
「リンダリンダ」については文字通りに歌詞を受け取っているわけでもないし、詞だけで言えば他の詞の方が私にとってわかりやすいものはたくさんある。
でも、何がどうなんて説明できないけれど、でも、当たり前である、これが私のはじめてのロックンロールだったわけなのだから。
たぶん今のうちにこれを書いておいた方が良い気はする。
他にも色々と書きたい詞はあるけれど、美味しいものは最後に、という精神は捨てて今最も私を揺さぶるものを、という順番で行きたいと思う。
「TRAIN TRAIN」だって相当にぎゅうっとなるけれど。
詞の「リンダリンダ」を音の通り全部書くのか、そんなにいっぱい書けるのか、とかどうやって作品に仕立てれば良いのか、非常に悩ましい作品になりそうだけれど。
あと、先生的にこれを書いていいかどうかという感触も一応伺っておきたい。
まあ難色を示したくらいでそれをやめるつもりもないけれど。
赴くままに筆を動かすと、雰囲気が丸々前作の「情熱の薔薇」のようになってしまう。
別にそれもそれだから良いのだけれど、ただのパリエーション知らずの技術不足である面からすると面白みに欠ける。
どうしたらこれを上回れるだろうと考える。
一旦素案を作ってこれから練っていくことにしよう。
しかし、少しばかり懸念されるのが、入選しなかった場合全く日の目を見ることが無くなってしまう点である。
それに、今回は漢詩作品も出品するので、例えば2作品入選したとすると上位作品の方1点のみが展示されるというルールになっているので、漢詩作品が選ばれた場合も、それはそれでかな交じり作品が日の目を見ることがなくなる。
これを書くのは、全部が全部自分のためだけれど、でもやっぱり誰かに見てもらいたいというのは露出狂的側面もあって素直なところである。
それにしても新居は、細長いリビングに下敷きを広げて、まだ十分に余裕があって乾かす場所もあってなんて快適なのだろう。
ゴミが自由に出せないこともIHコンロが未ださっぱり手なずけられなくても、そうだ私はこのために引っ越したのだと思える。
他人のとても良い話と、他人のとても悪い話を聞く。
とても良い話は、私もとても嬉しくなる。
感動熱狂、みたいなことは、他人であっても美しい。
とても悪い話は、私がフジロックのビールで噛み付いていた内容の延長のことで、やっぱり全然入ってこない。
ただ、とても悪い話だった。
友人がもうすぐ29歳になる。
当時「29歳のクリスマス」を見て、「おばさんは色々と大変だなあ」と間違いなく思っていた10代の私。
あの時の山口智子と松下由樹と柳葉敏郎が私にとってリアルなものではないけれど、その年齢に事実としてなるということは事実である。
何はともあれ、29歳になろうが、30歳になろうが、50歳になろうが、80歳になろうが、本人が生きていて楽しいと思えるのならばそのことに毎日でもお祝いをしましょう、という気分になれるくらい、友人が29歳になることはおめでたいではないか。
シャンプーも半量くらいでつけ過ぎた感じがしてしまうし、トリートメントなど、私はいつもロングの末の毛先にしかつけないのでつけるところがない。
Tシャツを着て、いつもは髪をひっぱり出していたのに、いつもの癖でその手が空回りしてしまった。
当たり前だけれど、ドライヤーの風を当ててそのまま髪をぐしゃっとできるのが何とも心地よい。
鏡の中の確かな違和感は、人の目に触れられることで鍛えていける。
あとは背中や首回りの日焼けが気になることと、昔からワックス嫌いだけれどもやはりオイルではどうにもならないので、ワックスにも慣れたい。
あと、最近はずっと前髪も上げていたし常に束ねていたので、顔周りに髪がある鬱陶しさというのは多分慣れられないかもしれない。
家に帰ったらマーシーターバンが役立ちそうだ。
次展覧会の題材を決めるのにもう時間がない。
詞と、配置、章法など、どうしようかととりあえず書いてみる。
マーシーの詞も書きたいと思って「TRAIN TRAIN」を書いてみる。
次に「リンダリンダ」も試しに書いてみる。
もうどうしようもない。
ドブネズミみたいに美しくなりたい 写真には写らない美しさがあるから
と書いているその最中に私は涙があふれてしまってその場にへたり込んでしまった。
まだこんなふうになるのかと、私は私に驚いた。
そんなの嘘なんじゃないかと思うくらいに身体が反応する。
何が嘘で何が本当か、そんなの分からないけれど、本当に本当らしいということは私の身体が教えてくれる。
「リンダリンダ」については文字通りに歌詞を受け取っているわけでもないし、詞だけで言えば他の詞の方が私にとってわかりやすいものはたくさんある。
でも、何がどうなんて説明できないけれど、でも、当たり前である、これが私のはじめてのロックンロールだったわけなのだから。
たぶん今のうちにこれを書いておいた方が良い気はする。
他にも色々と書きたい詞はあるけれど、美味しいものは最後に、という精神は捨てて今最も私を揺さぶるものを、という順番で行きたいと思う。
「TRAIN TRAIN」だって相当にぎゅうっとなるけれど。
詞の「リンダリンダ」を音の通り全部書くのか、そんなにいっぱい書けるのか、とかどうやって作品に仕立てれば良いのか、非常に悩ましい作品になりそうだけれど。
あと、先生的にこれを書いていいかどうかという感触も一応伺っておきたい。
まあ難色を示したくらいでそれをやめるつもりもないけれど。
赴くままに筆を動かすと、雰囲気が丸々前作の「情熱の薔薇」のようになってしまう。
別にそれもそれだから良いのだけれど、ただのパリエーション知らずの技術不足である面からすると面白みに欠ける。
どうしたらこれを上回れるだろうと考える。
一旦素案を作ってこれから練っていくことにしよう。
しかし、少しばかり懸念されるのが、入選しなかった場合全く日の目を見ることが無くなってしまう点である。
それに、今回は漢詩作品も出品するので、例えば2作品入選したとすると上位作品の方1点のみが展示されるというルールになっているので、漢詩作品が選ばれた場合も、それはそれでかな交じり作品が日の目を見ることがなくなる。
これを書くのは、全部が全部自分のためだけれど、でもやっぱり誰かに見てもらいたいというのは露出狂的側面もあって素直なところである。
それにしても新居は、細長いリビングに下敷きを広げて、まだ十分に余裕があって乾かす場所もあってなんて快適なのだろう。
ゴミが自由に出せないこともIHコンロが未ださっぱり手なずけられなくても、そうだ私はこのために引っ越したのだと思える。
他人のとても良い話と、他人のとても悪い話を聞く。
とても良い話は、私もとても嬉しくなる。
感動熱狂、みたいなことは、他人であっても美しい。
とても悪い話は、私がフジロックのビールで噛み付いていた内容の延長のことで、やっぱり全然入ってこない。
ただ、とても悪い話だった。
友人がもうすぐ29歳になる。
当時「29歳のクリスマス」を見て、「おばさんは色々と大変だなあ」と間違いなく思っていた10代の私。
あの時の山口智子と松下由樹と柳葉敏郎が私にとってリアルなものではないけれど、その年齢に事実としてなるということは事実である。
何はともあれ、29歳になろうが、30歳になろうが、50歳になろうが、80歳になろうが、本人が生きていて楽しいと思えるのならばそのことに毎日でもお祝いをしましょう、という気分になれるくらい、友人が29歳になることはおめでたいではないか。
