エアコンを付けっぱなしで寝てしまったのかと思った。
ひんやりした朝の空気の中、薄い布団を抱きかかえていた。
どんなに暑い朝でも、私は朝にホットコーヒーを飲む。
秋めいてきた日の朝は、大好きな夏が通り過ぎてしまう淋しさよりも、コーヒーの温かさの幸せ感の方が勝る。
また期限に迫られて、展覧会の書作をする。
私の中で、1枚の大きな紙に対する自主性のようなものがはっきりと生まれてきていて、それを紙の上で体現するのはとても楽しい。
何をやっても良い、わけではないけれど、限りなく、何をやっても良い、のだ。
何をやっても良い、と言うのが嫌いだった。
何をやっても良い、では、何をやったら良いのか、わからなかった。
私はイメージに入り込んだり空想できるようになって、その未知のスペースワールドを十分に楽しむこともできるようになった。
そのことは、フジロックで七尾旅人が私に合格をくれた。
対面する真っ白な紙に、私の筆の行く先は最初から特に出来上がっているものではなく、足をこっちに出したら面白いかな、というふうに進んでいく。
時に意図的に曲げる、時にあらぬ方向に飛ぶ。
結果的に、意図したことも意図しなかったことも、良いかどうかは一晩寝かせ全部が完全に乾いてみないと分からない。
未だおよその意味しか取らないまま書いている漢詩作品と、書いている途中にぎゅうっとなってしまう「リンダリンダ」
どちらもそれぞれ、書作する楽しみがある。
それにしても、新聞紙を私は生活の中で使いたいときがよくあるのだけど、新聞紙がなかなか手に入らない。
書道をするときの一時置き場にしたり、汚れ防止に敷いたり、ブーツに詰めたり、何かをくるんだり、そんなことをしたいのだけど、今の生活は新聞紙に遠い。
幼い頃から、新聞紙は資源回収のときにまとめて縛って出すもの、と思っているので大量に簡単に手に入るもの、という認識が消えないのだけれど。
カラー印刷の広告でもなくて、何かを印字したA4の用紙でもなくて、新聞紙が良い。
必要に駆られて150円出して、読まない新聞を買う。
以前私が人に言われて、痛いというか、いてもたってもいられなくなったその発言を、今度は私が友人に対してしてしまう。
私がそれを人から言われたとき、私は他人に干渉されたと少し怒っていた。
私はそれからまもなく、言われた内容が自分の中である一定の消化にたどり着いて、私に干渉してくれたことを本当に心からありがたく思った。
だからと言うわけではないけれど、私は友人の、非常に心の奥深くのところを突いてしまったのかもしれない。
考えても簡単にはわからなそうなことで、でもものすごく自分の核に触れていそうなことで、と言うか考えなければいけないことなのかどうかもさえも分からないようなこと。
でも、それについて友人は知りたいし考えたいタイプの人間なのではないかなと勝手に思うから言ってしまったというのもあるし、私自身のそれについてもっと深く入り込んでみたいと思うから、他者への跳ね返りで自分を知りたいという気持ちもあった。
「面倒くさい」とか「どっちでもいい」とか「考えてもしょうがない」とか、確かにそういう側面もあるようなことだ。
「感じることが大切だ」ということもごもっともだ。
しかし、あまりにも「感じること」を最優先させすぎるがあまり本当は理解に至れることも理解に至れないのは、何か大事なことを取り逃がしているような気がしてならないのだ。
それに、「感じること」はいずれにせよ制御できないのだし、それはもう身体に任せていたって問題なさそうではないか。
私も友人も、笑えなくなったり、寝られなくなったりしたら、本当にそれは大問題だけれど。
どうにもならない破滅に向かうような性質では、私も友人もないように思う。
どうせ、暗くされたり、暖かくされたり、白すぎたり、乗り物に乗ったりすれば寝てしまうし。
その話するだけでも、笑ってしまうし。
そんな笑いごとだっけと、大真面目に考えた後に、ふっと笑ったらいいかなと、私はそう思う。
もしも僕がいつか君と出会い話し合うなら
そんなときはどうか愛の意味を知ってください
ひんやりした朝の空気の中、薄い布団を抱きかかえていた。
どんなに暑い朝でも、私は朝にホットコーヒーを飲む。
秋めいてきた日の朝は、大好きな夏が通り過ぎてしまう淋しさよりも、コーヒーの温かさの幸せ感の方が勝る。
また期限に迫られて、展覧会の書作をする。
私の中で、1枚の大きな紙に対する自主性のようなものがはっきりと生まれてきていて、それを紙の上で体現するのはとても楽しい。
何をやっても良い、わけではないけれど、限りなく、何をやっても良い、のだ。
何をやっても良い、と言うのが嫌いだった。
何をやっても良い、では、何をやったら良いのか、わからなかった。
私はイメージに入り込んだり空想できるようになって、その未知のスペースワールドを十分に楽しむこともできるようになった。
そのことは、フジロックで七尾旅人が私に合格をくれた。
対面する真っ白な紙に、私の筆の行く先は最初から特に出来上がっているものではなく、足をこっちに出したら面白いかな、というふうに進んでいく。
時に意図的に曲げる、時にあらぬ方向に飛ぶ。
結果的に、意図したことも意図しなかったことも、良いかどうかは一晩寝かせ全部が完全に乾いてみないと分からない。
未だおよその意味しか取らないまま書いている漢詩作品と、書いている途中にぎゅうっとなってしまう「リンダリンダ」
どちらもそれぞれ、書作する楽しみがある。
それにしても、新聞紙を私は生活の中で使いたいときがよくあるのだけど、新聞紙がなかなか手に入らない。
書道をするときの一時置き場にしたり、汚れ防止に敷いたり、ブーツに詰めたり、何かをくるんだり、そんなことをしたいのだけど、今の生活は新聞紙に遠い。
幼い頃から、新聞紙は資源回収のときにまとめて縛って出すもの、と思っているので大量に簡単に手に入るもの、という認識が消えないのだけれど。
カラー印刷の広告でもなくて、何かを印字したA4の用紙でもなくて、新聞紙が良い。
必要に駆られて150円出して、読まない新聞を買う。
以前私が人に言われて、痛いというか、いてもたってもいられなくなったその発言を、今度は私が友人に対してしてしまう。
私がそれを人から言われたとき、私は他人に干渉されたと少し怒っていた。
私はそれからまもなく、言われた内容が自分の中である一定の消化にたどり着いて、私に干渉してくれたことを本当に心からありがたく思った。
だからと言うわけではないけれど、私は友人の、非常に心の奥深くのところを突いてしまったのかもしれない。
考えても簡単にはわからなそうなことで、でもものすごく自分の核に触れていそうなことで、と言うか考えなければいけないことなのかどうかもさえも分からないようなこと。
でも、それについて友人は知りたいし考えたいタイプの人間なのではないかなと勝手に思うから言ってしまったというのもあるし、私自身のそれについてもっと深く入り込んでみたいと思うから、他者への跳ね返りで自分を知りたいという気持ちもあった。
「面倒くさい」とか「どっちでもいい」とか「考えてもしょうがない」とか、確かにそういう側面もあるようなことだ。
「感じることが大切だ」ということもごもっともだ。
しかし、あまりにも「感じること」を最優先させすぎるがあまり本当は理解に至れることも理解に至れないのは、何か大事なことを取り逃がしているような気がしてならないのだ。
それに、「感じること」はいずれにせよ制御できないのだし、それはもう身体に任せていたって問題なさそうではないか。
私も友人も、笑えなくなったり、寝られなくなったりしたら、本当にそれは大問題だけれど。
どうにもならない破滅に向かうような性質では、私も友人もないように思う。
どうせ、暗くされたり、暖かくされたり、白すぎたり、乗り物に乗ったりすれば寝てしまうし。
その話するだけでも、笑ってしまうし。
そんな笑いごとだっけと、大真面目に考えた後に、ふっと笑ったらいいかなと、私はそう思う。
もしも僕がいつか君と出会い話し合うなら
そんなときはどうか愛の意味を知ってください